ブラッドリー『論理学』12
第一巻判断 第一章判断の一般的性質の続き。
§12.次に、この誤りの別の側面(ii)判断においては一つの観念が主語であり、判断はもう一つの観念をこれに差し向けるものだという教義に移ろう。次の章でこの考え方は完全に捨て去られるが、それを先取りするものとして、ここでは二つの点に注意しておこう。(a)「狼が羊を食べる」という発言は、私がそれを肯定しようが否定しようが、疑おうが尋ねようが、その関係は同一である。それゆえ、判断の特異性は判断とは離れたところに存在するものに見いだされはしないだろう。特異性は主張された内容と単に示唆された内容との差異に見いだされるだろう。そこで、あらゆる判断において、一つの観念がその主張の主語だというのが正しいなら、この教義は本質的というには余りに間口が広すぎ、おそらくは見当違いなものとなろう。(b)(後に見るように)この教義は間違ってもいる。「BがAに続く」、「AとBが共存する」、「AはBの南にある」これらの例において教義を守ることができるのは、事実を無視することだけである。AかBを主語とし、残りを述語とするのは不自然である。「魂は存在する」、あるいは「海竜は存在する」、あるいは「ここにはなにもない」といった存在が直接に主張されたり否定されたりする場合も、この理論の難点が浮かびあがるのが見られる。
後は、あらゆる判断において、観念内容を主張する一つの主語が存在する、とだけいっておこう。しかし、もちろん、この主語はその内容に属したり、その内部にあったりすることはできない、というのも、その場合、主語はそれ自身に帰した観念となってしまうだろう。我々は後に、主語とは、結局の所、観念ではなく、常に実在なのだということを見ることになろう。このことをもって、我々はこの章の前半を終り、先に進まねばならない。判断の一般的な概念からある種の誤った考え方の批判にすすむのだが、網羅的というには程遠く、ある点においてはより十分な証明を後の章の議論に譲らなければならない。
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