2014年2月3日月曜日

幸田露伴『七部集評釈』8

我庵は鶯に宿かすあたりにて     野水

 一句の意味は明らかで、解釈には及ばず、その人の風流で奥ゆかしい人であることを感じるべきである。古詩に「老僧半間雲半間」というものがある。それは山住まいの人が雲と家をともにするということで、この句は鶯に家を貸す、わびて面白いのは同じである。前句とのかかりは、野に米を刈る人をうち見ている人をつけたもので、鶯が空を飛ぶのを稲刈る人が仰ぎ見たというのではない。日のちりちりの夕方、鶯が飛んでいくというのは、農村の実景である。鶯が夕暮れの空を飛ぶのは普通のことで、その人がらは自ずから明らかである。もし「我家は鶯の寝に行くあたりにて」とあれば、山に住む神主とも感じられ、「我家は鶯の寝に来るあたりにて」であれば、湖近くの漁小屋とも感じられる。先人がこの句について、詞使いを説くのは非常にいいことである。景色のいい水辺で、和尚のような身なりをした楽隠居が、少しは物に凝った風雅な家に住んで、歌俳諧などに心を寄せる人だと思える。

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