私小説という言葉もいまではほとんど使われなくなってしまったが、もともと貧乏くさいのがいやで、ほぼ読まないで済ましてきた。
一時期、柄谷行人や蓮実重彦が、私小説を日本独自の実験小説だと評価していて、そんなものかと読んではみたがやっぱり面白くなかった。
安岡章太郎のことも私小説の作家と思ったことはなくて、そういえば蓮実重彦の『「私小説」を読む』では、志賀直哉、藤枝静男と並んで、安岡章太郎が論じられていたと思うが、志賀直哉や藤枝静男も特に私小説の作家と思ったことないなあ、と思って、いったい貧乏くさいと誰のことを思っていたのかと不安になってきたのだが、まあ、別に本気で不安になったわけではない。
安岡章太郎が1963年4月号の『群像』に「私小説の不可能性」というエッセイを書いていて、題名は異様に物々しいが、私小説と私小説家がいかなるものであるかを描いている。
要するに私小説とは、空想力にとぼしい作家が、題材を私生活のなかにとり、社会との烈しい対決もなしに、自分一個の感情のおもむくままに体験から編み出した人生観やら、感想やらをのべたてたものだといえば、それですみそうである。銭湯に昼間からやってきて、十九円のフロ銭で一時間も二時間もネバリ、若い学生などで組しやすそうなのがいると、そばへよって何となく世間話などしはじめ、やがて自分の家のグチなどクドクド話しはじめる、そんなあまり金まわりのよくない御隠居さん、これが私小説家の原型である。ひじょうに魅力的だが、問題は小説家など嘘つきばかりで額面通りに受け取れないことだ。
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