2014年12月17日水曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』17

  .. 第四章 スタイル

      スタイルによる訴えかけの本質

 その最も単純なあらわれにおいて、スタイルは迎合行為である。「正当なことを言う」という催眠的、暗示的過程によって好意を得ようとする試みである。明らかに、正当なことについて同意がある場合に最も効果的である。遠慮なくものを言う者たちは、異なったしゃべり方をするように育ち、過度に丁寧で自分たちと違い、命令するときでも疑問の形で述べる(「これをしろ」と言うときに、「これをしていただけませんか」と言う)人間を信用しないだろう。「後ろ暗いところがある」と疑いさえするかもしれない。逆に、彼の方では、彼らが精一杯謙遜を示しているときでも、無遠慮なものの言い方が自慢めいていると考えるかもしれない。丁寧なものの言い方をする者が丁寧な聞き手に迎合したり、無遠慮な話し手が無遠慮な聞き手に迎合するやり方で自分とは異なるグループに向うと、スタイルはうまくいかないことになろう。

 アルコールの経験を積んできた者たちは、暴れ回っている酔っぱらいにどうやって近づき、感傷的な友情を暗示し注意を向けるのに「丁度あった」言葉と調子でどう働きかければいいかわかっているものである。そのあからさまな結果が過程を最も明瞭にあらわしている。そこには、詩人が聴衆に自ら望んだ精神状態を生みだすときと同じスタイルや迎合行為があった。私としては、マシュー・アーノルドがこの仕事をする姿を見たくはない。彼がしたのではあまりに露骨になってしまうだろう――彼が積んできた訓練はなんの役にも立たないだろう。住居の移動が当たり前の今日のアメリカでも、隣人が出会ったときいつでも細部に至るまで正確に繰り返される地方独特の言葉のやりとり、挨拶、身振り、声の調子のパターンに行き合うことができる。確かにこれは単なる鸚鵡の繰り返しではなく、正しいことを言うことによって互いを受け入れるためのスタイルなのである。

 エチケットとはフランス語ではラベルのことである。ビン、箱、包みに内容や価格を示すためにはり付けてあるもの、とラルースにはある。もちろん、そこから派生して、宮廷儀礼や礼儀の形式などを示すようになった。かくして、明らかに、社会において生き方、物事のやり方、考え方などが同質になればなるほど、ラベルも同質になり、芸術家は自分の目的のためにますますそうしたラベルを用いるようになる。

 1925年から1929年の「新時代」の間に、エミリー・ポスト夫人の著作が数十万冊売れたときには、自信をもってある文学における「スタイルの問題」を見ることができる。その文学には、馬鹿げたほど不適切なラベルを使って酔っぱらいを鎮めようとする頼りないマシュー・アーノルドの姿もあるだろう。経験に対する鋭敏な感覚を示し、各状況で望んだ反応を生みだす適切なラベルを駆使する強靱なハードボイルド作品もあろう。命令によってラベルを確定しようとする皮相な試みもあろう。強いられた感情や温室育ちの優雅さ、芸術におけるプロレタリア運動を朝までには仕上げようというような性急さ。

 もちろん、豊穣で詩想あふれんばかりの詩人によって、正しいことを言うという訴えかけがなされると、非常に冒険的な探求になる。シェイクスピアは順応がどれ程広範囲においてなされうるかについていくつかの例を示している。例えば、『ジュリアス・シーザー』では最も直截的なラベルによって陰謀者を陰謀者として示した。彼らは袖を引き合い、囁きを交わし、善意を装い、嵐のなか夜の暗闇の妖気が漂うなかで会合する。『リア王』では、コーデリアのような登場人物の性格がより精妙な形での取り入り方を示している。シェイクスピアは最初に、いかにひどく彼女が誤解されているかを示す。さて、観衆のなかで善意があってしかも誤解されていないような人間などいるだろうか。それ故、劇作家が必要とし目的とする如く、コーデリアに向けて心を開かない者などいるだろうか。ド・クインシーは『マクベス』を注釈して、シェイクスピアが更に深くまで行けることを示している。マクベスによる王の殺害を描き終わり、門でなる不吉なノックの音を聞かせるとき、私的で苛酷な良心を打ちのめす音が客体化され、内的出来事と外的出来事とが混じり合い、我々は単なる目撃者としてではなく、参加者として殺人に巻き込まれることにならないだろうか。ラベルが追従的に用いられるのでは全くなく、最も大胆な精神によって最上の活用がなされているが見て取れよう。

 こうしたラベルの構造が損なわれると、それに応じて、コミュニケーションでの重宝さも損なわれる。問題を提示することでは催眠にはかからない――反応を誘うベルを鳴らすことで催眠にかけるのである。変化、異なる仕事、不安定な予期は、そうした連鎖の範囲、性質、持続に根本的な意味合いをもつ。地理的な移動、社会層の崩壊、文化的合併、「新たな問題」の導入――詩的媒体に逆らって働く数多くの要因がある。人々がチャーリー・チャップリンの演技を非常に喜ぶのは、彼の正確なパントマイムのスタイルが社会的な混乱を乗り越えるところにあるのだろう。彼の表現は、常にそこにある身体の確実性、精神的姿勢と身体的姿との変わることのない相互関係に基づいているために、普遍的とも言える意味合いをもっている。

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