2014年12月25日木曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』19

      定義の必要

 状況は次のように譬えることができる。鳥の一群が、繁殖していって、非常に多様な生活の様式を発達させていった。彼らはいまでは異なった場所に異なった餌を探しに出かけ、それ故、被る危険の種類や程度も相当に違っている。また、彼らの餌を集める方法は、逃げる才能によって異なる。他の鳥よりより素早く餌をとって逃げられる鳥もいる。木で餌をとる鳥の危険と地面や水のなかで餌をとる鳥の危険とでは異なる。

 だが、彼らが未だに自分たちを同質の一団とみなし、不調和でも共にいることに固執し、同質の文化で生活していたときと同じ定位で行動しようとしているとしよう。この文化的雑駁さは彼らにどんな影響を与えるだろうか。彼らの反応は混乱に投げ込まれないだろうか。あるメンバーの注意を促す叫びは、記号としての絶対的な価値を失ってしまうだろう。木にいるグループの落ち着きは、もはや水のなかにいる鳥たちには適切な安全のしるしとはならないかもしれない。海岸で餌をとっている鳥の危険を知らせる鳴き声は、水のなかや木にいる鳥たちには同じような危険を示すものとはならないだろう。

 彼らは会話ができるとしよう。まず始めに主張されるのは、この混乱を一掃するための定義づけではないだろうか。危険、安全、餌などの言葉だけでは十分ではないだろう。正確な批評的語彙も導入されるべきだろう。どんな状況下での危険なのか、どのメンバーにとっての餌なのか、等々。羽ばたきをしたり叫びを上げたりする昔ながらの詩的な方法は威信を失うこととなろう。扇動家や愚か者だけがそうした手段に頼ることとなろう。最も知的な鳥たちは、厳密で曖昧さのない命名法の完成を主張することだろう。

 中世においては、文化的に異質な地域の間にコミュニケーションのシステムを拡大することが試みられ、特有のシンボル体系をもち学者の言語である、学問上のラテン語が発達した。それには口語体の柔軟性が欠けていた。しかし、人工的な媒体から借りることによってのみもつことのできる概念的な無感情を獲得した。そのときの状況といまの状況、多くの様々に異なる学問分野、異なった生活の様式、異なった精神病質を横断するようなコミュニケーション媒体を確立しようとしているいまとは顕著な類似性がないだろうか。前世紀の美的部門主義を経験することで、我々は広範囲にわたる手旗信号のシステム、言語というよりもむしろ用語法を生みだそうとしているのではないだろうか。

 現代の歴史家は、扱いにくく、当時においては一般的であった媒体を壊したということで、ダンテのような作家を好んで称揚する。彼が拒否した言語は、北スコットランドで言ったことと南イタリアで言ったこととが同じことを指すよう形づくられていた。学識ある歴史家たちは、この概念的な言葉(大衆の使うラテン語ではなく、神学者の使うラテン語)から、限られた地方の媒体を採用したといって彼を称讃する。同時に、今日において同じような段階を経て、特殊な経験を特有の言葉で書く現代の詩人たちを嫌うのである――そして、ダンテが捨て去ったとして彼らが称讃したのと同じ種類の媒体を完成させることに自らは進むのである。我々は彼らの不整合性を攻めているわけではない。状況は変わっている。ダンテの時代は、カトリックの普遍性が終わりを告げようとしていた。政治的な領域で、教皇党から皇帝党へと変化したことは、詩的な領域でラテン語からイタリア語へ転換したのと平行関係にある。この時点において、目的に対する国家的統一が形成され始め、口語への信望が高まるにつれて、詩的媒体が崩れていったのではなく、生じたのである。

 我々は俗語が単なる悪しきラテン語ではなく、学者のラテン語が完璧になった俗語でもないことを留意しておかねばならない。それらは二つの異なった種類のコミュニケーションのための、二つの異なった道具である。俗語は、人工的に裁ち切られた語彙が無視したような類の効果をまさしく目的としている。というのも、我々は覚えておかなければならないが、概念的な言葉というのはそれが排除し、抽象した後に残しておくものによって主たる価値が決まる。通常我々は抽象を非常に繊細な過程だと考えているが、別の観点からすれば、非常に鈍感とも考えられる。例えば、秤という抽象を考えてみると、その目盛りは一ポンドの羽毛と一ポンドの鉛とを区別できない。重さ以外のすべてを排除して判断している。

 今日の新聞の英語は、恐らくは厳密な科学的コミュニケーションを越えたところにあるテクノロジー的精神病質をあらわしている。常に情報に訴えかけることは、明らかに精神病質的な要求によって支えられており、人々は相次ぐ情報をごく低い注意のレベルでしか読んでいないので、数時間後には何を読んだのかさえ思い出すことができない。だが、情報に対する飢餓感は続き、絶え間なく与え続けられねばならない。同じ文章、同じ物語が一冊の本に何度もあらわれたらうんざりすることだろう。赤新聞やコラムニストを除けば、その散文は共通分母の上にあり、スタイルによる迎合の跡はまったく消し去られている。よりましな新聞でも、電報スタイルの真似さえ見あたらない。消去は全体に及んでいる。批評家は、マシュー・アーノルドに倣って、その作法を強調するよりもむしろ作法が欠けていると非難するのが常であるが、それでも赤新聞はある作法を得ようとしている。語の響きを愛する者は、不安を煽るような見出しの響きと調子に、ひねくれてはいるが真の喜びを得て、眼と頭だけしか使っていないような穏健な金融リポートを読もうとしても、うちとけない嫌悪感を感じるだろう。

 コミュニケーション媒体の混乱はある部分ではそれを克服する試みを生むし、ある部分ではそれを避けて通る試みを生む。人は言いたいことをそのハンディキャップなど関係なく言おうとするかもしれないし、ハンディキャップのなかで言える最良のことを選んで言おうとするかもしれない。詩人(想像力を使う作家一般)は言語的な混乱とは関係なく自分の言いたいことを言い続けるグループの代表だが、二つの不満足な解決法のどちらかに進む傾向がある。限られた精神病質を深く取り込むか、一般的な精神病質を表面的に取り込むかである。科学者や技術者は、欠点を長所に変えるグループを代表する。彼らの言葉は、スコラ主義のラテン語以上に、十分に複雑な詩的媒体としての魅力ある響きや、擬態による補強や、漠然と人間の諸状況を思い起こさせるような部分に欠けている。科学者のシンボルには、本を調べることで適切に反応できる。柔軟性に欠けていることが助けとなり、柔軟性に訴えかける必要がない。第三生産体制(科学技術的な)を合理化する言葉は、擬人的内容を低く抑えることで、擬人化への誘惑を概ね乗り越えることができる。それは機械の設計である。

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