読者は、ヴェブレンの訓練された無能力という概念がデューイの職業的精神病質と全く同じように扱えることに気づかれたかもしれない。ヴェブレンの用語と入れ替えることで、より明瞭に職業パターンの両義的な性質を見て取ることになろう。実際、デューイは最初は、民俗学者の間で、野蛮人の思考が西洋的思考パターンをとることに「失敗」した例として論じられる傾向に反対する目的でこの用語を提案したのだった。デューイは強調点が逆にされるべきだと考えた。調査者は、その思考パターンを自分の仕事で野蛮人たちと協力するために発達させた実際的な道具と考えるべきである。この観点から見ると、西欧人が野蛮人のように考えることに失敗しているとも言える。デューイの概念は、ヴェブレンがあからさまにした両義性を暗黙のうちに含んでいる。
いかなる行為も、それが達成したことと失敗したことのどちらからも議論できる。わかりのよさは表面的だと言えるし、徹底は限定として、寛容は不確実さと論じうる――魚の歩行者としての貧弱な能力は、泳ぎ手としての優秀性によって説明される。ある見方はそれ以外を見ないための方法でもある――Aという対象に焦点を当てることは、Bという対象を無視することを含んでいる。この理由から、デューイとヴェブレンの用語は交換可能だと考えられる。しかしながら、我々の次の論題には、ヴェブレンのあからさまに両義的な概念の方がより役立つだろう。というのも、我々はコミュニケーション媒体を論じ(「主導的精神病質」であるテクノロジー的精神病質に影響を受ける)――その善と悪は同じコインの裏表だと考えたいからである。別の言葉でいえば、コミュニケーションの媒体を考えるに際し、その性質の欠陥と欠陥の性質を同時に示してくれるような用語を望んでいる。
テクノロジー的精神病質において前面にある理想的な解説や情報提供を思い返すと、この理想がコミュニケーションを目的とする装置としてのスタイルにいかに影響を与えているかを考えることとなろう。
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