原作、アーサー・C・クラーク、脚本、スタンリー・キューブリック、アーサー・C・クラーク、撮影、ジェフリー・アンスワース、ジョン・オルコット。出演、デヴィッド・ボウマン、フランク・ブール。
20年、あるいは30年くらい前のことなので、記憶が正しいのかわからないのだが、映画監督の鈴木清順がまだテレビによく出ていたころ、歴史上の偉人を一人取り上げて、その生涯を紹介しながら、オマージュを捧げようという内容のテレビ番組があった。そのある回に取り上げられたのがアーサー・C・クラークであり、ゲストに鈴木清順が招かれていた。SF作家としてのクラークの先見性がたたえられているなかで、鈴木清順は、科学技術というのは所詮現実の延長なんですね、野球のピッチャーがストレートを投げようがカーブを投げようが、映画にとってはなんの関わりもないわけですよ、消える魔球でも投げてくれないかぎりはですね、その点クラークなんて人も映画とは縁のない人ですな、と番組上は賞賛されなければならない人物を終始ディスっていて面白かった。
『2001年宇宙の旅』の成立史についてはまったく詳しくないが、町山智浩などが精力的に調べたところによれば、クラークが貢献した科学的な因果性やSFとしてのストーリー・ラインに当たるものは大幅に削られたようである。そんなことより大切なのは、宇宙船や無重力空間のなかで、人間はどんな動き方をするかといった科学的な考証に当たるものだったのだろう。
およそ50年を経てみると、実に単純な構成で、食物連鎖の中程にいた人類の祖先である類人猿が、地球外生命体、あるいはその残存物である黒く直立する石版に触れることによって、武器の使用をおぼえる。その人間の祖先になるであろう猿が骨を宙に放り上げると、有名なジャンプ・ショットによって、当時は未来であった2001年の宇宙船が宇宙空間にあるさまがとらえられる。月にもまた異星人がいる証拠となる石版が見つかるというインターリュード的なエピソードが挟まり、有人木星探査機に舞台は変わり、月の石版から木星へ向けて非常に強い発信が行われていることが報告される。一方、船内ではそれとは別に、いまではすっかり定番となったテーマ、人工知能による人間への反乱が起こり、生存者は一人だけになっている。そして木星へ向かう視覚体験と、木星の衛星軌道上で遭遇した石版が引き起こしたヴィジョンとが混然となって我々を引きつける。
動物だけが存在する自然、宇宙空間、月、あるいは木星周辺、そして石版によってもたらされるヴィジョンと日常世界から遊離した映像で一貫しているという点で、コッポラが制作した(監督はゴッドフリー・レジオ)『コヤニスカッティ』やヴェルナー・ヘルツォークの『蜃気楼』に似た映像詩ともいえるし、リヒャルト・シュトラウス、ヨハン・シュトラウス、ハチャトリアン、リゲティの音楽がほとんど絶え間なく鳴り響いていることも、そうした印象を強めるのだが、『コヤニスカッティ』の音楽がフィリップ・グラスによるもので、よく言えば統一感を与え、悪くいえば単調なのに対し、原人の投げる骨から宇宙船へのジャンプ・ショットにヨハン・シュトラウスのワルツを添える転換、そして地球外生命にコンタクトするという恐ろしく単純な話を最後まで見事な映画として見せたのだから、キューブリックがクラークをさんざんディスった映画ともとれないわけでもない。
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