原書は1965年にフランスのガリマール社から刊行されている。
翻訳の副題は「幻想絵画試論」で、その通り、絵画にあらわれた幻想が中心に扱われている。
カイヨワはシュルレアリストたちとも近かった人物で、メキシコに飛び跳ねる豆があり、アンドレ・ブルトンがその驚異を楽しんでいたところ、豆を割って中を確かめるよう主張し、ブルトンの不興を買ったという有名なエピソードがある。飛び跳ねる豆はいまではテレビなどでも時々紹介されていて、蛾の一種が卵を産みつけるらしい。
この本のなかで幻想は次のように定義されている。
幻想とは、可能事が無限にあるから生じるのではなくて、可能性が、いかに膨大ではあっても最終的に限られていてこそ、はじめて存在しうるものである。数えつくせるものがなく、固定したものもないところでは、つまり、可能性に限界がなく、可能事が数えつくせないようなところでは、幻想そのものも存在できない。あらゆることがいつなりと起こりうるのであれば、何ものも驚異的ではなく、いかなる奇蹟といえども人を驚かすことができない。逆に、たとえば、未来は過去に影響を及ぼすことができないといったたぐいの、万古不易とみなされる秩序の中でこそ、この法則に背反する出来事が、我々の不安をかりたてずにはおかないのである。(翻訳書傍点)
しごくまっとうな定義であって、対極にあるもの同士が合致するような「至高点」を求めることこそがシュルレアリスムの目的だと断じたブルトンとは対照的である。至高点とはいまだ到達しえぬ、あるいは到達可能であるかさえわからない仮構の超越的なものであり、そこに至る運動においては「日常的な不変恒常性」などは巨大な渦のなかに巻き込まれてしまい、「現実」の輪郭が崩れ去るような革命であるからだ。
ブルトンの絵画についての著作が『魔術的芸術』と題され、現実を改変する力に力点が置かれ、『黒いユーモア選集』が文学において、自覚せぬままシュルレアストであった人物たちの系譜を掘り出しているように、絵画の歴史におけるシュルレアリストたちによるありうべきもう一つの絵画史を書こうとしているのに対し、カイヨワは、ちょうど別の著作で、自然界が生み出した「幻想的な」動物ともいうべき『蛸』について論じたように、正統的な絵画史を覆そうとしているわけではない。
しかし、実は私にとってこの本を忘れがたいものにしているのは、これまで書いてきたこととはほとんど関係がなく、ある一枚の絵画のせいである。ルーアン美術館にあるというナンテ・エヴァリスト・ヴィタル・リュミネー(1821-1896年)という画家による『ジェミエージュの苦刑者たち』がそれである。
「今日ではほとんど忘れられてしまった」というこの人物を、特に西欧絵画に詳しくない私が知ってようはずもなく、名前さえ憶えていられないほどなのだが、カイヨワによれば、「苦刑者」と訳されたenerveは通常の意味は「無気力な」「いらだった」であるが、まれな意味として「膝の腱を焼いて神経の働きを殺す刑を受けた」があるらしい。そして、この絵はそのまれな例を描いているのだが、刑そのものが描かれているわけではなく、日が暮れていこうとする夕方の黄色い光線のなかで、遠く岸を望む川の舟の上に、刑を受けたらしい身分の高そうな二人の男が横たわっているのだが、頭が埋まってしまいそうな大きな枕と水面まで届く掛物のせいで、大河のなかに寝台があるとしか思えず、奥にいる人物は目をつむっているが、手前には無気力ななすすべのない若者が、どこを見るともなく半ば埋まった頭を枕で支えながら首を起こしており、その空虚な顔つきが水面のさざ波と黄色い光との間でゆるゆると干渉しあい、かつて見たことのない複雑なひだを折り重ねて、ゆらゆらが伝わってくる。
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