『雅歌』は石川淳の昭和二十一年作の短編小説。なぜか石川淳自選の岩波の『石川淳選集』には収められていない。手近の文庫にも収められておらず、全集にあたるしかないようだ。
特に筋らしい筋はなくて、過去の、そしてつい最近の女性との交渉や、そうした女性たちを遙かに見下ろして「惚れぬいた」プランク常数hのことなどが語られている。プランク常数は、プランク定数ともいわれ、量子力学の基礎となるもので、光のエネルギーに関わっている。古典力学とは異なる新たな世界像を示し、石川淳が愛用する言葉、「精神のエネルギー」に近似したものをあらわす。
この語り手が、敗戦直後の諸事不便な時期ではあるが、「家よりも、娘よりも、見つかるものならばぜひ手にとつてみたいとおもふたつた一部の本」があって、それが村田了阿の『花鳥日記』である。「ただし、かならず了阿みづから筆をとつて書いた原本に限る」というから贅沢な要求である。
森銑三の「了阿法師とその生活」によると、村田了阿は安永元年(1772年)、江戸浅草黒船町の煙管問屋、村田家の次男として生まれ、天保十四年(1843年)七十二歳で没した。了阿は法名で、本名は高風。幼い頃から学問を好み、身体も虚弱で、両親もあえて商人になることを強いなかった。寛政八年、二十五歳で剃髪し、下谷坂本の裏家に引きこもった。『一切教』を両三度熟読したという。交友も広く、狩屋えき(木片に液)齋、石川雅望、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦と多彩な顔ぶれを誇っている。
著作は二十ほど残っているというが、『花鳥日記』は文化十二年、了阿四十四歳の年とその翌年の二年分が伝えられている。十二年のものは国書刊行会刊の『近世文藝叢書第十二巻』で、十三年は中央公論社の『新燕石十種第三巻』で読むことができる。内容は、その名の通り、ほとんど花と鳥、それに昆虫のことで占められており、しかも記述は簡潔を極める。二年分の日記が原稿用紙にして二十枚程度であろうか。
鳥では、鶯、雉、時鳥、雁、鵯などの鳴き始めたことが記され、花では、梅、桃、桜、藤、山吹、朝顔、紫陽花などを見たことが書かれている。花、鳥、昆虫が中心であるから、自然、春から夏へかけた時期の記述の方が圧倒的に多く、しかも花なら梅と桜、鳥なら鶯が、季節の変わり目を鮮やかに知らせてくれるからかもっとも頻繁にこの日記を賑わすもので、つまり、夏までの間でも、旧暦に従っているから二月、三月がもっとも詳細であると言える。
それでは、文化十三年二月の日記を引用する。
二月三日、きのふより南風いとあたゝかにて、ひえの鶯、声いと高し、所々の梅やゝ咲そむ、葛飾の梅、二三本さかり、其外やゝさきそめり、柳青みわたり、壮りおそきは、やゝきばめり、本所辺の椿もかれこれみゆ、 八日、世間の梅さかりなり、柳もやゝめばりて、きばみわたれり、されど、花さき出たるにはあらず、また、花さかぬ糸柳は、葉出て青みわたれり、下寺どほりの椿、やゝさきぬ、 十一日、かつしかの梅、新樹はさかりなり、古木は二山分さけり、此ほど、わが岨の椿咲そめたり、 十二日、朝、雉子二三声、始てなく、 十三日、かつしかの梅、古木もやゝさかりなり、此夕、月朗なり、幡随院の池にて田螺なく、 十五日、わが垣根の紅梅、白梅、わが岨の梅、峰の梅、さかり也、此夜、わがうらの田螺おり/\なく、 十七日、報春鳥両三度なく、此夜月朗也、田螺やゝなく、きのふけふ春雨しめやかにて、田螺ひるもなく、 十九日、わが峰の紅梅、ぶんご、諸所に咲匂ふ、岨の連翹さきいづ、椿やゝさかりなり、 廿二日、世間の柳花、さかりなり、地内平八が梅、やゝさき出、臥竜古木さかりなり、新樹はやゝうつろふ、さかりなるもあり、此ほど、世間のすゞ菜、花やゝさかり也、 廿三日、始て黄蝶を見る、 廿七日、朝、雉子なく、 廿八日、車坂上見明院の前、南より第二のさくら、ちらちらと咲そむ、我峰の緋桃、岨の連翹、やゝさく、我奥の杏花、既にさかんとす、世間の柳花、甚しく黄過ぎたり、清水堂の柳花は、実のさかりなり、御成道堀侯の柳、やゝ細葉を生ず、 廿九日、此程猶、世間の紅梅、ぶんご、青ぢくなど盛なるもおほし、我峰の椿さかりなり、
『雅歌』の語り手は、この簡潔な記述が羅列されている日記のどこに魅了されたのだろうか。戦争中、空襲警報のサイレンが鳴って、一騒ぎあった後などに繰り返しのぞいてみたのがこの『花鳥日記』だったという。この日記の奇妙に人の気を引きつけて止まない力について次のように語られている。
一年十二ヶ月、日日ときどきの花に鳥、草、木、虫などの消息がきはめて清潔にうつされてゐるほかには、このみじかい日記の中には他のなにもない。感想とか詠嘆とか歌とか句とか、よごれつぽいものは微塵もまじへずに、あたかも花や鳥が、自然みづからがこれを書いたといふやうすで、立ちすがた、みごとである。ひとつ子ひとり通らず、ぶきみと見えるまでに人事を絶ち切つた、しかも抑揚のない、この静謐の世界は、そこにひとの気をしづもらせようとはしないで、かへつて心を波打たせる。もちろん、たとへば下谷浅草がいちめんの焼野原になつた日に、この日記の、御徒士町筋に林檎の花盛り云云とある條を見ることの、いつそうれしいやうな、じつは安つぽい感傷のたぐひを取立てていふのではない。また商売熱心の批評技術家が見当ちがへに食らひつくやうに、この日記をたねにして、さつそく筆者の在り方とか、生活の仕方とかを邪推しようなどといふ料簡はさつぱりおこらない。そのやうな気苦労からずつと遠くのはうにあつて、人間にものをいはせない仕掛の品物だといふところが、いらいらして奇妙である。
『雅歌』という短編は、確かに話としては筋らしい筋がないが、語り手の精神遍歴の道程は鮮やかに示されている。語り手は精神の二つの極を往復する。一方の極には女性との恋愛、交渉など、「地上ののたのたあるき」であるしかないあまりに人間的な領域、自律的な運動をひたすらに続けるべき精神が細かなことに拘泥して動きを止めてしまう人間的な心情に押され気味の場がある。もう一方の極にあるのがプランク常数hで、ここには人間に関するものではそのうちで最も早く動くことのできる精神しか参加が許されてはいないような、精神が量子に見立てられ、目にもとまらぬ早さで非連続的に運動するような場がある。
だが、このプランク常数hの場に行きっきりになることは、「下司の智慧の、常識のさかしら」や肉体がそれを許さないらしい。二つの極の間に「雅歌的季節」が発明される。「しかし、常識が遅蒔に顔を出しかけたときには、肉体のはうはとうに高熱をあげてわつと飛び出して行き、あちこちにぶつかつて発光しながら、おなじぶつかるならばやはり肌ざはりのわるくないやつがよささうだと、俗情はまだ抜けず、しぜん女人の肉体に接近していく傾向いちじるしく、生活も人生観もめちやくちやになつた代りに、今度は物理学からだいぶ遠走りしたところで、人間の生活には雅歌的季節があるとかんがへたはうが便利だといふことを体験上必至に発明してしまつた」とある。律法と予言に満ちた旧約聖書のなかに「編集のまちがへかと見られる」雅歌が収められ、「聖書ぜんたいにおもむきを添へ」るものとなっているように、男女の恋愛も精神の運動になにかしら資するところがあるに違いないと、いわば二つの極を折衷してみせるのである。
これで納まってしまえば、話は単純で、通俗的といってもいい世間知を確認するだけのことになってしまうが、そうした安定した納まり具合を揺るがすのが村田了阿の『花鳥日記』なのである。この短い日記にプランク常数hの場が見いだされるというのではない。素早い精神の運動が見られるわけではないし、「鳥、草、木、虫などの消息」というのは精神が働く場としてはむしろ非常に限定され、閉ざされた場だと言うことができる。にもかかわらず、それが「心を波打たせる」のは、思いもよらぬところから「雅歌的季節」という一種の妥協的産物とは異なった季節があることを示されるためである。つまり、「雅歌的季節」と同じように、『花鳥日記』は一つの発明と見ることができる。
プランク常数hまでとは言わないが、「単純で、便利で、早くて、いいにほひ」がするようである。では、『花鳥日記』の発明がなんなのかと言えば、それは「感想とか詠嘆とか歌とか句とか」が当然であった日本の自然についての記述(歌、俳句、物語、随筆、日記等など)が様々あるなかで、それら人事を感じさせるものをまったく排除した場を造りあげたことにある。
戦争中語り手を訪ねてきた「ある誠実な詩人」にこの日記の話をしたところ、その後その詩人はこう言ったという。「あの日記を自分でちよつとやつてみましたが、だめでした。たつたあれだけのことを書くのにも、ほかのことをいろいろ知つてゐないと、どうも書けないやうです」と。この困難は、了阿の造りあげた場というのがもともと人事の介入を許さないような峻厳な自然のなかにあるのではなく、まさに「感想とか詠嘆とか歌とか句とか」がうずたかく集積された江戸文化の中心部にあることに由来するものと思われる。花なら梅と桜、鳥なら鶯であり、住んでいるところは下谷坂本、江戸の真ん中と言ってもいいところで、そこに集積されたすべてを知りながらそれを拒否することが必要だからであって、知識とそれを捨てることによってできあがる場の形成に村田了阿の精神の運動が働いている。
0 件のコメント:
コメントを投稿