2018年7月23日月曜日

羽左衛門と吉田松陰ーー河上徹太郎『羽左衛門の死と変貌についての対話』






 谷崎潤一郎の『芸談』(昭和8年)に次のような一節がある。

劇の内容や全体の統一などに頓着なく、贔屓役者の芸だけを享楽する、と云ふやうな芝居の見方は邪道かも知れないが、私はさう云ふ見方にも同情したい気持ちがある。個々の俳優の芸の巧味と云ふものは、全体の「芝居」とは又別なものだと云ふ、――「芝居の面白さ」とは別に「芸の面白さ」と云ふものが存すると云ふ、――何とかもつと適切に説明する言葉がありさうに思へて、一寸出て来ないのが歯痒いが、まあ云つて見れば、何年もかかつて丹念に磨き込んだ珠の光りのやうなもの、磨けば磨く程幽玄なつやが出て来るもの、芸人の芸を見てゐると、さう云ふものの感じがする。そしてその珠の光りが有り難くなる。由来東洋人は骨董品につや布巾をかけて、一つものを気長に何年でもキユツキユツと擦つて、自然の光沢を出し、時代のさびを附けることを喜ぶ癖があるが、芸を磨くと云ひ、芸を楽しむと云ふのも、畢竟はあれだ。気長に丹念に擦つて出て来る「つや」が芸なのだ。さう云ふ味を喜ぶ境地は西洋人にも分るであらうが、我々の方が一層極端ではないのであらうか。

 珠でなくとも、革製品でも、木製の家具でもある程度長い間使用した者にはわかることだが、色艶は徐々についていくものではない。ある期間磨くなり、常用するなり、手入れをするなりして、気がついたときには色艶がでている。まさしく色艶の出た瞬間というのは捉えがたいもので、常にまだ艶が足りないか、もう既に艶が出ているかである。

 しかし、「珠を磨く」という例えでは、単調な繰りかえしだけが艶を生じさせるという印象をもつ。実際、多くの芸談ではいままさに艶の出る瞬間のことは括弧に入れられ、厳しい稽古のことだけが語られる。谷崎潤一郎も述べているが、昔の稽古というのは幼児虐待と紙一重で、団十郎(十一代目)の師匠(養父)は、実家の人に向い「堪へ切れないで死んでしまふかも知れないが、もし生きてゐたら素晴らしい役者になるでせう」と言って、仕込みの途中で死んでしまうならそれも仕方がないという覚悟を示したという。そうした稽古の継続の結果僥倖として色艶を出せた者が名優と呼ばれるわけである。

 この神秘的な暈に包まれた芸の本質を解析しようとする試みがなかったわけではない。例えば河上徹太郎の『羽左衛門の死と変貌についての対話』(昭和5年)などはそうした試みの一つと言えるだろう。もっとも、この一篇はプラトンの対話編を擬したもので、ソクラテス、フエドロス、プロタゴラス三名による非常に抽象的な対話によって成り立っており、実在の羽左衛門とどう関わっているかについてははっきりしない。

 実在の羽左衛門について少々述べておこう。

 十五代目市村羽左衛門は明治七年に生まれ、昭和二十年に死んでいる。若い頃はその不器用さから「棒鱈役者」と呼ばれたというし、二枚目役が中心で芸域はそれほど広くなかったというから、なんでもこなす器用なタイプの役者ではなかったのだろう。

 折口信夫はその『市村羽左衛門論』(昭和22年)で、「書き進んでから、つく/″\恥を覚える。よくも知らぬが、中村加鴈治郎を中にして、前後にゐた優人たちのことなら、或は努力すれば書けるかも知れない。全く市村羽左衛門に到つては、私の観賞範囲を超えた芸格を持つた役者だつたのだ、とつく/″\思ふ。其に、此人の芸は直截明瞭な点が、すべての彼の良質を整頓する土台となつてゐたので、そこには一つは、その愛好者の情熱を牽く所があるのだ。だから彼の芸格が、私に呑みこめぬといふ訣ではない。根本からしても、彼の芸の持つ地方性が、私の観賞の他地方的な部分にどうしても這入つて来ないかと考へた」とその観賞の難しさを述懐している。

 歌舞伎についての教養のない私には、羽左衛門の東京生れの「地方性」なるものと芸域の狭さを、例えば久保田万太郎の小説や桂文楽の落語と置き換えてみれば理解しやすくなるのだが、それがどれ程の妥当性をもつかはわからない。少なくとも、折口信夫によれば、万太郎や文楽がそれぞれの分野において新たな声を産みだしたように、羽左衛門の新しさもその声にあった。

        思想から超越した歌舞妓芝居である以上、若し新歌舞妓と云ふ語に適当なものを求めれば、羽左衛門の持つた感覚による芝居などを指摘するのが、本たうでないかと思ふ。彼の時代物のよさに、古い型の上に盛りあげられて行く新しい感覚である。最歌舞妓的であつて、而も最新鮮な気分を印象するのが、彼の芸の「花」であつた。晩年殊にこの「花」が深く感じられた。実盛・景時・盛綱の、長ぜりふになると、其張りあげる声に牽かれて、吾々は朗らかで明るい寂しさを思ひ深めたものである。美しい孤独と言はうか――、さう言ふ幽艶なものに心を占められてしまふ。此はあの朗読式な、処々には清らかな隈を作る《アクセント》――その〈せりふ〉の抑揚が誘ひ出すものであることを、吾々は知つてゐた。羽左衛門亡き後になつて思へばかう言ふ気分を舞台に醸し出した役者が、一人でも、ほかにあつたか。

 また、正宗白鳥も羽左衛門には賞賛を惜しまない。三宅周太郎との「芸談義」という対談で、羽左衛門を次のように位置づけている。

 「左団次が出て、一時、昔風の歌舞伎は勢いが衰えていた。左団次が盛んな時は、歌舞伎は羽左衛門が閑却されたようだった。しかし、彼は昔のまゝでまっておったようだ。幸四郎ほども新を志していなかった。」

 左団次とは二世市川左団次(明治13~昭和15)のこと。ヨーロッパに演劇研究の旅をしたあと、小山内薫と組んで自由劇場を創立し、イプセン、ゴーリキー、メーテルリンクなど海外の作品、日本では森鷗外、吉井勇、秋田雨雀などの作品を舞台にあげた。その一方、鶴屋南北を復活させ、岡本綺堂や真山青果らと新歌舞伎をつくりあげようとした新劇と歌舞伎の垣根を越える革新的な演劇人だった。羽左衛門にはそうした改革の鋭さはなかった、というのである。

 「三木竹二さんによく聞いておったけれども、羽左衛門は、彦三郎は若いとき、竹三郎と云っていたところの、面影があるといっておりました。羽左は昔の江戸の世だったら非常に人気があった筈だ。羽左は、五代目よりもこせこせしたところがなかったし、ぼうっとしたところがあった。彦三郎の方が五代目以上の風格を持っておったそうだが、羽左は五代目に学びながら、却って、知らない彦三郎の趣きを出していたのじゃあるまいか。」

 ちなみに三木竹二は森鷗外の弟である。彦三郎というのは、羽左衛門とほぼ同時期の六世板東彦三郎(明治19~昭和13)ではなく、五世板東彦三郎(天保3~明治10)である。五代目というのは五世尾上菊五郎(弘化1~明治36)のこと。五世菊五郎は五世彦三郎の演出を継承するところが多かったという。つまり、羽左衛門は五世菊五郎に学びながら、直接には知ることのない五世彦三郎の芸を継承していたわけである。二人の意見では、羽左衛門の真面目は『近江源氏先陣館』の盛綱、『源平布引滝』の実盛など生締物(実在の人物を演じること。油で棒状に固めた生締という鬘を用いるところからこう呼ばれる)にあった。

 そして、白鳥は「実盛を見に行ったときは、年代からいっても、羽左衛門は実に歌舞伎の持つ魅力、歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力を与えていた。昔の役者のそれを彼は備えておった」と絶賛している。

 もっとも、正宗白鳥よりはやや年上で、歌舞伎役者に多く知り合いをもつ家に生まれ、二歳のときに始めて芝居を見物、十八歳からは劇評を、その後歌舞伎の脚本まで書くことになった岡本綺堂(白鳥は明治12年、綺堂は明治5年の生まれ)によれば、真の歌舞伎は羽左衛門の登場より遙か以前に滅びていた。

 五世尾上菊五郎、九世市川團十郎が相次いで死んだ明治三十六年がその時であった。「今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく云へば、真の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと云つてよい。その後のものは稍々一種の変体に属するかとも思はれる」(『明治の演劇』)と綺堂は書いている。

 岡本綺堂の「真の歌舞伎劇」とはどういったものを指すのだろうか。綺堂は菊五郎がその晩年(明治33年)勘平を演じたときのことを記している。『仮名手本忠臣蔵』四段目の裏として書かれた清元「落人」の道行の勘平である。菊五郎は五段目、六段目の勘平は数多く演じたが、道行の勘平はこのときがはじめてだった。

 楽屋の菊五郎は、「役者が五十七になつて、道行の勘平が初役といふのも可笑しいぢやありませんか。まあ、若い者の御手本に遣つて見せてゐるやうなもので、おそらく終り初物でせう」と言っていたという。そして、実際、最初で最後になったのだった。

今日でも踊の素養のある俳優は沢山ある。寧ろ菊五郎以上に踊れる俳優もあるらしい。それにもかゝはらず、どうも彼の道行の勘平のやうな柔かみのある舞台をみることが少い。ふつくらとした柔かみ――それを現代の人に求めることは、些つとむづかしい註文であるかも知れない。勿論、単に作物の価値からいへば、おかる勘平の道行のごときは、江戸の作者がお軽に箱せこなどを持たせて、宿下がりの御殿女中等をよろこばさうとした、一種の当込みものに過ぎないのであつて、竹田出雲の原作の方がすこぶる要領を得てゐるのであるから、それが舞台の上から全然消え失せたとしても、左のみ惜しいとは思はれないのであるが、前にいふやうなふつくらした柔か味のある舞台――それを再び見ることがむづかしいかと思ふと、わたしは一種愛惜の感に堪へないやうな気がする。と云つて、今のわかい俳優達のうちに、一生懸命になつて今更おかる勘平の道行を研究する人があるべき筈もないから、たとひそれが舞台にのぼせられる場合があつても、単に一種の踊のお浚ひに留まつて、わたし達が五代目菊五郎の舞台から感得したやうな云ふに云はれない柔かみと云ふやうなものを味ふことは出来まい。観る人もまたそれを要求しないかも知れない。一体に芸の柔かみと云ふやうなものは、需要供給ふたつながら近年著るしく減退したらしいから、今わたしが書いてゐるやうなことも、現在では殆ど問題にならないかも知れない。それであるから、むかしの人はそれらを非常な問題にしたものであると云ふことを、今の人たちの参考までに書いてみたのである。

 綺堂の言う菊五郎の「云ふに云はれない柔かみ」は、白鳥が昔の役者がもっており、羽左衛門にいたって再びあらわれたと言った「歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力」とさほどの変わらないようだ。どちらの役者も、各役柄に関する型の完成の上に、独特な存在の風味をもたらした。

 恐らくそれは、いま我々がテレビなどで役者の私生活の一端を知り、それを舞台上の姿に安易に結びつけることで生じるその役者の「キャラクター」とは似て非なるものに違いない。岡本綺堂が「ふつくらした柔か味のある舞台」と言い、正宗白鳥が「歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力」と言ったことに注意しよう。そこでは、菊五郎や羽左衛門という個人ではなく、歌舞伎そのものが光り輝いていたのである。

 大して知識のない歌舞伎の、しかも一度も眼にしたことのない役者について語ることには、手袋をはめた手で靴の上から痒いところを掻くかのようなまどろっこしさを覚えないわけにはいかない・・・と思っていたが、NHKの歌舞伎の歴史を振り返るといったたぐいの番組で、羽左衛門の姿を一度見たことがあるのを思い出した。細かいことは忘れてしまったが、殿様かいずれにしろ侍の役だったが、もちろんモノクロで、劣化がひどかったので、言葉も聞き取れなかった。

 とにかく、生身の羽左衛門のことはこれまでにして河上徹太郎の『羽左衛門の死と変貌についての対話』に戻ることにしよう。

 ところで、この一篇を読むためには、羽左衛門がどんな役者であったか最小限の知識を仕入れておくとともに、この頃(昭和5年前後)、つまり初期の評論において、河上徹太郎がどんなことを問題にしていたかについても知っておく必要がある。

 この対話は、プラトンの対話篇を擬したというよりは、プラトンを擬したヴァレリーの対話篇を擬している。プラトンの対話篇にあるような日常会話から哲学的会話への緩やかな傾斜もないし、プラトンでしばしば登場するそれまでの議論を整理要約する人物もいない。対話というよりは、ソクラテス、フエドロス、プロタゴラスの三人が共通の観念を精錬していく過程を辿ったものだと言える。それゆえ、この共通の観念をわかっていないと対話はいたずらに難解なものにとどまるだろう。

 ちなみに、河上徹太郎が恐らく生涯でただ一度アクロバティックなレトリックを駆使したこの「対話」を、吉田健一が河上の代表作の筆頭に挙げていることを申し添えておこう。

 「ここで語られてゐる運動といふものの性質、その運動が氷河の流れの形を取つて放つ光芒、又心理と物質の交錯としての持続の分析、又認識の果てに人間の精神を待つてゐる眩暈、或は要するにさうした事柄がこの文章で手で確められる感触を日本語によつて得てゐることはこれが日本語の歴史の上での事件であるとともにどこのものでもなくてどこのものでもある言葉の世界に対する寄与であることに就て疑ひの余地を残さない」(『交友録』)と吉田健一は書いている。

 この作品と対になり、それを別方向からより散文的に表現しているのが同年に書かれた『自然人と純粋人』である。そこで特徴的なのは、河上徹太郎が後にも繰りかえし論じることになる西欧の作家たち、ドストエフスキー、ジッド、ヴァレリー、ヴェルレーヌなどに並んで「忠臣蔵六段目」が引かれることにある。この引用は、ドストエフスキーの手法、それを方法論にしたジッド(「手の理論をば眼の理論にした」)への言及に続くものであり、唐突な印象さえ与える。

 かう考へて来ると、発生的には自然芸術である我が歌舞伎劇の、現代の我々に及ぼす感銘も容易に論結出来るのである。殊にドストエフスキーの中で最も二義的な時空の制約を帯びた『悪霊』の如き作品と、純粋な戯曲作法の論理の最も複雑した「忠臣蔵六段目」の如き舞台を比べて見給へ。前者が時間的に行つた「色」の理論が後者にあつては空間的に行はれてゐるのである。この舞台へ現れる途方もなく一徹な人々が私の頭の中で交錯諧調して、フランクの音楽の半音階的進展の如く、あらゆる人間世界を展開するのである。殊に俳優の型、その他歌舞伎特有の種々な形式は、人物が実在的なものでなく、却つて人間の要素であることを我々に示す。今や前掲の松王に注ぐ涙は、徳川時代には自然であるが現代では純粋である。こんなこじつけともいへる比較をするのも、只私は自然が如何にしてその儘純粋になるか、及び、純粋は如何に所謂「唯心的」なものではなくして唯物的なものかが感じて欲しいのである。

 ドストエフスキーの「色」の理論とは、自然あるがままの人間から抽象された型を色とし、それを三色刷りのように画面の必要な場所に塗ることによって、最終的に一幅の絵を完成させるドストエフスキー特有のリアリズムである。だが、それと「忠臣蔵」にどんな関係があるのだろうか。

 勘平が自分が義父を撃ち殺したと思い込み、同志たちにも責められて切腹した直後、それが誤解だとわかるのが忠臣蔵六段目である。勘平の住まいという閉ざされた場所で、仇討のために身を売ったおかるに対する感謝、義父を殺したのではないかという不安と恐れ、姑の疑い、同志たちの勘平に対する怒り、切腹にまで追い詰められていく心理の傾斜、誤解とわかったときの同志たちの驚き、切腹の苦しみのなかで仇討の連判状に加えられると知ったときの勘平の喜び、同志たちや姑の判断を誤ったことに対する自責の念などが空間のなかで交錯する。

 しかし、それは写実的に、あたかも実在の人物の感情の発露であるかのように演じられるから印象的なわけではない。そうしたリアリズム演劇ではなく、旧態依然に見える歌舞伎にドストエフスキーやジッドとの類縁性を見て取っているのがここでの河上徹太郎であり、掛け離れているかに思える彼らに共通するのは「型」への執着であり信頼である。

 「型」は、役者が伝統的に受け継いできたものだけを意味するのではない。例えば、コメディのチャップリンやキートンやマルクス兄弟、西部劇のジョン・ウェイン、ミュージカルのフレッド・アステア、座頭市の勝新太郎、やくざ映画の高倉健等々、いずれも独特な「型」を産みだしている。それらが「型」である所以は、一度でもその映画を見た者にとっては、例えば、座頭市の勝新太郎といえばその立居振舞を思い描くことができ、上手い下手は別として真似できることにある。

 だとすると、「型」とは、もはや役柄にも限定されないものとなるだろう。つまり、勝新太郎が演じる盲目で凄腕の按摩、高倉健が演じる義理人情に篤いやくざと限定されることなく、俳優自体がどんな映画や演劇に出て、どんな役割を演じようと同じ存在の風味を発散させていることもある。例えば、ハンフリー・ボガード、ジェイムズ・スチュアート、クリント・イーストウッド、三船敏郎、高倉健、北野武などはどんな映画にどんな役で出ても彼ら独特の立居振舞を刻印している。

 役者や演技に限定することもなかろう。落語に出てくるような火消し、大工、隠居、与太郎、やくざ、遊び人などは多かれ少なかれ我々のなかに「型」として残っている。それゆえ、なにがしか彼らの生活を思い浮かべることができ、そうした「型」に従って生活を律する者もあるかもしれない。

 ここまできてようやく「自然人と純粋人」から、「型」について述べられたもう一箇所の部分を引用することができる。

         通行人が街頭で、警笛勇ましく火事場に向ふ消防隊を見るとき、思はず一種の美的な感動を感じる。この時消防夫は自然人の抽象であるが、見物人の頭の中では既に消防夫といふ概念は他の如何なる概念を以ても置換出来る物的材料となり、只消防夫の「型」が残る。しかもその型は消防夫一般が齎す美的概念ではなく、さつき見たあの消防夫の型の残した心象である。この時その心象は純粋現実となり、この見物人の憧れは自我の中にある純粋状態に対する憧れとなる。自然人はかくして純粋人に憧れる。

 消防夫は「純粋人」としてあらわれるが、河上徹太郎の言葉で言う「自然人」で、自分のやるべきことをしているだけであり、「型」のことなど意識していない。「純粋人」=「型」があらわれるのは「自然人」を認識する者の側だけなのだ。

 それゆえ、先の例で言えば、実際の火消し、大工、隠居等々は「自然人」であり、彼らが「型」として姿をあらわすのはただ落語家の話術のなかだけである。

 また、俳優の独特の存在感なるものは、初めは天性の「自然人」としての発露であるかもしれないが、それを「型」として認識し、洗練させていくのでなければ、スターとして何年も君臨できるものではない。

 例えば、市川雷蔵とともに白面の美男子として売り出した勝新太郎は、当初から独特の存在感をもっていたかもしれないが、それを認識し、より効果的にその存在感を表現できるものを求めた結果、座頭市や『悪名』シリーズの愛嬌のある暴れ者という「型」を手に入れた。

 ここに至って、河上徹太郎にとって市村羽左衛門という存在がもつ意味合いが見えてくる。羽左衛門は、谷崎潤一郎が「芸談」のなかで語っていたような、虐待同様の訓練を受けた末に芸を身につけ開化させる旧来の名優タイプではなく(彼らは「自然人」だと言えよう)、行為者であるとともに偉大なる認識者でもあるような新たなタイプの俳優である。

 その点で、羽左衛門の華やいだ存在感を称揚した折口信夫や正宗白鳥と河上徹太郎は一線を画している。そして、若い頃には「棒鱈役者」と呼ばれ、第一人者となってもそれほどレパートリーが多くなかった「不器用さ」にこそ羽左衛門の強みを見いだしているところに、『羽左衛門の詩と変貌についての対話』の白眉があろう。結末近くのフエドロスとソクラテスの言葉である。

        フエドロス さうだ、余り眼が明確に見え過ぎることが画家にとつて時に却つて妨害となる如く、余り四肢の運動筋を支配出来過ぎることは、俳優を錯乱させるだけでなく、彼の現在の行為を過去に押しやり、希望を習慣に変じ、表現を解析に封じ込める。不器用の必要はここにある。それは俳優と役との間を不断に隔離し、俳優の意向を常に同一角度に向け、彼の生の悦びを保証するものである。プロタゴラス君、羽左衛門の不器用を飲み給へ。然しこれが豊醇に見えるのは、これの功績の結果、彼の全存在の徳がこれに帰してゐるのであつて、決して不器用に伴ふ必然的な作用ではない。印刷のずれが時に両面を傷つけないでその立体性を示す効果がある如く、彼の不器用は常に彼自身と或る間隔を保ちつつ却つてその存在を確保する。        ソクラテス すべての衝動がすべての肉体に騎乗して遂にその窮極に達し、不器用さに臨んで夕映の空の如く歌を歌ふに至るとき、不器用さは彼自身より出でて如何なる小想念を以てもその全体を置換し得べき状態に達する。その時彼はもはや羽左衛門の不器用ではなく、与三郎の不器用となる。人が性格と呼ぶものはこれである。不器用は聖者の如く呟く。然し彼は自分が円いか四角か知らない。人が彼を無視し修飾することは容易だ。然し彼は雲の如く生まれた時を知らず死を恐れない。人が彼をその名で呼ぶとき彼は常に自分は外の名だと思つてゐる。

 そういえば、「聖者の如く呟く」「不器用さ」が河上徹太郎の作品の一貫したテーマだったと言える。忠臣蔵六段目は、まさしく各人の不器用さが角突き合わせて身動きできないような緊迫感をもたらす場面だった。ヴェルレーヌから始まり、『日本のアウトサイダー』で取り上げられた様々な人物、萩原朔太郎、中原中也、岩野泡鳴、河上肇、岡倉天心、大杉栄、内村鑑三など、河上徹太郎の取り上げる人物は「全存在の徳」をもって自らの「不器用さ」に対峙した者たちの列伝となっている。そして、その最大の例証が河上が唯一モノグラフをあらわした吉田松陰ということになろう。

 歌舞伎には伝承された「型」があり、凡庸な役者は師匠に教えられた「型」を教えられた通りに身体に覚え込ませることで満足する。彼に見えているのは運動の「型」だけだ。ところが、羽左衛門が認識するのはある人間の全存在がかかった「型」であり、演じるとは自らの全存在をそこに注ぎこむことである。

 それゆえ、大いなる認識者であるといっても、ブレヒトの俳優とは異なっている。ブレヒトの俳優はいまここで行われていることが舞台の上の出来事であることを観客に隠そうとはしない。役に対する解釈を示し、観客に作者や俳優とともに考えるように誘いかける。

 ところが、全存在を投入し、与三郎と渾然一体となった羽左衛門には、解釈を許すような役との解離は存在しない。観客は「これと共に流れることだけが許されてゐる」。

 その意味で、「羽左衛門の死と変貌についての対話」の最後、ソクラテスの言葉に見られるように、羽左衛門の「芸には後継者がない」。それもそのはずで、人の全存在など継承されるはずがないからである。もし継承されるものがあるとすれば、それは役に対して全存在を投入するという姿勢だけであって、その結果あらわれる「型」はそれぞれ異なったものとなるに違いない。

 『自然人と純粋人』からの引用でも明らかなように、「型」は舞台の上に限られるわけではない。ただ舞台が、特に能、狂言、歌舞伎といった伝統芸能が同じ演目を繰りかえし演じることによって、典型的な人物を「型」として洗練させていった結果、「型」が現実の世界より見やすくなっているに過ぎない。

 実際には、舞台の外でも、火消しに走る消防夫にも「型」はある。しかし、なにが「型」を産みだすのだろうか。消防夫の例が引かれていることが象徴的に思える。

 消防夫は江戸町火消しからの連想を伴っている。彼らは独特の生活習慣をもち、威勢のよさ、心意気、潔さなどを理想として奉じていた。火消しであることは、単に消火活動に従事することではなく、いわば全存在をある価値観に投じることだった。

 そう考えると、「型」がどんどん消滅していることは明らかだ。投機家や事業家は「型」にはまらないよう工夫することで事業を拡大する。つまり、共通の価値観の裏を掻こうとする。伝統的に続いてきた小社会、伝統芸能、宗教家、やくざなどにおいても、もはや共通の価値観に奉じるなどということは少なくなってきた。

 この意味でも、ある種の理想型として「型」を論じた河上徹太郎が、「不器用な」人物に対する愛着とも相俟って、吉田松陰にたどり着いたのは必然性のあることだった。

 というのも、「武と儒による人間像」という副題にある通り、松陰が『葉隠』や山鹿素行に発する士道と、儒教とが交叉する地点に立てたほぼ最後の世代にあたる人物だったからだ。

 確かに明治期のなってからの内村鑑三や河上肇などにも儒教的教養や武士的ピューリタニズムが認められる。しかし、既に儒教的教養は反時代的であり、武士的ピューリタニズムは、危急の際の死を常に意識しながら生活することを理念としてはもちながらも、なにかことが起きればそうした危急の事態を招かずにはいないかつての君臣関係(赤穂浪士に典型的に見られるような)が既にないために題目だけになりがちだった。

 吉田松陰は儒教と士道がいまだ生き生きとした意味をもち、「型」を提示していた時代の一典型であった。羽左衛門が「可能性としての羽左衛門」であったと同様、ここでの松陰が「可能性としての松陰」であることは、序にある「本書の題目は傍題の方の「武と儒による人間像」といふ一般論である。しかしそれでは漠然とし、抽象的であるから「吉田松陰」の名を借りて見出しにした。丁度ヴァレリーが『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法論序説』を書いた故智に倣つたものである。」という文を読めば明らかである。

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