2014年2月14日金曜日

1985年頃の演劇と深浦加奈子――ノート6

 「鬣」第30号に掲載された。

 前号佐藤清美さんの「芝居はお好き?」を読んで、わたしも芝居のことについて書いておきたくなった。といっても、二十年以上前のことだから、これからの観劇の助けになることはほとんどないだろう。もともと見たものの感想などをまめに書いておくたちではないので、当時の記録はない。日付と見た演目だけを記したノート、また、半券なども残してあると思うのだが見つからない。あやふやな記憶だけが頼りなので、間違いがあるかもしれないことをお断りしておく。

 実は、佐藤さんの文章を読む前に、当時のことを思い起こさせる二つのことがあった。

 一つは、映像でEGO-WRAPPIN'の中納良恵が歌っているのを見たことである。彼女の姿はわたしが見てきた芝居のヒロインを髣髴させた。当時の劇団でヒロインを張るということは、場を支配する力が必要とされた。あるいは、同じ感じを椎名林檎が歌う姿から受けてもよかったかもしれない。だが、椎名林檎は(もっと先輩でいえば戸川純)たぶんにつくられたキャラクターで場を支配している。わたしが思い起こす「場の支配」とは、無理矢理にその場の空気をねじ伏せる力強さである。

 この力が発揮されるにあたっては、劇場の問題も大きかったと思う。わたしが観た芝居のほとんどは、座席番号などなかった。例外は下北沢の本多劇場と渋谷のパルコ劇場、それに新宿の紀伊國屋ホール(西口にある旧館の)くらいだったろうか。現在と違うのは、中劇場がいまあげたくらいしかなかったし、そうした場所で公演するのはよほど成功した劇団に限られていた。一劇団である劇団☆新感線がコマ劇場の舞台に立つといったことは二十数年前には考えられなかった。わたしがもっぱら通ったのは下北沢のザ・スズナリ、アートシアター・新宿、名前は忘れてしまったが高円寺、中野、吉祥寺などにある小さな小屋だった。

 二時間前に整理券をもらい、三十分前に並んで入るというのが一般的だった。それゆえ、場所の確保が芝居を見る前の重要な準備になる。前の方が好きなので、なるたけ若い番号をもらうようにしていた。定員などあってないようなもので、わたしは客を詰めこむ手際のよさを劇団の良否の一つの指針としていたほどだ。そんな小さな場所だからこそ力ずくでねじ伏せることが可能であったし、また必要とされたのである。

 母親の仕事の関係で、一年に数回大劇場のチケットが手に入り、帝国劇場、新橋演舞場などの芝居を見る機会もあった。藤山寛美が生きていたころの松竹新喜劇、大地真央の『マイ・フェア・レディー』、中村勘九郎(いまの勘三郎)[註:この文章を書いた当時はまだ亡くなっていなかった]と柄本明と藤山直美が競演した舞台、森繁久彌の『屋根の上のバイオリン弾き』くらいがいま思いだせるところだが、小さな劇場での役者たちの力業に魅了されていたわたしは、大きな空間での役者のあり方、マイク越しの彼らの声などになじめず、だいたいは必ずついているお弁当とビール、それに小さな小屋では考えられないふかふかの椅子にすっかり安らかな気持ちになって眠ってしまうのだった。いい意味でも悪い意味でも大劇場の芝居にはルーズさがあって、定番を見る安心感が役者と観客に共有されていたように思う。いまでも印象に残っているのは、森繁久彌の『赤ひげ』で、息子役は竹脇無我だった。息子は長崎で最新の医学を学んで帰ってくる。そして、旧弊なやり方を守っている父親である森繁久彌の赤ひげ先生とことあるごとに衝突する。しかし、いつしか息子は父親の仕事を認め信服するようになる。わたしはこの芝居を見ていて、眠るのも忘れて狐につままれたような気分になった。わたしにはこの息子が父親の仕事を認める理由がさっぱりわからなかったのだ。黒澤明の映画版(こちらでは父親が三船敏郎で、息子が加山雄三)がどうなっていたかよく覚えてないし、芝居の細部を覚えているわけでもないのだが、とにかく、転機となるようなさしたる出来事もないまま、さっきまで少しも父親を認めていなかった息子が次の瞬間には恐れ入っており、不条理劇でも観ているようだった。それでも観客の間から驚きの声があがることもなかったので、葛藤は解消されるべきだというルーズな原則が演出・俳優と観客との間に共有されていたと考えるよりない。

 当時のことを思い起こさせたもう一つの出来事は、深浦加奈子の死の知らせである。その前に、わたしが芝居にのめり込むきっかけとなったことを書いておこう。

 わたしのなかで芝居に通うというモーターが回り始めたきっかけははっきりしていて、状況劇場を観たことである。新宿の花園神社に設置された赤テントで『新・二都物語』(作品リストによると一九八二年のことになる)を見た。楽日の前日に見たのだが、あまりに興奮したので、次の日の楽日にもう一度行った。この芝居のラストは、いかにも状況劇場らしく、饒舌な言葉と強烈な情念で凝縮され煮つまるだけ煮つまったものを一挙に解放するかのように屋台崩しによって舞台の背景が崩れ落ち、その向こうに夜の新宿が広がるのだった。楽日では、そのラスト・シーンで何らかの不手際があったらしく、屋台崩しがうまくいかなかった。舞台裏で飛びかう怒号を聞いて芝居というものの臨場感を感じそれもまた嬉しかったものである。後になって、根津甚八や小林薫が出ていたころの状況劇場が見られなかったことに歯噛みをしたものだったが、この時期の状況劇場も、李礼仙はもちろん、不破万作、六平直政、金守珍、佐野史郎などが揃っていたのだから豪勢なものだった(実は佐野史郎の印象はあまり残っていないのだが)。俳優としての唐十郎の魅力も大きなもので、ここはわたしなどより澁澤龍彦の言葉を引いておこう。

唐十郎の目は、さて何と言おうか、人間的感情の発散を塞きとめた、ガラスのような無機質の光を放った目なのである。思うに、「汚れちまった悲しみ」を見てしまった人間は、それ以後、こういうガラスの目で生きることを運命づけられるのであろう。唐作品に特有な、あの少年時代の冒険と悲劇の体験を再発見しようとする、身をよじりたくなるようなリリシズムとロマンティシズムの衝動は、こういう目の中で結晶するのであろう。
                  「愛の南下運動を記念して・・・・」

 それ以前に見た芝居といっては安部公房スタジオ、山崎努主演のアラバールの戯曲、それに歌舞伎数回というところだったが、このときから二、三年くらいだろうか、一週間に二、三本の芝居を観ることが続いた。整理券の番号順に並ぶと、色々な劇団の劇団員がチラシを配りはじめる。多いときは二十枚くらい貰ったと思う。それとシティロードという雑誌(ぴあのような情報誌だが、どこでなにをやっているかという基本情報以外の特集や切り口が先鋭的で、そのことは映画欄の星取り表に松田政男、中野翠、宇田川幸洋、秋本鉄次といった名前が並んでいたことからもうかがえよう。この雑誌は廃刊になったが、その雰囲気はいまも出ているテレビブロスに近い。)を頼りに、毎月どの劇団が何日から何日までどこで公演をするのかをチャートにしたノートをつくり、何曜日になにを見にいくか決めてせっせと通っていた。この間、状況劇場の芝居には欠かさず通った。若手公演では作家の島田雅彦がゲストで出演していて、海パン一丁で身体をくねくねさせながら台詞を妙な調子をつけながら発していた。

 ちなみに言えば、寺山修司主宰の天井桟敷は見ずに終わった。その昔寺山修司が状況劇場の公演の際、冗談で贈った葬式用の花輪に怒った状況の劇団員が天井桟敷に殴り込みをかけたことなどもあり、ライバル・敵対関係にあるといった雰囲気がまだあった。寺山修司が死んだのが一九八三年の五月で、死の直前まで演出に携わっており、天井桟敷の最後の公演となった『レミング』のことはよくおぼえている。見もしなかったのにおぼえているというのも妙な話だが、紀伊國屋ホールで行なわれたこの芝居をその直前まで行こうかどうか迷っていたのだ。寺山のエッセイや対談は読んでいた(短歌は読んでおらず、いまでもほとんど知らない)。三島由紀夫との対談で、寺山がブリジッド・バルドーがカントの『純粋理性批判』をもっていたらエロチックだと思いませんか、と問いかけたのに対し、三島がそういう感覚はわかるが認めたくない、と答えるくだりなどおかしくていまでもおぼえている。しかし、『上海異人娼館』や『さらば箱船』などの映画は面白くなかった。静的なイメージの連続で、映画としての躍動がほとんど感じ取れなかったのだ。したがって、彼の演劇についても、少なくともあまりわたしが好きそうなタイプではないな、と思っていたのである。後に、この公演を最後に天井桟敷が解散してしまったとき、やはり見ておけばよかったと後悔したが、更にその後、天井桟敷の劇団員のほとんどが移った万有引力の芝居を見て、もし天井桟敷の芝居がこういう感じであったなら、やはり見ないでもよかった、と思った。寺山の映画と同じく、審美的かつ静的なイメージの連続で、状況劇場にあった猥雑さがノスタルジーに、汚い町の路地が砂漠や波荒れ狂う大海に直結するようなダイナミズムに欠けていたのである。

 話を深浦加奈子に戻そう。このように芝居を見始めたわたしが、行き会ったのが第三エロチカの『新宿八犬伝』で、深浦加奈子はそのヒロインだった。公演場所は今度なくなってしまう新宿コマ劇場の裏にあったアシベホールだった。確か『新・二都物語』を見てからそれほど時を隔てていなかったはずで、まだ他にどんな劇団があるかもわからないわたしは、第三エロチカのチラシにあった唐十郎の推薦の言葉を読んで見にいったのではないかと思う。

 こう書いて、念のためにネットで調べてみると、『新宿八犬伝』が一九八五年の公演であることがわかった。困った。どうも記憶が混乱している。どうやら『新・二都物語』を見て色々な劇団の芝居を次々に見始めたわけではなかったらしい。もしそうだとすると、『新宿八犬伝』を見たのはせっせと芝居に通っていた時期(それが二、三年だというのは確かだ)の終わり近くだということになるが、明らかに『新宿八犬伝』を見たのはそのはじめのころだったはずなのである。だとすると、状況劇場に夢中になったわたしは状況劇場の公演には毎回通っていたが、それが他の劇団にまで広がっていったのが約三年後だったのだろう。そして見る劇団を広げていくきっかけになったのが第三エロチカであったことも確かだ。

 いずれにしろ、第三エロチカは、饒舌さ、妄想によって現実を変革しようとする大胆かつ無謀なところ、作・演出の川村毅が役者として出演もするところなど、明らかに状況劇場の多くの因子を受け継いでいる劇団だった。そして、深浦加奈子は場を力でねじ伏せることのできるヒロインであり、しかもなお格調の高い美しさを崩さなかった。頬骨の高い顔はディートリッヒにも通じるような古典的な美しさをもっていた。状況劇場は李礼仙の存在感にもかかわらず澁澤龍彦言うところの「少年時代の冒険と悲劇の体験を再発見しようとする」主題が通底することもあってか男芝居の印象が強いが、第三エロチカは川村毅、有薗芳記といった個性的な男優によってますますヒロインが際だっていく芝居だった。記憶違いにうろたえているうちに紙幅がつきてしまった。続きは次回に。

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