(私は新潮社の望月市恵訳を読んだのだが、新刊では出ていないのでこちらを。引用部分も望月訳です。)
1809年、『ファウスト・第一部』の完成の後、ゲーテがおよそ60歳のころ、『親和力』が発表された。『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』に続く、畢生の大作『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』の構想を練るなかで、そのなかに組み込む短篇小説のひとつとして構想されたが、内容はどんどん膨れ上がり、長編になった。
エードアルトとシャルロッテは、富裕なブルジョアの夫婦で、田舎にある屋敷をより住みやすい場所にするために、地所の方々に手を加えている。二人が充実した生活を送るだけの富も仕事も十分にある。夫のエードアルトは、なかなか自分に合った仕事を得ることのできないでいる実地能力に優れた友人の大尉を招き、三人で生活することを提案するが、妻のシャルロッテは消極的である。というのも、エードアルトとシャルロッテは、若いころ互いに愛し合っていたが、富を得ようとする両家の思惑によって、仲を引き裂かれ、二人ともたまたま連れ合いが死んだことによって、最初の愛を成就することができたという経緯があるからである。シャルロッテは、二人の生活がどのように成熟し、どんな形をとるようになるのかにより心を惹かれていた。
しかし、何事においても熱っぽく、夢中になると自分の意見を引っ込めることのできないエードアルトは、この思いつきから離れることができなくなっている。他方において、シャルロッテは、前夫との間に娘がおり、寄宿学校に入っているが、その同級生に、オティーリエというかつての親友の娘がおり、その娘が、要領がよく、派手で社交的な自分の子供とは異なり、集団生活に慣れることがないのを、親友の性格と重ね合わせてよく理解できるので、できれば引き取って自分が監督、教育して、立派な娘にしたいと考えている。そうしたひそかな思いをエードアルトに話したことから、大尉とオティーリエという二人を加えた四人の生活が始まる。
題名ともなった『親和力』は、夫婦と大尉との三人の会話のなかで語られ、一見、アルカリと酸のように、正反対の性質をもちながら、互いに求めあい、影響し合って新しい物質を形成するものを指すようなのだが、正確にいえばそれは類縁性と呼ぶべきものである。シャルロッテは、自分のこれまでの経験によれば、永久に離れることがなく、固く結びあっていた二人が、たまたま第三者が入ることによって、離れてしまい、浮草のように根を下ろすことなく漂うこともあるのではないかと尋ねる。ところが男性二人は、化学の世界ではそこで第四者が用意されていて、そこにこそ神秘があるのだという。
「そうなんですよ!」と大尉はいった。「そういう場合がもっとも重要で注目すべき場合であることはもちろんで、引きあうこと、類縁であること、離れあうこと、結びあうことが、いわばほんとうに交錯して考えられ、いままで二つずつ結びあっていた四者が、その結合を解いて、あたらしい結合をするのです。この放したり捕えたり、逃げたり追ったりするさまは、ほんとうになにかもっとふかい意味を持つように感じさせ、そういう自然物に意思とか選択とかいうものがあるかとも信じさせ、親和力という術語を用いても、少しもさしつかえないと考えられます」
つまり、親和性というのは、強く結びついていたものが、いったんその結合を解き、新たな結びつきをしたときにはじめて作用したといえる、分離と再結合の二つの力を備えもっている。実際、この小説は、冒頭近くで述べられたこの大尉の言葉通りに進んでいく。シャルロッテと大尉、エードアルトとオティーリエがそれぞれ互いにひかれあう。堅実で思慮深いシャルロッテは、正確な判断を下し決断力のある大尉にひかれ、夢想的で情熱的なエードアルトは、引っ込み思案だが、芯の部分はしっかりとしたオティーリエにひかれる。
だが、実のところ、こうした類縁性から離れて、親和性に踏み込むのはエードアルトだけなのである。彼はオティーリエに夢中になり、自分とシャルロッテのあいだに子供ができたことを知るや、半ば自暴自棄になって、死を覚悟して戦争に参加するが、戦場を生き延びれば、オティーリエへの思いに再び立ち戻る。この本は発表後、賞賛も多かった半面、不道徳だといって非難するものも多かったというが、もっともな話である。賞賛の意味でいうのだが、モラルなど全く感じられないからである。シャルロッテと大尉が決定的な行動に踏み込まないのは、二人が共通して持つリアリストとしての側面が、障害の大きさと多難な未来を予見させるからにすぎない。
シャルロッテと大尉がリアリストという共通の地盤に立ちながら、互いに補完的な性格をもっているのに対し、エードアルトとオティーリエの関係は謎めいている。エードアルトがロマンチストであることは確かだが、オティーリエとロマンチストのあいだには必ずしも対偶関係は成り立っていない。つまり、ロマンチストでなければエードアルトだとはいえないが、そして、シャルロッテと大尉とリアリストのあいだにもこの対偶関係は成立するのだが、オティーリエはこの対偶関係を壊し、四者関係を安定させることのない破滅的な項になっている。
エードアルトが吹くフルートに合わせてオティーリエがピアノを演奏するエピソードがある。オティーリエはすでにシャルロッテが夫の伴奏をしているのを数回聞いており、シャルロッテが器用さと努力によって、あるときにはゆっくり、あるときには急いで調子を合わせているのを知っていた。しかし、オティーリエの対応の仕方は、シャルロッテとは全く異なっている。
オティーリエはこの二人がソナタを合わすのを数回きいた経験から、エードアルトがソナタのフルートの部分を吹奏する癖にのみ注意しながら練習したらしかった。彼女はエードアルトの癖をすっかり自分の癖に変えてしまったので、そこからいきいきとした渾然とした奏法めいたものが生れ、調子に忠実に奏されはしなかったが、大変快く美しくひびいた。作曲者も彼の作品がこのように愛らしく変形されたのを知って、むしろ喜びをおぼえたであろう。
補完するのではなく、同一化するのであるから、畳みこむように終結に進む小説にみられるように、破滅へと向きだした運動はより加速され、それを支えとどめるものはいない。
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