『鬣』第29号に掲載された。
スピルバーグの映画は二つに分けられる。
スピルバーグの映画は二つに分けられる。
一方に一言でその内容が説明できる映画がある。『ジョーズ』は鮫を狩る映画である。『追突』は車に追いかけられる、『未知との遭遇』は異星人と会う、『シンドラーのリスト』はナチスからユダヤ人を助ける、『プライベート・ライアン』は戦地から同国人を助け出す、『マイノリティー・リポート』は殺人犯と間違えられる話だ。
他方にあるのが数こそ少ないが一言ではその内容を言いあらわせない映画である。『太陽の帝国』や『A.I.』がそれにあたる。両者の中間にあるのが『宇宙戦争』ということになろうか。
これらの作品も一言で言おうと思えば言える。『太陽の帝国』は第二次大戦中、日本の強制収容所に捕えられたイギリスの少年の話である。しかし、一言で説明できる映画が、まさにその一言に言いあらわされる事柄に映画の面白さがかかっているのとは異なり、『太陽の帝国』は少年が強制収容所に収容されることそのもの(例えば、捕まるかもしれないスリル)に映画の焦点があるわけではない。病的で狂躁的ともいえる少年の感情のうねりが観客を不安定な足場に留め続けることにこの映画の素晴らしさがある。
同様に、『A.I.』はSF版ピノキオと言ってしまえば簡単だ。不治の病にかかった息子をもつ夫婦が、外見が人間と変わらず、しかも愛情までプログラムされたロボットを手に入れる。ところが、新たな治療法の発見によって完治した息子が戻ってくると、もてあましたロボットを捨ててしまう。愛情を失うことのないロボットは、人間にさえなれば母親の愛情を取り戻せるのだと考えて、ピノキオを人間に変えた妖精を探す旅にでて、水没した遊園地に立つ妖精像にたどり着く。その前で人間になることを望み続けるうちに時が過ぎ、訪れた氷河期のなかで人間は絶滅する。そこに異星人が訪れ、氷のなかで動きを停止していたロボットの少年を再起動し、彼の望みをかなえようとする。だが、異星人の力をもってしても、残された遺伝子の情報から人間を復元するのは一日が限度だという。ロボットの少年は、邪魔をする息子も夫もいない、母親と二人だけのこの上なく幸福な一日を過ごすのである。
このラストシーンは非常に美しいが、見ている者の困惑もひときわ大きなものとなる。そもそものはじめから、この人間の姿をしたロボット(『シックス・センス』のヘイリー・ジョエル・オズメントが演じている)に感情移入していいものなのかどうか、見ている我々にはよくわからないのだ。所謂母恋ものが感動を呼ぶのは、様々な状況の変化によって変わってもおかしくない人間の思いが、にもかかわらず貫かれることにある。しかし、この映画の場合、プログラムが作動しているに過ぎない。母親と息子が過ごす親密な時間は、プログラムされたロボットと一日しかもたない幻影との、いってみればどこにも人間的現実のない時間であって、その美しさに何を感じていいのかわからない我々の困惑こそがこの映画を他に得難いものにしている。
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