2018年5月10日木曜日

17.過激な中庸――吉田健一『交遊録』



 1974年新潮社から刊行された。雑誌『ユリイカ』に昭和四十七年七月号から翌年の六月号まで十二回にわたって連載された。

 取り上げられているのは、目次そのままに書き出せば、牧野伸顕、G・ロウェス・ディツキンソン、F・L・ルカス、河上徹太郎、中村光夫、横光利一、福原麟太郎、石川淳、ドナルド・キイン、木暮保五郎、若い人達、吉田茂。

 牧野伸顕は大久保利通の息子で、吉田茂の義父であるから、吉田健一には母方の祖父に当たる。

 G・ロウェス・ディツキンソンは、イギリスに留学したときの、カレッジのフェローで、あえて日本流にいえば、大学の寮長にでも当たるが、オックスフォードやケンブリッジという名門大学の場合、カレッジを中心に大学の運営がなされており、フェローは自由に研究に没頭できる名誉職的な意味合いをもつことも多かった。

 木暮保五郎は日本酒の菊正宗を醸造していた人物。

 F・L・ルーカスは、ケンブリッジの学生であったときの吉田健一が最も親炙した先生である。新潮社の『世界文学小辞典』に短い記述がある。

        (一八九四- )イギリスの批評家。ケンブリッジ大学で教鞭をとる一方、「ブルームズベリ・グループ」の一員として批評活動を続けた。精妙な鑑賞眼と優雅な文体を駆使しながら、イギリス文学をはじめ近代ヨーロッパ文学に深い造詣を示し、『良識を求めて』(五八)、『生きる芸術』(五九)など多数の作品を書いている。特に十八世紀文学にすばらしい共鳴をみせ、また近代劇に関する仕事を発表している。

 死亡年は明らかでないが、吉田健一が『交遊録』でその思い出を書いたときには既にこの世にいなかった。ちなみに、この文章は吉田健一についてのモノグラフを書き、親交のあった篠田一士によるもので、吉田健一が招き寄せた事項と言えるかもしれない。ルーカスについての最もまとまった文章は、多分、『交遊録』の一編で、この二人の、先生と生徒との具体的なつき合いがどのようなものであったかについて語られている。

 それによれば、二週間ごとに論文の題が出され、次の二週間のあいだにそれを提出し、二人きりで、先生の論評を聞いて、それについて話し合うことが繰り返されたという。 二週間毎に本を読み、論文を書かねばならないのであるから、それだけで学校のことすべてがすむわけがないことを思えばかなり厳しいものだったはずで、実際、おそろしく勉強させられましたね、と吉田健一本人が福原麟太郎に語っている。

 ルーカスの文学的立場については、二つのことが指摘できる。一つには、ケンブリッジでルーカスが担当していたのはイギリス文学だが、それをギリシャ・ローマの古典からヨーロッパ文学に渡る広範な背景のもとに捉えていたことである。「ルカスと話をしてゐると英国の文学を発見する一方ヨオロツパの文学に眼を開かれる具合になつた。カトゥルルスの名前を最初に聞いたのもルカスからだつた。サツフォの名前は知つてゐてもこれが自分が愛する女と卓子越しに向き合ふ男は神々よりも幸福であると言ひ、恋人がない美少女を何故か取り入れの時に枝に残された林檎に喩へ、又女の愛を得る為に自分と戦友になつて戦へとアフロディテに呼び掛けた詩人であることを知つたのはルカスに教へられてだつた。ロンサアル、ダンテ、レオパルディ、ボオドレエル、又プルウスト、ドヌを読む気を起こしたのもルカスに何度も会つてゐるうちにだつた。」こうした文章を読むと、古典を含めたヨーロッパ文学を血肉とした、教養ということがまだその意味を保っていた時代の人物を想像することができる。

 二つ目には、当時イギリスを席巻し、後にニュー・クリティシズムとして結実することになるエリオット、F・R・リーヴィス、I・A・リチャーズなどの批評に敵対する立場にあったことである。吉田健一によれば、エリオットの『荒野』がでたときに、それを認めなかったのはルーカス一人だけだったのではないかという。「ルカスがこの一派の欺瞞、見方によつては自己欺瞞に苛立たずにゐるにはその古典文学の知識が正確であり過ぎた」というのは吉田健一の言である。

 これらの点については、吉田健一とルーカスとは共通するが、ロマン主義に対する姿勢はやや異なっている。吉田健一自身は、バロック的とでもいえるようなうねうねと続く文章を書いていたが、ロマン主義については概して冷淡だった。コールリッジ、ワーズワース、ド・クインシーなどはほとんど言及されることはなかった。

 『ロマン主義理想の衰亡』(1936年)でルーカスは、「ロマン主義の文学で繰り返される特性とはなんだろうか」と問う。そして、「人里離れた場所、荒涼の地の物寂しい喜び、沈黙と超自然、冬と物憂さ、吸血鬼の恋に人目を忍ぶ逢引き、情熱の花に美しきものの死、ラドクリフの恐怖にサディスティックな残酷さ、幻滅、死、狂気、聖杯と辺境での戦い、不可能なるものへの愛」と列挙してみせる。しかし、ルーカスがロマン主義において本質的なものだとみなすのは、こうしたテーマや舞台の特異性ではない。「ロマン主義文学は生についての夢であり、社会や現実に拘束された衝動に栄養と満足を与える」点においてはあらゆる芸術と共通するが、いささか度が過ぎてしまった。ルーカスにとって、理想の文学とは、古典主義とリアリズムとロマン主義を結んでできた三角形のなかにあるようなものだった。

 ロマン主義は、理性を極端にまで強調した十八世に対する反動としては、むしろ健康的なものであったが、情念による陶酔が理性による洗練を侵食することによって病的になってしまった。「この鎖は多くの生命を破滅させたが、世界をどれだけ豊かなものにしたかわからない。」とはルーカスの言葉。

 こうした評価は、ロマン主義を古典主義の成熟にまで至らない未熟なものとするヴァレリーやそれに倣ったかのような吉田健一と最も食い違うところだろう。吉田健一のロマン主義に対する評価は全面的な否定である。「この文学で人間の悲みや苦みを取り上げることに重点が置かれてゐるとか、さうした題材の暗い影がそれまでになかつた新鮮な効果を収めてゐるとかいふことよりも浪漫主義の文学と言へば寧ろその特徴はどこかぼやけたものがあつてそれが余韻嫋々といふ種類のことと性質が違ひ、それを書いてゐるものの注意力の不足がそれを読むものの同じく注意力の不足で黙認されてゐることにある。又浪漫主義の文学で好んで対象に選ばれた事柄も確かにそれを手伝つてゐて悲みや苦み、或は喜びであつても、さういふものは小説風に一々その理由を述べ立てるのでなければただのさういふ名称である意味での観念になり、観念をさうして観念的に扱つた結果は単にそこに何となくさういふものがある気がするだけのことに終り、浪漫主義の文学の場合はこの脱落が当時の人間が観念を宛てがわれることに馴れ、その観念の中には真顔で受け入れることになつてゐるものが幾つもあつたことで補はれた。」と『ヨオロツパの世紀末』では書かれている。

 ロマン主義を不健康なものと見なす吉田健一は、ボードレール以降の世紀末デカダンスを、病的な時代に抵抗するためにあえて退廃的なテーマを取り上げられずにはおれなかったのだと、病気の病気は健康とでもいうような苦しい論じ方をしているが、バランスをとることに文学の理想を見るルーカスはより明瞭である。

 批評ができる唯一の<一般的な>判断とは、「これはいい」(なにに対していいのか)とか「これは美しい」(誰にとって美しいのか)といったことではなく、「これは真であり、あれはそうではない」とか「これは健全であるようだが、あれは病んでいる」といったことだと思う。ボードレールのような作家を追放するのは大いに遺憾なことだろうが、プラトンなら躊躇いなくそうするだろう。ボードレールを読まないのは大きな損失である。しかし、彼のような作家は病んで<いる>(多くの天才たちはそうではない)のだということを無視したり、そうした作家たちばかりを読んで、病的であるよりは健康であることが、不健全よりは健全なほうが幾許かの利点があることを忘れるのは道理にかなったことではないように思われる。現代の多くの批評に対する私の不満とはこうしたことを忘れてしまうことにある。つまり、ある作家が「興味深い」存在で、見掛け倒しであっても、口のなかにいままでにない味を残してくれるなら、彼が卑劣であろうが残忍であろうが、卑屈であろうが馬鹿であろうが、まったく気にしないという態度である。我々の時代は、未熟なままに死んでいったボードレールの卵で満ちている。彼らの殆んどがもうたくさんと思えるのはこのことによる。

 ボードレールは嫌いではないし、総じて新し物好きの私ではあるが、この点については、吉田健一よりも過激な中庸を求めるルーカスの方に惹かれる。

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