2018年5月14日月曜日

18.非情物語――上田秋成『雨月物語』




 安永5年(1776年)の刊行。白峯、菊花の約、浅茅が宿、夢應の鯉魚、仏法僧、吉備津の釜、蛇性の淫、青頭巾、貧富論の9篇からなる。読本といわれるものの代表のひとつである。

 なかで私は「夢應の鯉魚」と「貧富論」が好みである。「夢應の鯉魚」は、鯉の絵で名高い僧が、生と死のあいだの昏睡のなかで、魚と化して、水のなかを自由に泳ぎまわるだけの話で、地名を巧みに織り込んだ遊弋の文章を楽しむしかない。

 「貧富論」は、物語的な興趣は『雨月物語』のなかでは一番少ないかもしれないが、金銭を論じて興味深い。

 蒲生氏郷の家臣に岡佐内という武士がいた。この男、普通の武士とは異なり、倹約を旨とし、武士のたしなみとされている茶道、香道には目もかけず、月や花を愛でるわけでもなく、小判を部屋中に敷き詰めることだけを楽しみにしていた。しかし、ただの吝嗇ではないらしい。家来のなかに金貨一枚隠し持っているものがあることを聞きつけると、近くに呼び寄せて「どんな財宝も乱世には瓦礫に等しい、名刀があったところで、千人の敵に立ち向かえるわけではない、金はそれらとは異なり、誰に対しても等しく力をもつ、したがって、武士たるもの、みだりに扱うことなく、蓄えておかねばならない」と言い、蓄えに合うだけの身分を与えてやろうと、十両の金とともに武士に取り立てた。一種の哲学をもっているのだ。

 その夜、佐内の枕元に人の来る気配がするので、起き直ってみると、小さな翁が座っている。狐狸の類かと問いただすと、黄金の精霊だという。金を卑しいものとし、その徳を軽んじる風潮に怒りを覚えているらしい。佐内もその意見には全く賛成だが、常々疑問に感じていることもあるので、問いかけてみる。

 金持ちには貧しい者に施すこともなく、富んでいるうえに残忍なものも多く、また、貧しい者には、愚かでもなく、一日中働いているのに一向に生活が楽にならないものも多い。仏教では前世の報いといわれ、儒教では天命とされるが、仏教に従えば、現生での陰徳善行が、来世の報いとなることを頼りに生きることもできようが、儒教に従えば、そうした救いもないことになる、その理不尽をどう考えればいいのか。

 翁が答えるには、まず、そもそも、仏教でそんな風に解釈するのは間違っている。仏に従えば、現生の身分や富貴など忌むべきものでこそあれ、尊重されるものではない、前世の報いなどといっている時点で、似非仏教にほかならない。

 さて、貧富と善悪が必ずしも一致しないのは、金は元来物であり、人間のように情のあるものではない。非情の物であるから、神でも仏でも儒教的な天でもない。したがって、人間の善悪を判断し、それを糺すいわれもまたない。善に報い、悪を罰するのは天、神、仏の仕事であり、我々金は物と同じく低きに流れるにすぎない。治水に優れたものがいるように、金を蓄えるのに優れたものもいよう。それゆえ、古来から、聖人や賢人たちは、機会があれば利益を求め、なければあえて求めず、きっかけがないとなれば、隠者として生活した。

 「われもと神にあらず、仏にあらず、只これ非情なり。非情のものとして人の善悪を糺し、それに従ふべきいはれなし。」という黄金の精霊の、いっそ爽快な断言には、物神的な要素と金とを完全に切り離すことにより、経済の謎を解き明かしてくれるわけではないが、金銭を地形や気候のように背景化し、一息つかせてくれる。
 

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