2018年5月18日金曜日

19.鉱物化の手がかり――アーヴィング・バビット『ルソーとロマン主義』




 花田清輝の初期のエッセイを読むと、ときに、バビットという名前がでてくる。アーヴィング・バビットは一八六五年オハイオ州に生まれたアメリカの批評家、生涯の大半、ハーバード大学でフランス文学を講じ、一九三三年に死亡している。記憶が定かではないが、フレドリック・ジェイムソンのような批評家も、バビット流の人文学者といった具合に言及していたことがあったと思う。要は、古い時代の学者という文脈である。

 花田清輝がバビットの名を持ちだすときに、必ずと言っていいほど付いてくるのが、バビットの造語である「フラン・ヴィタール」という言葉である。フラン・ヴィタールは、ベルグソンの用語エラン・ヴィタールに対抗してつくられた用語で、エラン・ヴィタールが「生の活力」や「生命の躍進」などと訳され、生の遠心的に拡大し、飛躍する力をあらわすのに対し、フラン・ヴィタールは「生の統制」であり、生の求心的に収縮し、組織する力をあらわす。ベルグソンのように生の本来をもっぱら遠心的な拡大のうちに認めるべきではなく、むしろ、求心的な組織する力に認めるべきだというのがバビットの真意である。

 花田清輝の『胆大小心録』に収められた「エランとフラン」などはバビットとそのフラン・ヴィタールという考えを最も大きく取り上げた文章ということになろう。そこで花田清輝は、国家や社会を生物とのアナロジーにおいて捉える、或は生物そのものとして捉えるスペンサー、フロベニウス、シュペングラーといった思想家や歴史家がもつ生命観を批判している。彼らが国家と重ね合わせて見ている生命とは、つまりは拡大膨張する生命でしかなく、ある国家や文化が拡大膨張をやめたとすれば、そうした国家、文化は既に生命本来の力を枯渇させているのであり、後は衰弱し没落するしかないことになる。花田清輝はバビットのフラン・ヴィタールを、こうした、あまりに単純で、それでいて無批判に信じられ、拡がっているようでもある生命観に対する解毒剤と考えていたようである。

         思うに、バビットが、わざわざ、フラン・ヴィタールといったような言葉を持ち出したのも、ベルグソンのエラン・ヴィタールを、文字通り、生命の衝動として受け取ったかれが、ベルグソンに反対して、そういう衝動的なものよりも、いっそう、われわれの生活にとって根源的なものであるとかれの考える、拘束し、統制し、組織していくものの存在を、大いに強調する必要があると感じたためであろう。         もっとも、バビットのベルグソン批判が、すこぶる俗流的なものであったことは、『ルソーとロマン主義』の中で、かれが、直感を二つの種類に分け、エラン・ヴィタールを下理性的直感に、フラン・ヴィタールを超理性的直感に結びつけていることによっても明らかである。本来の意味におけるベルグソンのいわゆるエラン・ヴィタールが、直ちに超理性的直感に結びつくものであることはいうまでもない。しかし、ベルグソン批判としては的をはずれているにせよ、生命に、遠心的に、膨張し、拡大し、飛躍していこうとするエラン・ヴィタールのはたらきと、求心的に、収縮し、集中し、固定していこうとするフラン・ヴィタールのはたらきとを認め、本能・感情・欲望・衝動等を前者の――習慣・理知・計画・規律等を後者のあらわれとしてとらえ、人間の生命を人間以外の動物の生命から区別するものは、フラン・ヴィタールであって、エラン・ヴィタールではないと主張するバビットの説には、確かに、近代人の生命感の盲点を、するどく突いているようなところがある。   (「エランとフラン」)

 それでは、『ルソーとロマン主義』(一九一九年)で、バビットが二つの直感について論じている一節を引用してみよう。

         十八世紀に完成された諸形式に関する限り、ロマン主義的な拡張主義者が異議を申し立てるのも正当な根拠がある。しかし、この時期の合理主義や人工的な作法が満足すべきものではないにしても、分析的知性や作法一般について攻撃を加え続けるのであれば、それはまったく不当なものである。反対に、個人の特異性が強調される時代、伝統が断たれ、より想像的、直接的なものが求められる時代には、特異性を増加させる力は決してそれほど必要ではないことを認めるべきだろう。想像的であり直接的であるにも様々な方法があり、分析は、抽象的な体系を打ち立てるのにも必要だが、経験から得られた実際のデータを判断し、賢明で幸福でありたいと願うならどうしたらいいかを決定するのにも必要なのである。過去との連絡が断たれ、個人主義的なこうした時代にこそソフィストたちが言葉をたくみに操りだすが、そうした手妻から身を守る唯一の方法は揺るぎのない分析の力を借りてソフィストたちの使う言葉を定義することである。ベルグソンは、フランスには二つの主要な哲学のタイプ、一つはデカルトまで溯れる合理主義的なタイプ、もう一つはパスカルにまで溯れる直観的なタイプがあり、自分は直観主義者である限りにおいてはパスカルの系統にあると我々に信じさせようとする。恐るべき詭弁がこの単純な主張には潜んでおり、この詭弁は、もし正されないなら、文明を破滅させるのに十分なものである。唯一の治療法は直観という言葉を定義することであり、そこから派生する下合理的直観と超合理的直観とを実際に即して区別する必要がある。分析し定義してみれば、下合理的直観は生の衝動(エラン・ヴィタール)と結びついていることが見い出され、超合理的直観は生の衝動を超えた生の統制の力(フラン・ヴィタール)に結びついていることがわかろう。更に、この統制とは、人が、夢ではない現実の世界の共通の中心に引き寄せられるときに行使されなければならないのは明らかなことだろう。従って、分析する人間が物事を、断絶のうち、死んだ、精神を欠いたものと見なければならないというのは真実とは程遠く、個人主義の時代においては、人は分析においてのみ真の統一への道を得るのであり、想像力の役割もまたこの統一を達成することにある。
 科学的分析にも堪能であったベルグソン批判とすれば乱暴すぎるが、「文明の破滅」を持ち出すほどであるから、よほど俗流ベルグソン主義が目立っていたのだろう。バビットの教養の広さは、専門であるフランス文学はもちろん、ギリシャ・ローマの古典から英米文学、仏教や儒教にまで及んでいる。しかし、文明論者としての主義は一貫しており、人間にとって必要なのは、遠心的膨張的なロマン主義ではなく、求心的統制的な力であり、文学について言えば、古典や伝統に規範を求めるべきだということにある。

 しかし、古典や伝統はおろか、言葉さえ有効に働かなくなっているところでは、文明の衝突といった文明論で話が落ち着くことはない。文明の是非が問題になっているからだ。俗流エラン・ヴィタールもあれば、俗流フラン・ヴィタールもある。フラン・ヴィタールに頼るとするなら、自らを鉱物化し、からからに乾燥させて、来るべき雨期を待つことにある。
 

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