§9.いまあり我々が見ているような主語は主語そのものではないという答えが返ってくるだろうことは確かである。ある場合には、主語は自らの性質を通じて呈示されたものを拒むし、別の場合には我々の間違いによって拒むこともある。しかし、私は、この反対が見当違いであると主張しなければならない。どちらの場合でも、主語はある意味決定されている。この決定が(それがどこからくるにしても)主語に肯定的な性格を与えるのであり、それが否定の土壌となるのである。どんな主語も、呈示されたものを単にそれではないという力でもって追い払うことはできない。それゆえ、「これではない」は「他のなにかである」を意味しなければならず、それによって不在を否定の土壌とすることができる。何ものでもない何ものでもないものはなにかである、あるいはなにかである根拠などないことには我々皆が同意することだろう。
こうした区別は我々がよって立つ原理には関係ないが、それらが重大な難点をもたらすことを私は認める。続く章のためにも、ここで我々の考えを明確にしておいたほうがいいだろう。(i)第一に、「対立」がある場合、主語が呈示される述語をはね返すのは、主語には述語が占めるだろう場所に相反する性質があり、それによって述語を排する。ある人間が青い眼をもっているなら、青という性質は茶色の性質とは両立不可能である。(ii)欠如では、二つの場合が可能である。第一に、(a)主語の概念内容のなかに、性質が収まるべき空所がある。目のない人間がいたとき、人間という概念内容には彼に目があったらそこにあるであろう場所が含まれている。この空虚は文字通りの空白とは言えない。瞼に覆われた眼窩や不自然なところのある外観を表象しなければならない。そして、概念内容そのものが目があることとは対照的なある性質を獲得し、それは無であるかもしれないが、それ自体肯定的な性格をもち、視覚という呈示をはね返す助けとなる。
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