2018年5月4日金曜日

6.断片と不連続のホラー――ミヒャエル・ハネケ『セブンス・コンチネント』(1989年)




 撮影、トニー・ペシュケ、出演、ピルギット・ドル、ディータ・ベルナー、脚本はハネケが兼ねる。ハネケのデビュー作。

 ハネケはそれほど好きな監督ではない。ただ出来事を映しだすだけで、その意味や解釈を提供しようとは思わない、とインタビューなどでは自分の中立性をくどいほど繰り返すのだが、より根本的な、どうしてその出来事を選ばなければならなかったのか、という問いには答えようとしない。趣味だからしょうがないとなれば、仕方のないものは仕様がないから、尊重するし、まんざらその趣味は私の趣味に合わないものでもない。しかし、あたかも世界を中立的に描いているといわれると抵抗を感じざるを得ないのだ。

 ミヒャエル・ハネケの映画で始めてみたのは『隠された記憶』(2005年)だった。個人の家の私的な領域にずかずかと入り込むビデオが送られてくる、という出だしがデヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』(1997年)と同じであったため、不可思議な展開の連続するリンチに比較して、物足りなく感じた。曖昧な結末も、いわゆる観客に自由な解釈をゆだねる「開かれた作品」を目指す作者の手つきがあらわだと思った。その程度の感想で、次にこの映画を見られたのは幸運だった。屈指のホラー映画である。

 この映画は洗車の場面から始まるが、並々ならぬ緊迫感がある。それはこの映画に一貫して続くことだが、常に部分しか映されないことにある。ナンバープレート、タイヤなどの部分は克明にあらわれるが、車全体が、また車に乗っている人物がはっきりと示されることはない。主な登場人物は、夫婦と娘の三人だが、どの人物に関しても、なにかをしているときの姿が全体としてあらわれることはない。特に顔は周到に避けられていて、さらにはその行動が行われている状況も省かれている。例えば、娘が学校にいる場面がいくつかあるが、娘の上半身だけがあって、教室全体がとらえられることはないし、おそらく体育の時間では、跳び箱にカメラが据えられていて、娘がいつ跳んでいるのかもよくわからない。

 特別な事件が起きるわけではないが、全体が欠けているという欠如感によって、緊張は持続する。さらにこの映画は三部に分かれており、年が変わるごとに次のパートに進むのだが、特にそこに三部に分ける必然性はない。三部に分けるまでもなく、ほとんどひっきりなしになにも映っていない真黒の画面が挿入される。

 理由はわからないが、なにかが起き始めるのは、三部を過ぎたころからで、夫は会社を辞め、貯金をすべておろし、銀行の行員に、よろしければ理由を教えてもらえますかと尋ねられ、オーストラリアに引っ越すのでね、と答える。『セブンス・コンチネント』、つまり、第七の大陸とはオーストラリアのことで、題名もそれに由来するらしいが、一家にとってオーストラリアがなにを意味しているのかはわからない。冒頭の洗車場の脇にはオーストラリアのポスターが貼ってあり、わずかにセピア色がかった幻想的なオーストラリアの海岸の風景が全編を通じて三度ほど挿入される。

 そして妻は食材を大量に買い込む。いまほどハネケの作風が一般的に知られる前に見たので、ラストの20分くらいは実に衝撃的だったが、すでに『ファニーゲーム』も『白いリボン』も見たという人には、これだけでもすでに先が見えたといわれるかもしれない。しかもこれは実際に起こった事件をもとにしたものらしく、相当オーストリアでは話題になったらしいから、事件そのものをご存知の方もいるかもしれない。いずれにしろ、ハネケがこの事件をよく知っている観客に向けて、よりよくその事件が鋭く突き刺さるために、全体の代わりに断片を、連続の代わりに非連続を、という技法をマニエリスムに至るまで徹底的に適用したのがこの映画で、世界観や映画の意味などといった小難しいこと以前に、ホラー映画として楽しめる、とまでいうには後味が悪いのだが…

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