2017年12月23日土曜日
69.いまだ、あるいはすでにない欲望ーーテリー・ジョーンズ『ミラクル・ニール!」(2016年)
三つの願いという民話がある。色々とヴァリエーションはあるが、そのひとつはこうである。夫婦して真面目に働き、生活には不自由しないだけの収入をあげている肉屋があった。あるとき、貴族が乗ったきらびやかな馬車が通るのを見かけ、一度でもあんな馬車に乗ってみたいもんだ、仙女でもいれば願いを叶えてもらうのに、と願った。すると輝くばかりの仙女があらわれ、なんでも口にした三つの願いを叶えてあげようといった。どんな願いをするべきなのか、迷っているうちに、その日も終わり、暖炉で温まっているときに、おかみさんは願い事がなんでもかなうとなれば、お祝いに一メートルのソーセージでも食べたいもんだね、とふと口に出してしまい、ソーセージが宙のなかから落ちてくる。夫は三つしかない願い事をつまらぬことに使った妻に怒りをおぼえ、そんなソーセージなどお前の鼻にくっついてしまえ、と怒鳴りつけると、ソーセージが鼻から離れない、これじゃあ恥ずかしくって人前に顔もだせはしない、とソーセージが鼻から離れますようにと最後の願いを使ってしまった。
この映画はこの民話のヴァリエーションであり、いかに欲望が曖昧で明確に言葉にすることができないかをうまくあらわしている。人間よりもはるかに力をもつらしい宇宙人が(もっともモンティ・パイソンの連中が声をあてているので、バカっぽいことこの上ないのだが)、地球を破壊する前に、人間という生物の本性を見るため、無作為に選んだ一人の人間に全能の力を与えることにする。選ばれたのはイギリスのしがない学校の教師(サイモン・ベッグ)であり、何か願いごとを口にし、右手を振ればなんでも実現する。しかも、三つなどと細かいことはいわずに、十日間無制限である。
民話の仙女は異教的な神々の生き残りであろうが、この宇宙人にしても全能の神とは異なり、個人の内心のことまではわからない。願いははっきりと理解されるように口にされなければならない。バスに乗りたいと願えば、ボンネットの上に乗せられるし、死者が甦れと願っても、スティーブン・キングの『ペット・セメタリー』のように、死んだときのままの不気味なゾンビが動きだすだけである。アメリカの大統領になりたいと願えば、早速テロリストに襲撃される。
三つであろうと無制限であろうと、欲望を十分適切に言いあらわすことは難しい。階下に気を引かれる放送局勤めの女性が住んでおり、もちろんその力をもってすれば、セックスや支配することなど容易なのだが、基本的に万能の力を得ても良心を失うことのない彼はそんなことをしても欲望が満たされないことを知る聡明さを兼ね備えている。
最初にあげた民話のヴァリエーションには、なんでも望みを叶えてなるといわれた老夫婦が、お互いに心のなかでこれからも一緒に幸せに暮らせますように、と願って末長く暮らしたというものもあるが、永遠にそれが続いたとすれば、呪縛でしかないだろうが、いかにも教訓的な話らしく、それからも幸せに末長く暮らしましたとさ、で済ませている。現状の維持でしかないことも、それを言葉に出して、願いとしてしまえば、欲望となり、満足のできないものとなる。
幼児期がしばしば生における理想ととられるのは、欲望がまだそれほど分化されておらず、全面的に庇護してもらえるという全能感もあるが、その裏側には言語の未発達によって、まだ欲望を表現できない、という欠如による満足もあるわけで、どちらにしろ、我々はすでに過ぎ去ったもの、あるいはいつの日か到来すべきものとしてしか欲望の満足を思い描くことができない。
2017年12月20日水曜日
ピタゴラス――ルイス『哲学史列伝』
II.ピタゴラス
ピタゴラスの生涯は、ぼんやりとした荘厳な伝説に包まれていて、そこから救い出そうとする試みは希望がない。ある種の一般的証拠は間違いなく信用される。しかし、それはほとんどなく、曖昧である。
その伝記に必要とされる難点の一例として、古代の作家たちや現代の学者たちが探求の結果あげた誕生年のことをあげよう。ディオドロス・シクラスは61回オリンピアのときだと言った。クレメンス・アレックスは62回オリンピア。ユーセビウスは63あるいは64回オリンピア。スタンレーは53回オリンピア。ゲールは60回。ダンシエは47回。ベントレーは43回。ロイドは43回。ドッドウェルは52回。リッターは49回。サールウォールは51回。48年の幅で変わっている。もし選択をしなければならないなら、ベントレーに決めることになろう。素晴らしい学者にたいする敬意のためだけではなく、ピタゴラスの友人や同時代のアレクシマンドロスによって知られている誕生の日と合致しているようだからである。
ピタゴラスは通常、偉大なる数学の創設者に分類される。このことは、彼の広範囲にわたる労作、彼が主に専念していたのは広がりや重量の決定、音楽の音の比率にあったことなどを知ると納得される。彼の科学と技術は、彼の生涯とともに、無意味なまでに過大視されている。伝説によると、彼は聖人であり、奇跡の使い手であり、人間の知恵の教師以上の存在だった。生まれもまた驚くべきもので、ヘルメスの息子ともアポロの息子ともいわれている。その証拠として彼は金の腿をあらわしていたと言われる。国を荒廃させたダフネの熊を飼い慣らした。彼はメタポンタムとタウロミニアムの異なった場所で、同じ日同じ時間に講義を開いた。川を横切るときは、川の神が「これは、ピタゴラス」と挨拶をし、彼にとって天球の調和は音楽に聞こえたという。
伝説はこうした驚異を記している。しかし、伝説的な伝承として存在しうるのは、ピタゴラスの意味深い偉大性ということである。ブルワー・リットン卿に十分にいわれているように、「ピタゴラスに関するあらゆる伝統だけではなく、彼個人が後にイタリアにもたらした強い影響、彼が人類に及ぼした個人的影響、道徳的命令を必要としていた者に及ぼした熱狂、諸派閥や制度の創立者であることは、彼がいまだ名前のない芸術を有していたことを証明している。ピダゴラスの時代と教えに多くの者が服従したが、彼が入念にギリシャの古代からの宗教と政治を探求し、異邦人ではあったが、訪れたデロスの伝統を(いかに寓話によってそれを損なったとしても)拒否し得ず、デルフィーの敬虔な奉仕者から教えを受けて感動したということが信じられていた。」*彼は通常の人間ではなく、寓話によって詩的な領域においてまで賛美されていた。ロマンティックで、奇跡的な行為が帰せられているときには、英雄はそうした驚くべき栄光を担うに足るだけ偉大であることはたしかだ。
*『アテネ、その勃興と没落』ii.412。
しかるに、示された事実は、一般的に伝えられている、彼がその教えと哲学をすべて東洋から借りたという説を反駁する。こうした偉大な人物が異邦からの教師なしですますことができるだろうか。実際できたし、そうしたことはたしかである。しかし、同郷の者たちは、ごく自然な考えによって、彼の偉大さを東洋での教育の結果だと見なした。彼の国には予言者はいなかった。想像力のあるギリシャ人は遠く離れた異境の国の者にそうした性質があるとする傾向があった。彼らは自分自身のなかから知恵が湧いてでるということを信じることができなかった。東洋という広大で未知の領域から、すべての新しいもの、思考が生じるに違いないとみていた。
リッターが観察したように、古代ギリシャにとってエジプトがいかに驚異に満ちた土地であったか、後にもっと知られるようになっても、人々の性格は保留したとしても、国家的建築の途方もない構造に観察者の注意がねじ曲げられるのを見るとき、ギリシャ人が強力な東洋と偉大なピタゴラスとのあいだに何らかの関連をつけたことは容易に想像される。
しかし、我々はピタゴラスがその学説についてエジプトにさほど負うことはないことを信じるとしても、彼がエジプトを旅したことに懐疑的なわけではない。サモスはエジプトと定期的な交流があった。ピタゴラスがエジプトを旅したか、旅したものに話を聞いたかしたならば、その体系にあらわれているように、エジプトの慣習について多くの知識を持っていたことだろう。そしてそれは司祭から教えを受けるまでもないことだっただろう。輪廻の教えはエジプトでは一般的なものだった。リッターがいうように、彼はそのために教えを請うまでもなかったのである。埋葬の習慣やある種の食物を禁じることは旅行者にはよく知られたことだった。しかし、ピタゴラスがエジプトの司祭から教えを受けたことに対する根本的な反論は、司祭階級そのもののなかに認められる。もし同じ階級に属さないのならば、同郷人の最も親しい者へも教えることを惜しんだとするなら、異邦人であり、異なった宗教をもつ者にどうして教えを授けることがあろうか。
古代の作家たちはこの反論に気づいていた。それを無視するために、彼らはブルッカーが与えている物語を発明した。ポリクラテスはエジプト王であるアマシスと友好的な関係にあり、ピタゴラスを送って、司祭と接することができるように推薦したというのだ。王の権威は司祭が異邦人にその神秘を明かすことを認めるほど十分なものではない。それゆえ、彼らはピタゴラスをテーベにおいて古代に精通したものとした。テーベの司祭は王族から選任されたものとして畏敬されており、異邦人に儀式を見られることを嫌っていた。新参者を嫌いながらも、彼らは割礼を含めたいくつかの残酷な儀式に参加させた。しかし、彼をくじくことはできなかった。彼は忍耐をもって指図に従い、最終的に信頼を得た。彼はエジプトで二十二年を過ごし、あらゆる学問に精通して帰ってきた。これは悪い物語ではない。しかし、一つ反論があるとしたら――実体がないということである。
哲学者という言葉の発明は、ピタゴラスに帰せられている。ペロポンネソスにいたとき、レオニティアスに「なにがおまえの技芸なのだ」と問われた。「私には技芸はない。私は哲学者だ」というのが答えだった。レオニティアスはその言葉を聞いたことがなく、なにを意味するのか尋ねた。ピタゴラスは重々しく答えた、「それはオリンピアの競技に比較できるかもしれない。あるものは栄光と王冠を求める。買ったり売ったりすることで利益を求める者もいる。彼らより高貴な者たちは、利益も賞賛も求めず、この素晴らしい見世物を楽しみ、そこで起きるすべてのことを知ろうとする。同じように、我々は天国である国を出て、多くの収益、多くの利益を得るものの集まりである世界にきたが、そこには数こそほとんどいないが、貪欲や虚栄を軽蔑し、自然を研究するものが存在する。それらを私は哲学者と呼ぶ。というのも、個人的な関心なしでいる観客ほど高貴なものは存在せず、その生涯では、瞑想と自然の知識とが他のどんな仕事よりも名誉あるものとされているからだ。」ピタゴラスが言うところによれば、「知恵を愛するもの」という通常の哲学者の解釈は、「愛するもの」という言葉に最高度の広がりをもたせたときにだけ正確なものとなることを見ておく必要がある。知恵というのは哲学者にとって「ここにあり目的でもあるすべてであり」、単なる好みや一つの追求すべきものであってはならない。それは生命を捧げる貴婦人でなければならない。それがピタゴラスにとっての意味であった。それ以前に賢人を指していたのはσοφςという言葉だった。しかし、彼は自分を、その体系において為したのと同様に、Sophoiあるいは当時の哲学者とは区別することを望んでいた。Sophosの意味は何であろうか。間違いなく我々はそれによって哲学者とは異なる賢人を意味している。その知恵とは実践的なものであるか、実践的な目的に変わるものであった。知恵を愛するものは、それ自体を愛しているのではなく、目的のために愛していた。ピタゴラスは知恵をそれ自体において愛していた。彼にとって瞑想は人間性の最高度の修練だった。生きることの底辺にある目的のために知恵を引きずり下ろすことは冒涜だった。それゆえ、彼は自信を哲学者――知恵を愛するもの――と呼んだが、知恵をより有益な目的のために求める者とははっきりと区別した。
哲学者という言葉のこの解釈は、彼の意見のいくつかを説明することになろう。とりわけ、厳格な入会儀礼の後でなければ入ることが認められない秘密結社の設立を説明する。五年のあいだ、加入希望者は沈黙を守らねばならなかった。多くのものが絶望のうちにそこで断念した。彼らは純粋な知恵のための瞑想には値しなかった。饒舌な傾向のないものは、その期間を守り通した。様々な屈辱に耐えねばならなかった。自己否定の力を測るために様々な実験が為された。それらによってピタゴラスは彼らが世俗的かどうか、科学という聖域に入るのにふさわしい者かどうかを判断した。浄化、犠牲、通過儀礼によって魂の基本的な部分を一掃した後に、彼らは聖域に入ることが認められ、魂のより高次の部分も、非物質的で永遠な事物についての知識からなる真理に関する知識によって祓い清められるのだった。この目的のために彼は数学から始めたが、それは物質的なものと非物質的なものとを媒介し、それだけが精神を感官的な事物から切り離し、知的なものへ導くことができるからである。
我々が不思議に思うのは、彼は神として崇拝されていただろうかということである。世俗的な争い、偉人になろうとする野心も超越し、知恵のためだけに生きた彼こそが、通常の人間よりも高次の刻印を押されているのではないか。後の歴史家たちは、白いローブをまとい、黄金の王冠をかぶった、重々しく荘重で、沈着な彼の姿を描いた。人間的な喜びや悲しみなどは超越し、存在のより深い神秘について瞑想している。音楽や、ホメロス、ヘシオドス、タレスの頌歌、あるいは天上の調和に聞き入っている。活気があり、おしゃべりで、議論好き、活動的で多才なギリシャ人から、荘重で謹厳、沈黙と瞑想を旨とする人物が現れるほど驚くべき現象があろうか。
ブルワー・リットン卿の『アテネ』から、ピタゴラスの政治的経歴についての部分を引用しよう。――「キケロとアウルス・ゲリウスの証言によると、ピタゴラスはタルキニウス・スペルブスの統治下にイタリアに到着し、アカイア族のギリシャ人によって植民地化されたタレンタム湾の一都市であるクロトンに住居を定めた。もし後の弟子たちの途方もない話を部分的にでも信じ、けばけばしく飾り立てられたものから、もともとの単純な真実を引き出そうとするなら、彼は最初は若者の教師としてあらわれ、当時としては異例のことではないが、すぐに法制官の教師となった。都市の紛争は彼の対象として好まれた。議会(千人の人員があり、間違いなく異なった人種からなっていた――最初は入植者の子孫たちであったが、最後には土着の人々も加わった)は雄弁で名声のある哲学者の到着と影響を利用した。彼は貴族の強化に力を尽くし、同じく、民主主義と専制主義に反目した。しかし、彼の政策はなんら世俗的な野心を伴ったものではなかった。彼は少なくともしばらくの間は、表向きは権力や地位を拒み、時期的にいうと比較的最近であるロヨラによって創設されたような強力な秩序に似ていなくもない、組織化された畏怖される社会を創設することに満足していた。弟子たちは試験と見習い期間を経ることでこの社会に入ることを認められた。段階を経ることで彼らはより高い栄誉を受け、より深い神秘に与ることが認められた。宗教は同胞愛の基礎となり、進歩と力を得る目的のために人間を結びつけた。彼はクレトンで高貴な家族のあいだから自らの制度を形成するのに三百人を選び、彼らは自らの身分を知り、世界に命令するのに適するように育てられた。ピタゴラスが首長となったこの社会は、古代の元老院に取って代わり、行政管理を得てからさほどたっていなかった。この制度においては、ピタゴラスは他に類のない唯一の存在だった。ギリシャ哲学の創建者たちの誰も彼には似ていない。誰から聞いても、女性の重要性を認めることにおいてその時代の賢人たちとも異なっていた。彼は女性に講義をし、教えたといわれている。彼の妻自身が哲学者であり、十五人の女性の弟子たちが、彼の学派を光彩を放つものとしている。人類を魅了し欺すあらゆるものについての深い知識をもとにした制度が、一次的な権力を守ることに失敗するはずがない。彼の影響力はクロトンに限られることはなかった。他のイタリアの都市に及んだ。政治制度を修正し、転覆した。ピタゴラスがより粗野で、個人的な野心を持っていたなら、彼はおそらくは強力な君主制を築き、社会年代記を新しい実験の結果でより富ますこともできたろう。しかし、彼の野心は英雄のものではなく、賢者のものだった。彼は自分の身分を高めるよりもむしろ制度の確立を願った。彼の直接の後継者たちは、彼が創設した同朋社会から生じる結果のすべてを見ることはなかった。そして彼の華麗で、荘厳な政治的企図は、しばらくの間は成功したが、無能な友愛感情の茶番と熱心でなかばは気のきいた禁欲主義を残しただけだった。
かくも神秘的で革命的な権力が社会のいたるところに行き渡り、イタリアの相当の部分で確立されたとき、警戒と疑惑の一般的感情が賢人と宗派のものに向けられた。ポルフィリーによれば、反ピタゴラスが勃興し、後の長い世代に記憶されるほど多数で活発だった。賢人の友人たちの多くは死んだと言われ、ピタゴラス自身敵たちの怒りの犠牲になったのか、弟子たちとメタポントゥムに逃亡して死んだのか疑問をもたれている。最近までイタリア南部は騒乱によって疲弊し、ギリシャも仲裁や調停に入ったが、騒動は収まらなかった。ピタゴラスの制度は捨て去られ、アカイアの金権的な民主主義が知的であるが共感は呼ばなかった寡頭政治の残骸の上に築かれている。
ピタゴラスは、社会を革命しようと試みたときに、官吏として貴族に頼るという致命的な間違いをした。革命、特に宗教に影響されたものは、民衆の感情によらなければ決して働き得ない。この間違いから、彼は人々に反感を買うようになった。ポルフィリーに関連してネアンテスが考察し、他のすべての証言からも明らかなことだが、部分的な暴動ではなく、民衆の反撥によって彼の没落が決したことは間違いないからである。彼の死後、哲学的な派閥は残ったが、政治的規範が消え去ったことも明らかである。彼がまいた種で、大きな国家にまで育ったのは、よいことであれ悪いことであれ、それは多数のものの心に植えるのだということである。」
長い間世界を楽しませてきた、彼が音楽のコードを発見したのだという物語も除くわけにはいかない。ある日のこと、鍛冶屋で、多くの男が次々に熱した鉄を叩いているのを聞いて、彼はひとつのハンマーを除いて他のすべてが調和のとれたコードを、つまりオクターブ、五度、三度、を生みだしていると述べた。しかし、五度と三度のあいだの音は不調和だと。仕事場に入ったとき、彼は音の多様性はハンマーの重さの相違によるのだとわかった。彼は正確な重さをはかり、家に戻ると、平面に四本の弦を張り、それぞれの弦の端にハンマーと同じ重さのものをつるし、かき鳴らすと、ハンマーの音に対応した音がした。彼はそこから音楽の音階をつくりだすことに進んだ。
このことについて、バーニー博士は『音楽の歴史』のなかでこう述べている。「ハンマーと鉄床がオーストリッチのように消化力のある古代人と現代人によって飲み込まれ、検証と実験がなされたとしても、異なった大きさと重さのハンマーは同じ鉄床の上で異なった音を出すに過ぎず、それは異なった大きさの矢や鐘の舌が、同じつるや鐘でしか異なった音を出さないのと同じであろう。」
ピタゴラスの生涯を終えるにあたって読者に思い起こしてもらいたいのは、途方もない矛盾した主張を歴史や伝記から集め、「権威」として無批判に使うことである。一例としてそうした「権威」をひとつあげよう。イアムビリカスはピタゴラスの生涯を、キリスト教の勃興と戦い、キリストに異教の哲学をもって対立したという視点で書いている。ピタゴラスに帰せられている奇跡も同様に根拠がないことである。
ピタゴラスの生涯は、ぼんやりとした荘厳な伝説に包まれていて、そこから救い出そうとする試みは希望がない。ある種の一般的証拠は間違いなく信用される。しかし、それはほとんどなく、曖昧である。
その伝記に必要とされる難点の一例として、古代の作家たちや現代の学者たちが探求の結果あげた誕生年のことをあげよう。ディオドロス・シクラスは61回オリンピアのときだと言った。クレメンス・アレックスは62回オリンピア。ユーセビウスは63あるいは64回オリンピア。スタンレーは53回オリンピア。ゲールは60回。ダンシエは47回。ベントレーは43回。ロイドは43回。ドッドウェルは52回。リッターは49回。サールウォールは51回。48年の幅で変わっている。もし選択をしなければならないなら、ベントレーに決めることになろう。素晴らしい学者にたいする敬意のためだけではなく、ピタゴラスの友人や同時代のアレクシマンドロスによって知られている誕生の日と合致しているようだからである。
ピタゴラスは通常、偉大なる数学の創設者に分類される。このことは、彼の広範囲にわたる労作、彼が主に専念していたのは広がりや重量の決定、音楽の音の比率にあったことなどを知ると納得される。彼の科学と技術は、彼の生涯とともに、無意味なまでに過大視されている。伝説によると、彼は聖人であり、奇跡の使い手であり、人間の知恵の教師以上の存在だった。生まれもまた驚くべきもので、ヘルメスの息子ともアポロの息子ともいわれている。その証拠として彼は金の腿をあらわしていたと言われる。国を荒廃させたダフネの熊を飼い慣らした。彼はメタポンタムとタウロミニアムの異なった場所で、同じ日同じ時間に講義を開いた。川を横切るときは、川の神が「これは、ピタゴラス」と挨拶をし、彼にとって天球の調和は音楽に聞こえたという。
伝説はこうした驚異を記している。しかし、伝説的な伝承として存在しうるのは、ピタゴラスの意味深い偉大性ということである。ブルワー・リットン卿に十分にいわれているように、「ピタゴラスに関するあらゆる伝統だけではなく、彼個人が後にイタリアにもたらした強い影響、彼が人類に及ぼした個人的影響、道徳的命令を必要としていた者に及ぼした熱狂、諸派閥や制度の創立者であることは、彼がいまだ名前のない芸術を有していたことを証明している。ピダゴラスの時代と教えに多くの者が服従したが、彼が入念にギリシャの古代からの宗教と政治を探求し、異邦人ではあったが、訪れたデロスの伝統を(いかに寓話によってそれを損なったとしても)拒否し得ず、デルフィーの敬虔な奉仕者から教えを受けて感動したということが信じられていた。」*彼は通常の人間ではなく、寓話によって詩的な領域においてまで賛美されていた。ロマンティックで、奇跡的な行為が帰せられているときには、英雄はそうした驚くべき栄光を担うに足るだけ偉大であることはたしかだ。
*『アテネ、その勃興と没落』ii.412。
しかるに、示された事実は、一般的に伝えられている、彼がその教えと哲学をすべて東洋から借りたという説を反駁する。こうした偉大な人物が異邦からの教師なしですますことができるだろうか。実際できたし、そうしたことはたしかである。しかし、同郷の者たちは、ごく自然な考えによって、彼の偉大さを東洋での教育の結果だと見なした。彼の国には予言者はいなかった。想像力のあるギリシャ人は遠く離れた異境の国の者にそうした性質があるとする傾向があった。彼らは自分自身のなかから知恵が湧いてでるということを信じることができなかった。東洋という広大で未知の領域から、すべての新しいもの、思考が生じるに違いないとみていた。
リッターが観察したように、古代ギリシャにとってエジプトがいかに驚異に満ちた土地であったか、後にもっと知られるようになっても、人々の性格は保留したとしても、国家的建築の途方もない構造に観察者の注意がねじ曲げられるのを見るとき、ギリシャ人が強力な東洋と偉大なピタゴラスとのあいだに何らかの関連をつけたことは容易に想像される。
しかし、我々はピタゴラスがその学説についてエジプトにさほど負うことはないことを信じるとしても、彼がエジプトを旅したことに懐疑的なわけではない。サモスはエジプトと定期的な交流があった。ピタゴラスがエジプトを旅したか、旅したものに話を聞いたかしたならば、その体系にあらわれているように、エジプトの慣習について多くの知識を持っていたことだろう。そしてそれは司祭から教えを受けるまでもないことだっただろう。輪廻の教えはエジプトでは一般的なものだった。リッターがいうように、彼はそのために教えを請うまでもなかったのである。埋葬の習慣やある種の食物を禁じることは旅行者にはよく知られたことだった。しかし、ピタゴラスがエジプトの司祭から教えを受けたことに対する根本的な反論は、司祭階級そのもののなかに認められる。もし同じ階級に属さないのならば、同郷人の最も親しい者へも教えることを惜しんだとするなら、異邦人であり、異なった宗教をもつ者にどうして教えを授けることがあろうか。
古代の作家たちはこの反論に気づいていた。それを無視するために、彼らはブルッカーが与えている物語を発明した。ポリクラテスはエジプト王であるアマシスと友好的な関係にあり、ピタゴラスを送って、司祭と接することができるように推薦したというのだ。王の権威は司祭が異邦人にその神秘を明かすことを認めるほど十分なものではない。それゆえ、彼らはピタゴラスをテーベにおいて古代に精通したものとした。テーベの司祭は王族から選任されたものとして畏敬されており、異邦人に儀式を見られることを嫌っていた。新参者を嫌いながらも、彼らは割礼を含めたいくつかの残酷な儀式に参加させた。しかし、彼をくじくことはできなかった。彼は忍耐をもって指図に従い、最終的に信頼を得た。彼はエジプトで二十二年を過ごし、あらゆる学問に精通して帰ってきた。これは悪い物語ではない。しかし、一つ反論があるとしたら――実体がないということである。
哲学者という言葉の発明は、ピタゴラスに帰せられている。ペロポンネソスにいたとき、レオニティアスに「なにがおまえの技芸なのだ」と問われた。「私には技芸はない。私は哲学者だ」というのが答えだった。レオニティアスはその言葉を聞いたことがなく、なにを意味するのか尋ねた。ピタゴラスは重々しく答えた、「それはオリンピアの競技に比較できるかもしれない。あるものは栄光と王冠を求める。買ったり売ったりすることで利益を求める者もいる。彼らより高貴な者たちは、利益も賞賛も求めず、この素晴らしい見世物を楽しみ、そこで起きるすべてのことを知ろうとする。同じように、我々は天国である国を出て、多くの収益、多くの利益を得るものの集まりである世界にきたが、そこには数こそほとんどいないが、貪欲や虚栄を軽蔑し、自然を研究するものが存在する。それらを私は哲学者と呼ぶ。というのも、個人的な関心なしでいる観客ほど高貴なものは存在せず、その生涯では、瞑想と自然の知識とが他のどんな仕事よりも名誉あるものとされているからだ。」ピタゴラスが言うところによれば、「知恵を愛するもの」という通常の哲学者の解釈は、「愛するもの」という言葉に最高度の広がりをもたせたときにだけ正確なものとなることを見ておく必要がある。知恵というのは哲学者にとって「ここにあり目的でもあるすべてであり」、単なる好みや一つの追求すべきものであってはならない。それは生命を捧げる貴婦人でなければならない。それがピタゴラスにとっての意味であった。それ以前に賢人を指していたのはσοφςという言葉だった。しかし、彼は自分を、その体系において為したのと同様に、Sophoiあるいは当時の哲学者とは区別することを望んでいた。Sophosの意味は何であろうか。間違いなく我々はそれによって哲学者とは異なる賢人を意味している。その知恵とは実践的なものであるか、実践的な目的に変わるものであった。知恵を愛するものは、それ自体を愛しているのではなく、目的のために愛していた。ピタゴラスは知恵をそれ自体において愛していた。彼にとって瞑想は人間性の最高度の修練だった。生きることの底辺にある目的のために知恵を引きずり下ろすことは冒涜だった。それゆえ、彼は自信を哲学者――知恵を愛するもの――と呼んだが、知恵をより有益な目的のために求める者とははっきりと区別した。
哲学者という言葉のこの解釈は、彼の意見のいくつかを説明することになろう。とりわけ、厳格な入会儀礼の後でなければ入ることが認められない秘密結社の設立を説明する。五年のあいだ、加入希望者は沈黙を守らねばならなかった。多くのものが絶望のうちにそこで断念した。彼らは純粋な知恵のための瞑想には値しなかった。饒舌な傾向のないものは、その期間を守り通した。様々な屈辱に耐えねばならなかった。自己否定の力を測るために様々な実験が為された。それらによってピタゴラスは彼らが世俗的かどうか、科学という聖域に入るのにふさわしい者かどうかを判断した。浄化、犠牲、通過儀礼によって魂の基本的な部分を一掃した後に、彼らは聖域に入ることが認められ、魂のより高次の部分も、非物質的で永遠な事物についての知識からなる真理に関する知識によって祓い清められるのだった。この目的のために彼は数学から始めたが、それは物質的なものと非物質的なものとを媒介し、それだけが精神を感官的な事物から切り離し、知的なものへ導くことができるからである。
我々が不思議に思うのは、彼は神として崇拝されていただろうかということである。世俗的な争い、偉人になろうとする野心も超越し、知恵のためだけに生きた彼こそが、通常の人間よりも高次の刻印を押されているのではないか。後の歴史家たちは、白いローブをまとい、黄金の王冠をかぶった、重々しく荘重で、沈着な彼の姿を描いた。人間的な喜びや悲しみなどは超越し、存在のより深い神秘について瞑想している。音楽や、ホメロス、ヘシオドス、タレスの頌歌、あるいは天上の調和に聞き入っている。活気があり、おしゃべりで、議論好き、活動的で多才なギリシャ人から、荘重で謹厳、沈黙と瞑想を旨とする人物が現れるほど驚くべき現象があろうか。
ブルワー・リットン卿の『アテネ』から、ピタゴラスの政治的経歴についての部分を引用しよう。――「キケロとアウルス・ゲリウスの証言によると、ピタゴラスはタルキニウス・スペルブスの統治下にイタリアに到着し、アカイア族のギリシャ人によって植民地化されたタレンタム湾の一都市であるクロトンに住居を定めた。もし後の弟子たちの途方もない話を部分的にでも信じ、けばけばしく飾り立てられたものから、もともとの単純な真実を引き出そうとするなら、彼は最初は若者の教師としてあらわれ、当時としては異例のことではないが、すぐに法制官の教師となった。都市の紛争は彼の対象として好まれた。議会(千人の人員があり、間違いなく異なった人種からなっていた――最初は入植者の子孫たちであったが、最後には土着の人々も加わった)は雄弁で名声のある哲学者の到着と影響を利用した。彼は貴族の強化に力を尽くし、同じく、民主主義と専制主義に反目した。しかし、彼の政策はなんら世俗的な野心を伴ったものではなかった。彼は少なくともしばらくの間は、表向きは権力や地位を拒み、時期的にいうと比較的最近であるロヨラによって創設されたような強力な秩序に似ていなくもない、組織化された畏怖される社会を創設することに満足していた。弟子たちは試験と見習い期間を経ることでこの社会に入ることを認められた。段階を経ることで彼らはより高い栄誉を受け、より深い神秘に与ることが認められた。宗教は同胞愛の基礎となり、進歩と力を得る目的のために人間を結びつけた。彼はクレトンで高貴な家族のあいだから自らの制度を形成するのに三百人を選び、彼らは自らの身分を知り、世界に命令するのに適するように育てられた。ピタゴラスが首長となったこの社会は、古代の元老院に取って代わり、行政管理を得てからさほどたっていなかった。この制度においては、ピタゴラスは他に類のない唯一の存在だった。ギリシャ哲学の創建者たちの誰も彼には似ていない。誰から聞いても、女性の重要性を認めることにおいてその時代の賢人たちとも異なっていた。彼は女性に講義をし、教えたといわれている。彼の妻自身が哲学者であり、十五人の女性の弟子たちが、彼の学派を光彩を放つものとしている。人類を魅了し欺すあらゆるものについての深い知識をもとにした制度が、一次的な権力を守ることに失敗するはずがない。彼の影響力はクロトンに限られることはなかった。他のイタリアの都市に及んだ。政治制度を修正し、転覆した。ピタゴラスがより粗野で、個人的な野心を持っていたなら、彼はおそらくは強力な君主制を築き、社会年代記を新しい実験の結果でより富ますこともできたろう。しかし、彼の野心は英雄のものではなく、賢者のものだった。彼は自分の身分を高めるよりもむしろ制度の確立を願った。彼の直接の後継者たちは、彼が創設した同朋社会から生じる結果のすべてを見ることはなかった。そして彼の華麗で、荘厳な政治的企図は、しばらくの間は成功したが、無能な友愛感情の茶番と熱心でなかばは気のきいた禁欲主義を残しただけだった。
かくも神秘的で革命的な権力が社会のいたるところに行き渡り、イタリアの相当の部分で確立されたとき、警戒と疑惑の一般的感情が賢人と宗派のものに向けられた。ポルフィリーによれば、反ピタゴラスが勃興し、後の長い世代に記憶されるほど多数で活発だった。賢人の友人たちの多くは死んだと言われ、ピタゴラス自身敵たちの怒りの犠牲になったのか、弟子たちとメタポントゥムに逃亡して死んだのか疑問をもたれている。最近までイタリア南部は騒乱によって疲弊し、ギリシャも仲裁や調停に入ったが、騒動は収まらなかった。ピタゴラスの制度は捨て去られ、アカイアの金権的な民主主義が知的であるが共感は呼ばなかった寡頭政治の残骸の上に築かれている。
ピタゴラスは、社会を革命しようと試みたときに、官吏として貴族に頼るという致命的な間違いをした。革命、特に宗教に影響されたものは、民衆の感情によらなければ決して働き得ない。この間違いから、彼は人々に反感を買うようになった。ポルフィリーに関連してネアンテスが考察し、他のすべての証言からも明らかなことだが、部分的な暴動ではなく、民衆の反撥によって彼の没落が決したことは間違いないからである。彼の死後、哲学的な派閥は残ったが、政治的規範が消え去ったことも明らかである。彼がまいた種で、大きな国家にまで育ったのは、よいことであれ悪いことであれ、それは多数のものの心に植えるのだということである。」
長い間世界を楽しませてきた、彼が音楽のコードを発見したのだという物語も除くわけにはいかない。ある日のこと、鍛冶屋で、多くの男が次々に熱した鉄を叩いているのを聞いて、彼はひとつのハンマーを除いて他のすべてが調和のとれたコードを、つまりオクターブ、五度、三度、を生みだしていると述べた。しかし、五度と三度のあいだの音は不調和だと。仕事場に入ったとき、彼は音の多様性はハンマーの重さの相違によるのだとわかった。彼は正確な重さをはかり、家に戻ると、平面に四本の弦を張り、それぞれの弦の端にハンマーと同じ重さのものをつるし、かき鳴らすと、ハンマーの音に対応した音がした。彼はそこから音楽の音階をつくりだすことに進んだ。
このことについて、バーニー博士は『音楽の歴史』のなかでこう述べている。「ハンマーと鉄床がオーストリッチのように消化力のある古代人と現代人によって飲み込まれ、検証と実験がなされたとしても、異なった大きさと重さのハンマーは同じ鉄床の上で異なった音を出すに過ぎず、それは異なった大きさの矢や鐘の舌が、同じつるや鐘でしか異なった音を出さないのと同じであろう。」
ピタゴラスの生涯を終えるにあたって読者に思い起こしてもらいたいのは、途方もない矛盾した主張を歴史や伝記から集め、「権威」として無批判に使うことである。一例としてそうした「権威」をひとつあげよう。イアムビリカスはピタゴラスの生涯を、キリスト教の勃興と戦い、キリストに異教の哲学をもって対立したという視点で書いている。ピタゴラスに帰せられている奇跡も同様に根拠がないことである。
2017年12月19日火曜日
アナクシマンドロス――ルイス『哲学史列伝』
第二章 数学者
§1.ミレトスのアナクシマンドロス
「ここで、ギリシャ哲学の歴史においてはじめて、我々は同時代的な発展に出会うのであり、観察してみれば、哲学の最初期において、相互影響の歴史的な証拠が、どちらの系譜も完全に間違ってもいなければ、信用に値する価値がないと余計なことを考えることもないだろう。他方において、内的な証拠は非常に限定された価値しかなく、というのも、他方において進化し活用された観念がもう一方においては完全に無視されていることを理解することは不可能だからである。古い哲学者は共通の源泉から、同じ考え方の習慣に従って考えを導いているので、知悉されたことから出発する議論は広範囲にわたるものでもなければ、容易に理解することもできない。実際、これら二つの方向がとことん追求されたなら、自然と宇宙に対する正反対の見方について活発な争いの十分な証拠が見られただろう。実際には、初期の哲学者たちが自分の考えを伝える不適切な方法のことを思えば、それぞれの体系は長い間非常に狭い仲間内でしか知られていなかった。しかしながら、当時の哲学的衝動が真に国家的な欠如感の結果だと想定すると、多様な要素がほぼ同時期にイオニアに、独立して、外的な関わりなく姿をあらわしはじめたことはありそうなことである。」*
*リッター、I.265
我々が考察しようとする学派の長は、ミレトスのアレクシマンドロスで、42回オリンピア(紀元前610年)に生まれたとされる。彼はタレスの友人とも、また弟子とも言われる。前者の関係の方が好ましい。少なくとも歴史を見る限り弟子ではない。政治的、科学的知識についての評判は非常に高かった。多くの重要な発明が彼によるものであり、そのなかには日時計や地図がある。天体の大きさと距離の計測について小冊子が書かれたが、それはもっとも早い哲学的著作だとされている。彼は情熱的に数学に熱中していて、一連の幾何学的問題を心に抱いていた。彼はアポロニアの植民地のリーダーだった。また、ピタゴラスとアナクレオンが住むサモスに専制君主ポリクレトスの宮殿を建てたと伝えられている。
アナクシマンドロスの教義については、どの歴史家も一致していない。実際、相応の歴史的位置についてもほとんど同意されていない。
アナクシマンドロスは事物の起源にアルケーαρχηという語を用いたとされている。この言葉、根本原理でなにを意味していたのか、古代の作家たちによって様々に解釈されている。彼がそれを無限と呼んだことについては一致しているが、無限によって彼がなにを理解していたかについてはいまだ決定されていない。*
*リッター、i.267.
一見したところ、この教義「無限が万物の根源である」にはなんら理解できるところはない。ずっと後の一神論のようにも思えるし*、神秘主義の言葉遊びのようにも思える。我々の精神には、多かれ少なかれ、タレスの「水は万物の根源である」という説よりは理解するのが困難である。想像力によって当時に戻り、こうした意見が起きた理由を考えられないか見てみよう。
*それがあり得ないことは確かである。この種の誤解を防いでおくために、それは、制限のない力でもなければ、現代の概念に含まれているような制限のない精神でもないことを言っておこう。一世紀後に生まれたアナクサゴラスでは、τεαχειτονは巨大さでしかない。――シンプリシアス『物理学』83,b、リッターによる引用を参照。
アナクシマンドロスを、偉大な先行者であり、友人でもあるタレスの傍らに置いてみると、彼の思考の際だった抽象性に衝撃を受けざるを得ない。沈思黙考する形而上学者の代わりに、我々は幾何学者を見る。タレスは、その有名な警句「汝自身を知れ」によってもわかるように本質的に具体的であり、「無限は万物の根源である」と言い、究極的な努力によって抽象にいたったアナクシマンドロスとは対照的である。こうした傾向を認めよう。彼のうちにモラリストや物理学者よりも幾何学家を見てみよう。いかに万物が彼の精神に抽象的な形をとってあらわれるのか、いかに数学が諸科学の科学であるかを理解しようとすれば、おそらく彼の説を理解することができるだろう。
万物の起源を探したタレスは、すでに見たように、水が起源だと考えた。しかし、抽象的に物事を見ることに慣れていたアナクシマンドロスは、水のように具体的な事物を受け入れることはできなかった。分析にはより究極的ななにかが必要とされた。タレスとともに、水が宇宙の材料だと考えたとしても、それは諸条件に従うものではないだろうか。それらの諸条件とはなにか。万物がそこから成り立つ水分は、多くの場合水分であることを止めているのではないか。あらゆるものの起源が常に変化し、個別の事物において常に混乱するものだろうか。水自体は事物である。しかし、ある事物がすべての事物であることはできない。
タレスの教義に対するこうした反論が彼をしてこの説を捨てさせた、あるいは変更させた。彼は、アルケーが水ではないといった。それは制限のないすべてξο απειρουでなければならない。
この理論が曖昧で、無益なことは間違いなく明らかだろう。「すべて」という抽象は言葉の上の単なる区別であるように思える。しかし、我々は繰り返し気づくことになるが、ギリシャ哲学において、言葉の上での区別は一般的に事物についての区別と等しい。数学者が自分の科学の本性に従って、いかに抽象を実在とみるか――形式を切り離し、それだけが物体を構成しているかのように扱う――を読者が考えてみるなら、アナクシマンドロスの有限な事物と無限な全体との区別を考えることは難しいことではなかろう。
かくして、我々が彼の説を説明できるのはただひとつの方法による。この説明はアリストテレスとテオフラテスの証言によるもので、それによれば、無限とは、分離によって生じた個物の基本的な部分の多数を意味するという。「分離によって」という箇所は意味深い。それは抽象から具体への過程を意味している――そして全体は無限な事物の内に実現するのである。無限を存在の名で呼び、「存在そのものとなにかの存在がある。前者が存在で、多様な存在する事物がいつまでの流れ出る源泉である。」こうしてみれば、おそらくアナクシマンドロスの意味が理解可能なものとなるだろう。
リッターのいうところを聞こう。アナクシマンドロスは「第一実体が無限だとし、我々を取り巻く制限なく多様な事物を生み出すのに十分だと論じるものの代表である。アリストテレスはこの無限を混合物として特徴づけたが、我々は単にそれを多数の一次的要素だと考える必要はない。というのも、アレクシマンドロスにとっては、それは不死で滅することがなく――永久に生産し続けるエネルギーだからである。この個物の生産から彼は無限の永遠の運動を引きだした。」
アナクシマンドロスによれば、第一存在は疑問の余地なく統一である。それは一者であるだけでなくすべてでもある。そこにはすべての日常的なものが構成される多数の要素がある。それらの要素は自然の異なった現象としてあらわれるときに分離される必要があるに過ぎない。創造は無限の分解である。どうやってこの分解は生じるのか。無限の条件である永遠の運動によってである。「常に始まりの状態にある無限は、無限の要素が常に分泌しては凝固するものでしかない、と彼は見ている。それゆえ、全体の部分は常に変化し、全体は変化し得ないものだということができる。」
抽象が存在――あらゆる事物の起源である――にまで高められるという考えは十分な根拠がない。それはこういっているようなものである、「1,2,3,20,80,100という数がある。そしてまた抽象的な数があり、これらの個別の数はその具体的な実現化に過ぎない。数がなければ、どんな数字も存在しないだろう。」と。だが、人間精神から抽象を除き、それを抽象に過ぎないと考えることは困難であり、この欠点は哲学体系の大多数の根に存在する。現代において賞賛されているヘーゲルやその他にも、幾分言葉は異なるにしろ、同じ特徴が残っていることを学べば、アナクシマンドロスの間違いに対してある種寛容の心を抱く助けとなるかもしれない。彼らは創造は神が活動することによって起こり、その行為によって尽きることはないという。別の言葉で言えば、創造は神のごく日常的なありかたである。有限な事物は永遠な運動、全体のあらわれに過ぎない。
アナクシマンドロスは抽象に具体的なものよりもより高次の意味を与えることによってタレスと自分を区別した。この傾向において、我々はしばしば数学学派と呼ばれるピタゴラス派の起源を見る。タレスの思弁は宇宙の物質的構成を発見することに向けられていた。それらはいかに帰納が不完全なものだろうと、観察された事実からの帰納によってある程度見いだされた。アナクシマンドロスの思弁は完全に演繹的である。そして、そうしたものとして、純粋な演繹の科学である数学に向けられていた。
この数学的傾向の一例として、我々は彼の物理的考えを例に引くことができる。宇宙の起源の中心的な点は地球にある。というのも、底部と高さが1:3の円筒となっており、中心部は世界の果てまでの等しい距離によって支えられているからである。
上述の説明から、読者はアナクシマンドロスをタレスの後継者と位置づける一般的な歴史的議論の妥当性を判断できるだろう。彼が思弁的探求の偉大な系列の一つから現れ、その系列はおそらく古代を通じても最も風変わりなものだったことは明らかである。タレスにとって、万物の根源である水は実在の物理的要素として捉えられていたが、後継者たちには徐々に、まったく異なったもの(生命あるいは精神)の代表的な証票でしかなくなった。そして、代表として名を貸しているその要素は、それが標章である一次的力から派生した二次的な現象と見なされるようになった。水はタレスにとっては真の一次的要素だった。ディオゲネスでは、水は(それ以前に空気に取って代わられていたが)精神の標章に過ぎなかった。アナクシマンドロスの全体は、抽象的であるが、にもかかわらず、多くの点で物理的である。それはすべての事物である。彼の無限の概念は観念的なものではない。それは象徴の状態に移ることはなかった。それは単に存在の一次的な事実の記述であった。とりわけ、日常的な有限な事物を例外として、知性の概念を含んでいなかった。彼の先験的なものとは無限の存在であり、無限の精神ではなかった。このことの後の発展は、エレア派においてみることになろう。
§1.ミレトスのアナクシマンドロス
「ここで、ギリシャ哲学の歴史においてはじめて、我々は同時代的な発展に出会うのであり、観察してみれば、哲学の最初期において、相互影響の歴史的な証拠が、どちらの系譜も完全に間違ってもいなければ、信用に値する価値がないと余計なことを考えることもないだろう。他方において、内的な証拠は非常に限定された価値しかなく、というのも、他方において進化し活用された観念がもう一方においては完全に無視されていることを理解することは不可能だからである。古い哲学者は共通の源泉から、同じ考え方の習慣に従って考えを導いているので、知悉されたことから出発する議論は広範囲にわたるものでもなければ、容易に理解することもできない。実際、これら二つの方向がとことん追求されたなら、自然と宇宙に対する正反対の見方について活発な争いの十分な証拠が見られただろう。実際には、初期の哲学者たちが自分の考えを伝える不適切な方法のことを思えば、それぞれの体系は長い間非常に狭い仲間内でしか知られていなかった。しかしながら、当時の哲学的衝動が真に国家的な欠如感の結果だと想定すると、多様な要素がほぼ同時期にイオニアに、独立して、外的な関わりなく姿をあらわしはじめたことはありそうなことである。」*
*リッター、I.265
我々が考察しようとする学派の長は、ミレトスのアレクシマンドロスで、42回オリンピア(紀元前610年)に生まれたとされる。彼はタレスの友人とも、また弟子とも言われる。前者の関係の方が好ましい。少なくとも歴史を見る限り弟子ではない。政治的、科学的知識についての評判は非常に高かった。多くの重要な発明が彼によるものであり、そのなかには日時計や地図がある。天体の大きさと距離の計測について小冊子が書かれたが、それはもっとも早い哲学的著作だとされている。彼は情熱的に数学に熱中していて、一連の幾何学的問題を心に抱いていた。彼はアポロニアの植民地のリーダーだった。また、ピタゴラスとアナクレオンが住むサモスに専制君主ポリクレトスの宮殿を建てたと伝えられている。
アナクシマンドロスの教義については、どの歴史家も一致していない。実際、相応の歴史的位置についてもほとんど同意されていない。
アナクシマンドロスは事物の起源にアルケーαρχηという語を用いたとされている。この言葉、根本原理でなにを意味していたのか、古代の作家たちによって様々に解釈されている。彼がそれを無限と呼んだことについては一致しているが、無限によって彼がなにを理解していたかについてはいまだ決定されていない。*
*リッター、i.267.
一見したところ、この教義「無限が万物の根源である」にはなんら理解できるところはない。ずっと後の一神論のようにも思えるし*、神秘主義の言葉遊びのようにも思える。我々の精神には、多かれ少なかれ、タレスの「水は万物の根源である」という説よりは理解するのが困難である。想像力によって当時に戻り、こうした意見が起きた理由を考えられないか見てみよう。
*それがあり得ないことは確かである。この種の誤解を防いでおくために、それは、制限のない力でもなければ、現代の概念に含まれているような制限のない精神でもないことを言っておこう。一世紀後に生まれたアナクサゴラスでは、τεαχειτονは巨大さでしかない。――シンプリシアス『物理学』83,b、リッターによる引用を参照。
アナクシマンドロスを、偉大な先行者であり、友人でもあるタレスの傍らに置いてみると、彼の思考の際だった抽象性に衝撃を受けざるを得ない。沈思黙考する形而上学者の代わりに、我々は幾何学者を見る。タレスは、その有名な警句「汝自身を知れ」によってもわかるように本質的に具体的であり、「無限は万物の根源である」と言い、究極的な努力によって抽象にいたったアナクシマンドロスとは対照的である。こうした傾向を認めよう。彼のうちにモラリストや物理学者よりも幾何学家を見てみよう。いかに万物が彼の精神に抽象的な形をとってあらわれるのか、いかに数学が諸科学の科学であるかを理解しようとすれば、おそらく彼の説を理解することができるだろう。
万物の起源を探したタレスは、すでに見たように、水が起源だと考えた。しかし、抽象的に物事を見ることに慣れていたアナクシマンドロスは、水のように具体的な事物を受け入れることはできなかった。分析にはより究極的ななにかが必要とされた。タレスとともに、水が宇宙の材料だと考えたとしても、それは諸条件に従うものではないだろうか。それらの諸条件とはなにか。万物がそこから成り立つ水分は、多くの場合水分であることを止めているのではないか。あらゆるものの起源が常に変化し、個別の事物において常に混乱するものだろうか。水自体は事物である。しかし、ある事物がすべての事物であることはできない。
タレスの教義に対するこうした反論が彼をしてこの説を捨てさせた、あるいは変更させた。彼は、アルケーが水ではないといった。それは制限のないすべてξο απειρουでなければならない。
この理論が曖昧で、無益なことは間違いなく明らかだろう。「すべて」という抽象は言葉の上の単なる区別であるように思える。しかし、我々は繰り返し気づくことになるが、ギリシャ哲学において、言葉の上での区別は一般的に事物についての区別と等しい。数学者が自分の科学の本性に従って、いかに抽象を実在とみるか――形式を切り離し、それだけが物体を構成しているかのように扱う――を読者が考えてみるなら、アナクシマンドロスの有限な事物と無限な全体との区別を考えることは難しいことではなかろう。
かくして、我々が彼の説を説明できるのはただひとつの方法による。この説明はアリストテレスとテオフラテスの証言によるもので、それによれば、無限とは、分離によって生じた個物の基本的な部分の多数を意味するという。「分離によって」という箇所は意味深い。それは抽象から具体への過程を意味している――そして全体は無限な事物の内に実現するのである。無限を存在の名で呼び、「存在そのものとなにかの存在がある。前者が存在で、多様な存在する事物がいつまでの流れ出る源泉である。」こうしてみれば、おそらくアナクシマンドロスの意味が理解可能なものとなるだろう。
リッターのいうところを聞こう。アナクシマンドロスは「第一実体が無限だとし、我々を取り巻く制限なく多様な事物を生み出すのに十分だと論じるものの代表である。アリストテレスはこの無限を混合物として特徴づけたが、我々は単にそれを多数の一次的要素だと考える必要はない。というのも、アレクシマンドロスにとっては、それは不死で滅することがなく――永久に生産し続けるエネルギーだからである。この個物の生産から彼は無限の永遠の運動を引きだした。」
アナクシマンドロスによれば、第一存在は疑問の余地なく統一である。それは一者であるだけでなくすべてでもある。そこにはすべての日常的なものが構成される多数の要素がある。それらの要素は自然の異なった現象としてあらわれるときに分離される必要があるに過ぎない。創造は無限の分解である。どうやってこの分解は生じるのか。無限の条件である永遠の運動によってである。「常に始まりの状態にある無限は、無限の要素が常に分泌しては凝固するものでしかない、と彼は見ている。それゆえ、全体の部分は常に変化し、全体は変化し得ないものだということができる。」
抽象が存在――あらゆる事物の起源である――にまで高められるという考えは十分な根拠がない。それはこういっているようなものである、「1,2,3,20,80,100という数がある。そしてまた抽象的な数があり、これらの個別の数はその具体的な実現化に過ぎない。数がなければ、どんな数字も存在しないだろう。」と。だが、人間精神から抽象を除き、それを抽象に過ぎないと考えることは困難であり、この欠点は哲学体系の大多数の根に存在する。現代において賞賛されているヘーゲルやその他にも、幾分言葉は異なるにしろ、同じ特徴が残っていることを学べば、アナクシマンドロスの間違いに対してある種寛容の心を抱く助けとなるかもしれない。彼らは創造は神が活動することによって起こり、その行為によって尽きることはないという。別の言葉で言えば、創造は神のごく日常的なありかたである。有限な事物は永遠な運動、全体のあらわれに過ぎない。
アナクシマンドロスは抽象に具体的なものよりもより高次の意味を与えることによってタレスと自分を区別した。この傾向において、我々はしばしば数学学派と呼ばれるピタゴラス派の起源を見る。タレスの思弁は宇宙の物質的構成を発見することに向けられていた。それらはいかに帰納が不完全なものだろうと、観察された事実からの帰納によってある程度見いだされた。アナクシマンドロスの思弁は完全に演繹的である。そして、そうしたものとして、純粋な演繹の科学である数学に向けられていた。
この数学的傾向の一例として、我々は彼の物理的考えを例に引くことができる。宇宙の起源の中心的な点は地球にある。というのも、底部と高さが1:3の円筒となっており、中心部は世界の果てまでの等しい距離によって支えられているからである。
上述の説明から、読者はアナクシマンドロスをタレスの後継者と位置づける一般的な歴史的議論の妥当性を判断できるだろう。彼が思弁的探求の偉大な系列の一つから現れ、その系列はおそらく古代を通じても最も風変わりなものだったことは明らかである。タレスにとって、万物の根源である水は実在の物理的要素として捉えられていたが、後継者たちには徐々に、まったく異なったもの(生命あるいは精神)の代表的な証票でしかなくなった。そして、代表として名を貸しているその要素は、それが標章である一次的力から派生した二次的な現象と見なされるようになった。水はタレスにとっては真の一次的要素だった。ディオゲネスでは、水は(それ以前に空気に取って代わられていたが)精神の標章に過ぎなかった。アナクシマンドロスの全体は、抽象的であるが、にもかかわらず、多くの点で物理的である。それはすべての事物である。彼の無限の概念は観念的なものではない。それは象徴の状態に移ることはなかった。それは単に存在の一次的な事実の記述であった。とりわけ、日常的な有限な事物を例外として、知性の概念を含んでいなかった。彼の先験的なものとは無限の存在であり、無限の精神ではなかった。このことの後の発展は、エレア派においてみることになろう。
2017年12月18日月曜日
アポロニアのディオゲネス――ルイス『哲学史列伝』
§III.アポロニアのディオゲネス
アポロニアのディオゲネスは、無批判的に師の説を採用したことで、自分の時代を形成しなかったが、アナクシメネスの正統な後継者である。かくして、テンネマンは彼をピタゴラスの後に置いた。ヘーゲルは、奇妙な見逃しによって、ディオゲネスについては名前以外に何も知らないといっている。
ディオゲネスはクレタのアポロニアに生まれた。それ以上確かなことはいうことはできない。しかし、アナクサゴラスの同時代人だといわれているので、80回オリンピア(紀元前460年)の頃に全盛を迎えたと推定できる。彼の作品『自然について』はシンプリキウスの時代(六世紀)には存在していて、いくつかの文章が書き抜かれている。
ディオゲネスは事物の起源が空気であるというアナクシメネスの説を採用している。しかし、彼は魂との類推により惹かれ、より大きく深い意味を与えている。*この類推の力によって、彼は究極的なところまで結論を推し進めた。空気を事物の起源たらしめているのは何であろうか、と彼は自問した。明らかにその生命力である。空気は魂である。それゆえ、それは生きており、知性を持っている。しかし、この力、あるいは知性は空気よりも高次の存在であり、空気を通じて自らの姿を現す。結果的に時間の点に先行したものでなければならない。それは哲学者が探していた実体であるはずである。宇宙は自発的に進化し、生命力によって変容する生きた存在である。
*魂によって、我々は現代的な意味における精神よりも、むしろもっとも一般的な意味における生命と理解するべきである。かくして、アリストテレスの魂についての論考は、精神を含んだ生命原理に関するものであり、心理学的論考ではない。
この考えにおいて、二つの顕著な点があり、どちらも考察の大きな進歩を示している。第一に、αρχη第一実体が与える知性という属性である。アナクシメネスは第一実体を生気のある実体だと考えた。彼の体系では、空気は生命であるが、生命は必然的に知性を含むわけではない。ディオゲネスは生命は力であるのみならず、知性だとみた。彼のなかにかき立てられた空気は刺激するだけではなく、教え導くものでもある。あらゆる事物の起源である空気は必然的に永久で、破壊し得ない実体である。そして、魂として、必然的に意識も備わっている。「それは多くを知っており」、この知識が第一実体であることのもう一つの証拠である。「というのも、理性なしには」と彼はいう、「すべてを適切に、均衡をもって配列することが不可能である。そして我々がどんな対象を考えようと、最良に、最も美しいやり方で配列され秩序づけられているのが見いだされるだろう。」秩序は知性から生じうる。それゆえ、魂が第一にある。この考えは間違いなく偉大なものである。しかし、読者はその重要性を過大評価し、ディオゲネスの残りの教えも同じように、正当で深遠なものだと思わないように、また、歴史的真理を守るためにも、この考えの適用の仕方にも言及しなければならない。つまり、
生命ある統一体である世界は他の個体のように、生命力を全体から引き出さねばならない。それゆえ、彼は世界に呼吸器官に当たるものを与え、それを星々にも発見したと空想した。あらゆる創造と物質的運動は呼吸の作用でしかない。水分が太陽に引かれ、鉄が磁石に引かれるように、呼吸の過程を同じように見た。人間が獣より知性において優れているのは、地面に顔を垂れている獣よりも人間のほうがより純粋な空気を吸っているからである。
現象を説明しようとするこうした素朴な試みを見れば、ディオゲネスが大きい一歩を踏み出してはいたが、旅を達成するにはほど遠いことがわかるだろう。
彼の体系の第二の顕著な点は、タレスが開いた探求の道を閉じたそのやり方にある。四要素のひとつが世界の起源であるという確信から出発したタレスは、水をその要素だとし、アナクシメネスはそれに続き、空気が水よりもより普遍的な要素であるばかりか、それは生命でもあり、普遍的な生命に違いないとした。それに続いたディオゲネスは、空気は生命であるばかりではなく知性でもあり、知性が事物の最初であるに違いないとした。
それゆえ我々はリッターとともに、物理学的な方法を用いた哲学者としてはディオゲネスが最後だとすることに一致する。彼の体系において、この方法はその達成を見た。かくして、思索の大きな流れをたどってきた我々は、同時期に別の方向に進化を遂げたものたちに目を向けねばならない。
アポロニアのディオゲネスは、無批判的に師の説を採用したことで、自分の時代を形成しなかったが、アナクシメネスの正統な後継者である。かくして、テンネマンは彼をピタゴラスの後に置いた。ヘーゲルは、奇妙な見逃しによって、ディオゲネスについては名前以外に何も知らないといっている。
ディオゲネスはクレタのアポロニアに生まれた。それ以上確かなことはいうことはできない。しかし、アナクサゴラスの同時代人だといわれているので、80回オリンピア(紀元前460年)の頃に全盛を迎えたと推定できる。彼の作品『自然について』はシンプリキウスの時代(六世紀)には存在していて、いくつかの文章が書き抜かれている。
ディオゲネスは事物の起源が空気であるというアナクシメネスの説を採用している。しかし、彼は魂との類推により惹かれ、より大きく深い意味を与えている。*この類推の力によって、彼は究極的なところまで結論を推し進めた。空気を事物の起源たらしめているのは何であろうか、と彼は自問した。明らかにその生命力である。空気は魂である。それゆえ、それは生きており、知性を持っている。しかし、この力、あるいは知性は空気よりも高次の存在であり、空気を通じて自らの姿を現す。結果的に時間の点に先行したものでなければならない。それは哲学者が探していた実体であるはずである。宇宙は自発的に進化し、生命力によって変容する生きた存在である。
*魂によって、我々は現代的な意味における精神よりも、むしろもっとも一般的な意味における生命と理解するべきである。かくして、アリストテレスの魂についての論考は、精神を含んだ生命原理に関するものであり、心理学的論考ではない。
この考えにおいて、二つの顕著な点があり、どちらも考察の大きな進歩を示している。第一に、αρχη第一実体が与える知性という属性である。アナクシメネスは第一実体を生気のある実体だと考えた。彼の体系では、空気は生命であるが、生命は必然的に知性を含むわけではない。ディオゲネスは生命は力であるのみならず、知性だとみた。彼のなかにかき立てられた空気は刺激するだけではなく、教え導くものでもある。あらゆる事物の起源である空気は必然的に永久で、破壊し得ない実体である。そして、魂として、必然的に意識も備わっている。「それは多くを知っており」、この知識が第一実体であることのもう一つの証拠である。「というのも、理性なしには」と彼はいう、「すべてを適切に、均衡をもって配列することが不可能である。そして我々がどんな対象を考えようと、最良に、最も美しいやり方で配列され秩序づけられているのが見いだされるだろう。」秩序は知性から生じうる。それゆえ、魂が第一にある。この考えは間違いなく偉大なものである。しかし、読者はその重要性を過大評価し、ディオゲネスの残りの教えも同じように、正当で深遠なものだと思わないように、また、歴史的真理を守るためにも、この考えの適用の仕方にも言及しなければならない。つまり、
生命ある統一体である世界は他の個体のように、生命力を全体から引き出さねばならない。それゆえ、彼は世界に呼吸器官に当たるものを与え、それを星々にも発見したと空想した。あらゆる創造と物質的運動は呼吸の作用でしかない。水分が太陽に引かれ、鉄が磁石に引かれるように、呼吸の過程を同じように見た。人間が獣より知性において優れているのは、地面に顔を垂れている獣よりも人間のほうがより純粋な空気を吸っているからである。
現象を説明しようとするこうした素朴な試みを見れば、ディオゲネスが大きい一歩を踏み出してはいたが、旅を達成するにはほど遠いことがわかるだろう。
彼の体系の第二の顕著な点は、タレスが開いた探求の道を閉じたそのやり方にある。四要素のひとつが世界の起源であるという確信から出発したタレスは、水をその要素だとし、アナクシメネスはそれに続き、空気が水よりもより普遍的な要素であるばかりか、それは生命でもあり、普遍的な生命に違いないとした。それに続いたディオゲネスは、空気は生命であるばかりではなく知性でもあり、知性が事物の最初であるに違いないとした。
それゆえ我々はリッターとともに、物理学的な方法を用いた哲学者としてはディオゲネスが最後だとすることに一致する。彼の体系において、この方法はその達成を見た。かくして、思索の大きな流れをたどってきた我々は、同時期に別の方向に進化を遂げたものたちに目を向けねばならない。
2017年12月17日日曜日
トポロジー的身体――立川談志『あたま山』
[立川談志のものが名演だというわけではないが、まだ頭をくらくらさせるような『あたま山』を聞いたことがないので。]
武藤禎夫編『江戸小咄事典』によれば、『あたま山』のもとになっているのは安永二年の『口拍子』にある小咄だという。先に『あたま山』の筋をいうと、けちん坊がもったいないからとサクランボの種まで飲み込んでしまう。すると頭のてっぺんに桜の木が育ち、満開の桜の花が咲く。花見客が大勢訪れ、どんちゃん騒ぎやら喧嘩やらうるさくて仕方がない。そこで桜の木を引っこ抜いてしまった。ところがそこにできた穴に水がたまり、池となり魚が棲むようになる。今度は釣り客が集まり、船を出すわ網を打つわで、これまたうるさくてしょうがない。そこでこの男世をはかなんで自分の頭の池に身を投げてしまった。
小咄の方はこうである。神田にお玉が池があるが、実はあたまの池である。昔、この辺りに棲んでいた男のあたまに池ができて、鮒や金魚が棲むようになる。珍しいといって遠近から群衆が集るようになった。息子は外聞も悪いし、見物の来ないようにしたいから、山の手からあたまの池を拝見に参りました、という人に向かい、せっかくですが、世上の沙汰がいやになり、夜前、あたまの池へ身を投げました。
お玉が池は、かつての神田松枝町(昭和四十年代の初めまでこの町名があった)、いまの岩本町にある地名で、神田駅の東、秋葉原駅の南に位置する。江戸時代の初めには実際にお玉が池という池があったというが、三代将軍家光の寛永年間には既にその存在が不明となっているという。それ以前は桜ヶ池と呼ばれていたその池の池畔の茶屋にお玉という看板娘がいたが、二人の男に言い寄られ、どちらとも決めかねるままに池に身を投じてしまった。それからお玉が池と呼ばれるようになったという。
つまり、この噺は、「お玉が池」と「あたまの池」というごくくだらない駄洒落の発想から生まれたのだ。また、この小咄には『徒然草』第四十五段からのヒントもあるという。良覚という怒りっぽい僧正があった。坊の近くに大きな榎木があったので、「榎木の僧正」と呼ばれた。そのあだ名は面白くないと、榎木を切り倒してしまった。だが、切り株が残っていたので今度は「きりくひの僧正」と呼ばれる。ますます腹が立つので切り株を掘り起こして捨ててしまった。その跡に今度な大きな堀ができたので「堀池僧正」と呼ばれるようになった、という話だ。
より落語に近い類話もある。安永二年の『坐笑産』にある「梅の木」では、道楽者と信心深い二人の浪人が隣り合わせに住んでおり、信心深い男の頭に見事な梅が咲き乱れる。多くの見物人が訪れ、敷物代で大いに儲かる。それを嫉んだ隣りの浪人が、夜中忍び込むと梅の木を根こぎにして盗んでしまう。盗まれた浪人はがっかりするが、やがてその穴が池となり金魚が湧きでるようになる。隣りの浪人、再び忍び入り、煙草のヤニを投じ金魚をすべて殺してしまう。浪人はいよいよがっかりして、家主のおかみさんに頭の池に身を投げることを告げる。自分の頭にどうやって身を投げられるものか、とおかみさんに言われた浪人は、「イヤその儀も工夫致しおいた。お世話ながら煙管筒を仕立てるやうに、足から引つくり返して下され」と答える。自分の頭の池に身を投げる方法が説かれているのがいちばん大きい。煙管筒とは、その名の通り煙管を入れる筒で、通常刻み煙草を入れるための袋と対になっている。煙管筒は木製のものが多いが、布製や革製の場合、細長く縫い合わせた袋状のものを最後にひっくり返すことになる。それを「煙管筒を仕立てるやうに」と表現したのだろう。
川戸貞吉の『落語大百科』によれば、典型的な小咄である「あたま山」を一席の落語として演じたのは、八代目林家正蔵だけだったそうだ。正蔵はサゲの自分の頭に身を投げる方法について、紐を縫うとき、最初は針目を上にして、それから物差しをあてがってひっくり返す、それと同じで、頭の池にめくり込めばみんな入っちゃう、と説明した。
アカデミー賞短編アニメーション部門にもノミネートされた山村浩二の『頭山』(2002年)では、釣り客や水遊びをする者たちの騒ぎに耐えきれなくなった男が夜のなかをさまよっていると、池に行き当たり、その池を覗き込むことがあたま池を覗き込むことでもあって、合わせ鏡の間に身を置いたように、無限の反復に捕らわれるというような解釈になっていた。しかし、この解釈は私には疑問だった。『あたま山』の最後の面白さとは、トポロジーの面白さであって、無限の生みだす面白さとは自ずから性質が異なっていると思われるからである。
2017年12月15日金曜日
アナクシメネス――ルイス『哲学史列伝』
§II.アナクシメネス
アナクシマンドロスは、多くの歴史家によって、タレスよりも後の人だとされている。我々はリッターとともに、その場所をアナクシマンドロスに与えることに同意する。我々がこの順番を基礎にする理由は、第一に、そうすることによって我々はもっとも安全な案内役、アリストテレスに従うことができるからである。第二に、アナクシマンドロスの教義は、タレスのものの発展だからである。アナクシマンドロスはまったく異なった思弁に従っているが。実際、イオニア学派の通常のあり方としては、弟子は師匠に反対するだけでなく、師匠の先生の教義に立ち戻るのだった。かくして、アナクシマンドロスは、正反対の考えだったが、タレスを引き継いだ。そして、アナクシメネスはタレスの原則を実行して、アナクシマンドロスの弟子になった。212年の間、つまり六、七世代の間に、4人のもの、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス、アナクサゴラスが教師と弟子の関係にあったといえば、読者も伝統を継承する関係の価値が評価できるだろう。
本当は、哲学の偉大な先導者の名前だけが守る価値がある。教えを応用したり拡大しただけのものは、忘却にゆだねられるべきである。それはまた、現在歴史が構成される際の原則でもある。それゆえ、アナクシメネスをタレスの次に置いたからといって非難するものはいないだろう。彼の弟子だからではなく、歴史的な後継者としてである。タレスとその弟子たちが残した思弁をより発展した形で後継者に伝えたからである。
アナクシメネスの生涯で知られているのは、おそらくは63回オリンピアの際(紀元前529年)ミレトスで生まれ、58回オリンピアのときだというものもあるが、正確に日付を決定することはできない。日時計によって日食の黄道傾斜角を発見したと言われている。
タレスの方法を追求し、彼は自分の教義の真理に満足できなくなった。水は彼にとってはもっとも意味深い要素ではなかった。彼は自分の内部に、どうしてだか、またなぜだかわからないが、彼を動かすものを感じた。それは彼よりも高次のものだった。目に見えないがずっと存在していた。それを彼は生命と名付けた。その生命は空気だと信じられた。内部ばかりでなく、外部においても、常に動き、常に存在するのが目に見えない空気ではないか。空気が内部にあるときには生命と呼ばれ、それは彼がいなくとも空気の一部なのではないか。もしそうなら、この空気こそが事物の始まりではないか。
彼は周囲を見回し、自分の推測が肯定されると考えた。空気は普遍的なものであるようだ。*地上は幅広く、草が生い茂っている。あらゆるものはそこから生み出された。あらゆるものがそこで分解する。息をすると、普遍的な生命の一部を取り込むことになる。あらゆるものは我々と同様空気によって養われている。
*アナクシメネスが空気について語るとき、タレスが水について語る場合のように、それらの要素を地上であらわれるときのあれこれの限定的な形で理解するべきではなく、エネルギーに満ち、無限の変化が可能な生命力に満ちたものとして捉えるべきである。
古代人の多くにとってと同じように、アナクシメネスには、吸って吐かれる空気はまさしく生命の流れであり、身体を構成する異質な実体をまとめ上げ、それらに統一ばかりでなく、力、生命力を与える。生きている世界についての信念――つまり、有機体としての宇宙――は非常に古いもので、個人の生から普遍的な生へ一般化したアナクシメネスは、どちらも空気に依存するのだとした。多くの点でこれはタレスの教えより進んでおり、読者は現代科学との一致を見いだして喜ぶかもしれない。デュマのような厳粛な化学者は「植物と動物は空気から生じ、空気が凝縮したものではないが、空気によって生き、そこに帰って行く」というかもしれないし、リービッグは『化学書簡』のよく知られた一節で、同じ考えを雄弁に表現している。
アナクシマンドロスは、多くの歴史家によって、タレスよりも後の人だとされている。我々はリッターとともに、その場所をアナクシマンドロスに与えることに同意する。我々がこの順番を基礎にする理由は、第一に、そうすることによって我々はもっとも安全な案内役、アリストテレスに従うことができるからである。第二に、アナクシマンドロスの教義は、タレスのものの発展だからである。アナクシマンドロスはまったく異なった思弁に従っているが。実際、イオニア学派の通常のあり方としては、弟子は師匠に反対するだけでなく、師匠の先生の教義に立ち戻るのだった。かくして、アナクシマンドロスは、正反対の考えだったが、タレスを引き継いだ。そして、アナクシメネスはタレスの原則を実行して、アナクシマンドロスの弟子になった。212年の間、つまり六、七世代の間に、4人のもの、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス、アナクサゴラスが教師と弟子の関係にあったといえば、読者も伝統を継承する関係の価値が評価できるだろう。
本当は、哲学の偉大な先導者の名前だけが守る価値がある。教えを応用したり拡大しただけのものは、忘却にゆだねられるべきである。それはまた、現在歴史が構成される際の原則でもある。それゆえ、アナクシメネスをタレスの次に置いたからといって非難するものはいないだろう。彼の弟子だからではなく、歴史的な後継者としてである。タレスとその弟子たちが残した思弁をより発展した形で後継者に伝えたからである。
アナクシメネスの生涯で知られているのは、おそらくは63回オリンピアの際(紀元前529年)ミレトスで生まれ、58回オリンピアのときだというものもあるが、正確に日付を決定することはできない。日時計によって日食の黄道傾斜角を発見したと言われている。
タレスの方法を追求し、彼は自分の教義の真理に満足できなくなった。水は彼にとってはもっとも意味深い要素ではなかった。彼は自分の内部に、どうしてだか、またなぜだかわからないが、彼を動かすものを感じた。それは彼よりも高次のものだった。目に見えないがずっと存在していた。それを彼は生命と名付けた。その生命は空気だと信じられた。内部ばかりでなく、外部においても、常に動き、常に存在するのが目に見えない空気ではないか。空気が内部にあるときには生命と呼ばれ、それは彼がいなくとも空気の一部なのではないか。もしそうなら、この空気こそが事物の始まりではないか。
彼は周囲を見回し、自分の推測が肯定されると考えた。空気は普遍的なものであるようだ。*地上は幅広く、草が生い茂っている。あらゆるものはそこから生み出された。あらゆるものがそこで分解する。息をすると、普遍的な生命の一部を取り込むことになる。あらゆるものは我々と同様空気によって養われている。
*アナクシメネスが空気について語るとき、タレスが水について語る場合のように、それらの要素を地上であらわれるときのあれこれの限定的な形で理解するべきではなく、エネルギーに満ち、無限の変化が可能な生命力に満ちたものとして捉えるべきである。
古代人の多くにとってと同じように、アナクシメネスには、吸って吐かれる空気はまさしく生命の流れであり、身体を構成する異質な実体をまとめ上げ、それらに統一ばかりでなく、力、生命力を与える。生きている世界についての信念――つまり、有機体としての宇宙――は非常に古いもので、個人の生から普遍的な生へ一般化したアナクシメネスは、どちらも空気に依存するのだとした。多くの点でこれはタレスの教えより進んでおり、読者は現代科学との一致を見いだして喜ぶかもしれない。デュマのような厳粛な化学者は「植物と動物は空気から生じ、空気が凝縮したものではないが、空気によって生き、そこに帰って行く」というかもしれないし、リービッグは『化学書簡』のよく知られた一節で、同じ考えを雄弁に表現している。
2017年12月14日木曜日
タレス――ルイス『哲学史列伝』
ルイスはしばしばボルヘスがエッセイで言及している。
第一部 古代哲学
第一時代 宇宙の本性についての思弁
第一章 物理学者
§1.タレス
その生涯の出来事、哲学の正確な教義は神秘に包まれ、伝説の領域に属しているが、にもかかわらず、タレスはギリシャの思弁の父祖にあたると正当に考えられる。彼は一時代をつくった。ギリシャ哲学の礎石を置いた。彼の踏みだした一歩は小さなものだったが、決定的だった。従って、ほんの僅かの教義しか残っていないにしても、そしてそれが断片的で、不整合なものだろうと、我々はある程度の確かさで、語ることができる程度にはその教えの一般的方向を知っている。
タレスは小アジアのギリシャ植民地であるミレトスで生まれた。生まれたときはきわめて疑わしい。しかし、36回目のオリンピアの最初の年(紀元前636年)が一般的に正確だと受け入れられている。彼はフェニキア人のなかでももっとも著名な一族の一員で、政治的要職のすべてを務めた――それは市民たちからの高い声望から来たものだった。彼の政治での精力的な活動は、プラトンによって描きだされたその生涯を孤独と瞑想に送ったという言い伝えに反するものとして、孤独を愛することは政治的な活動の根拠を疑問にふすものとして、後の作者たちには否定されている。両者は完全に両立可能であると思える。瞑想は行動的人間に必ずしも合わないわけではない。活動的な生活を送ったからといって、瞑想のためにまったく時間が残されていないわけではない。賢人は行動する前に瞑想によって自分を強くすることもあるだろう。自分の見解の真理を検証するために行動することもあろう。
ミトレスはギリシャの植民地のなかでももっとも繁栄していた。当時はまだペルシアやリディアによる束縛もなかったので、精神の発達にはこの上ない条件が整っていた。海路、陸路による通商は莫大なものだった。政治制度は個人の発達にもっとも素晴らしい機会を与えた。タレスは生まれつき、また教育によって、定着し、十分な根拠があっていわれているわけではないが、研究を完成させるためにエジプトやクレタに旅をすることもなかっただろう。そうした推測の唯一の根拠は、タレスが数学的知識に堪能だったという事実である。ヘロドトスに見られるように、歴史の最初期から、ほとんどあらゆる知識がエジプトに起源をもつことは流行のようなものだった。そうすると、旅行の途中で、ピラミッドの高さをその影によって示してエジプト人を驚かせたという話にはほとんど信頼性はないことになる。もっとも単純な数学上の問題で容易に驚くような国民が、教えることのできるものなどほとんどなにもないだろう。おそらく、彼がエジプトに旅をしなかったというもっとも強力な証拠――あるいは、旅をしたとしても、司祭たちと会話はしなかっただろう――は、タレスの哲学のなかに、自国にいたら見いだせないようなエジプトの教義がまったく欠けているという点にある。
第一の時期におけるイオニア学派の際だった特徴は、タレスがはじめた宇宙の成り立ちに対する問いかけにある。「タレスはあらゆる事物の原理は水にあると教えた」と通常いわれている。一見すると、これは単なる突飛な考えに思えるだろう。あわれみの笑いをもって迎えられ、そんなばかげたことは受け入れられないと思われることだろう。しかし、まじめな学生なら、先人の説を単に馬鹿馬鹿しいとして非難を急ぐことはあるまい。哲学の歴史は間違いの歴史かもしれない。しかし、愚劣さの歴史ではない。受け入れられたあらゆる体系は豊かな意味をもっており、そうでなければ受け入れられなかっただろう。その意味は時代の尺度に見合ったものであり、そうしたものとして考察の価値がある。タレスは歴史上でももっとも非凡なひとりであり、非凡な革命を行った。そうした人間が子供でも反駁するような哲学を発言したとは思えない。少なくとも彼にとっては、その考えには深い意味があった。とりわけ、事物の起源を発見する試みにおいては深い意味合いをもっていた。彼の考えの意味するところを考察してみよう。彼の精神のなかでそれがどのように生じ、育っていったか、たどれないものか見てみよう。
想像しうるあらゆる多様性を一つの原理に還元するのは哲学的精神に特徴的なことである。多神論が一神論に還元されるのが宗教的考察の避けられない傾向であるように――すべての超自然的な力が一つの表現へと一般化される――あらゆる可能な存在の様態がひとつの存在そのものに一般化されるのが初期の哲学的思弁の傾向だった。
宇宙の成り立ちを考えたタレスは、一つの原理――初源的な事実――すべての特殊な存在がその様態に過ぎないような実体を発見するよう努めざるを得なかった。周囲を見回すと常に変容が――誕生と死、形、大きさ、存在のあり方の変化――あり、その存在のありようを一つの存在と見なすことはできなかった。それゆえ彼は自問した、常に変化がある状態で、変わることのない存在とはなんだろうか。一言で言えば、事物のはじまりとはなんであろうか。
こう問うことは、哲学探究の時代を開くことだった。それまでは、自分が見いだした世界を受け入れることで満足していた。見たものを信じ、見ることができないものを崇拝していた。
タレスは、事物のはじまりに関して答えることがきわめて重大な問題だと感じていた。周囲を観察し、瞑想をした結果、水分こそがはじまりだと確信するにいたった。
彼は地球の成り立ちを検証するという考えにとらわれた。至る所に水分を見いだした。彼が見たすべてのものは水分によって養われていた。暖かさそのものが水分の働きによって生まれたものだった。水は凝縮されると地表となった。水が普遍的に存在することが確信されたので、彼はそれを事物の始まりだと宣言した。
タレスは容易にこの考えを古代のものの見方と調和させることができた。たとえば、ヘシオドスの『神統記』では、オーケアノスとテーテュースが自然に関係する神々の親だとされていた。「彼は現代科学が『創世記』に行ったことを当時の一般的な宗教について行ったことになろう。以前には謎であったことを説明したのである。」
このことによってタレスは哲学に地歩を占めた。アリストテレスは、彼を、神話の助けを借りずに、初めて物理的な始まりを確立しようとした人物だと呼んだ。結果的に彼は現代の作家たちによって無神論者として責められている。しかし、無神論はずっと後になって発達したものであり、タレスにその名を負わせるとしたら、アリストテレスの沈黙という否定的な証拠しか、つまり、タレスが水よりも深く、また水より先んじて信じていたり、また信じていないことがあったら、アリストテレスが黙っているはずはないという推測によるのである。水はすべてのものの始まりだった。タレスの時代から遠く離れて影響を受けたり与えたりしていたキケロが、彼は「水をすべての始まりだとし、神は水から事物を創造する精神である」と言うとき、アナクロニズムに陥っている。我々はヘーゲルとともに、タレスは知性としての神の概念を持てなかったとするが、それはより進んだ哲学の概念だからである。造形的な知性、あるいは創造的力の概念があったかどうかも疑われる。アリストテレスははっきりと、古代の物理学者たちは物質とそれを動かす原理、あるいはそれを生み出す原因と区別していたことを否定している。さらには、造形的な知性という考えに最初に到達したのはアナクサゴラスだと付け加えている。タレスは神々を、神々の系譜を信じていた。他のものと同じく、彼らも水に起源をもっていた。それが何を意味するのであれ、これは無神論ではない。彼がすべての事物が生きており、世界が霊や神々で充満していると理解していたのが本当だとしても、それは起源、出発点、第一存在としての水分に矛盾しているものではない。
しかしながら、無批判的な伝統のなかで、断片しか残っていない思想家の見解を議論しても無益なことである。我々が確実に知っているのは、タレスが二つのことでもたらした影響である。――第一に、始まりを、あらゆる事物の第一物質を発見すること。第二に、もっとも潜在能力があり、偏在する要素を選択すること。人間精神の歴史を知悉すると、両者がまったく新しい時代においても意味深いものであることがわかる。
第一部 古代哲学
第一時代 宇宙の本性についての思弁
第一章 物理学者
§1.タレス
その生涯の出来事、哲学の正確な教義は神秘に包まれ、伝説の領域に属しているが、にもかかわらず、タレスはギリシャの思弁の父祖にあたると正当に考えられる。彼は一時代をつくった。ギリシャ哲学の礎石を置いた。彼の踏みだした一歩は小さなものだったが、決定的だった。従って、ほんの僅かの教義しか残っていないにしても、そしてそれが断片的で、不整合なものだろうと、我々はある程度の確かさで、語ることができる程度にはその教えの一般的方向を知っている。
タレスは小アジアのギリシャ植民地であるミレトスで生まれた。生まれたときはきわめて疑わしい。しかし、36回目のオリンピアの最初の年(紀元前636年)が一般的に正確だと受け入れられている。彼はフェニキア人のなかでももっとも著名な一族の一員で、政治的要職のすべてを務めた――それは市民たちからの高い声望から来たものだった。彼の政治での精力的な活動は、プラトンによって描きだされたその生涯を孤独と瞑想に送ったという言い伝えに反するものとして、孤独を愛することは政治的な活動の根拠を疑問にふすものとして、後の作者たちには否定されている。両者は完全に両立可能であると思える。瞑想は行動的人間に必ずしも合わないわけではない。活動的な生活を送ったからといって、瞑想のためにまったく時間が残されていないわけではない。賢人は行動する前に瞑想によって自分を強くすることもあるだろう。自分の見解の真理を検証するために行動することもあろう。
ミトレスはギリシャの植民地のなかでももっとも繁栄していた。当時はまだペルシアやリディアによる束縛もなかったので、精神の発達にはこの上ない条件が整っていた。海路、陸路による通商は莫大なものだった。政治制度は個人の発達にもっとも素晴らしい機会を与えた。タレスは生まれつき、また教育によって、定着し、十分な根拠があっていわれているわけではないが、研究を完成させるためにエジプトやクレタに旅をすることもなかっただろう。そうした推測の唯一の根拠は、タレスが数学的知識に堪能だったという事実である。ヘロドトスに見られるように、歴史の最初期から、ほとんどあらゆる知識がエジプトに起源をもつことは流行のようなものだった。そうすると、旅行の途中で、ピラミッドの高さをその影によって示してエジプト人を驚かせたという話にはほとんど信頼性はないことになる。もっとも単純な数学上の問題で容易に驚くような国民が、教えることのできるものなどほとんどなにもないだろう。おそらく、彼がエジプトに旅をしなかったというもっとも強力な証拠――あるいは、旅をしたとしても、司祭たちと会話はしなかっただろう――は、タレスの哲学のなかに、自国にいたら見いだせないようなエジプトの教義がまったく欠けているという点にある。
第一の時期におけるイオニア学派の際だった特徴は、タレスがはじめた宇宙の成り立ちに対する問いかけにある。「タレスはあらゆる事物の原理は水にあると教えた」と通常いわれている。一見すると、これは単なる突飛な考えに思えるだろう。あわれみの笑いをもって迎えられ、そんなばかげたことは受け入れられないと思われることだろう。しかし、まじめな学生なら、先人の説を単に馬鹿馬鹿しいとして非難を急ぐことはあるまい。哲学の歴史は間違いの歴史かもしれない。しかし、愚劣さの歴史ではない。受け入れられたあらゆる体系は豊かな意味をもっており、そうでなければ受け入れられなかっただろう。その意味は時代の尺度に見合ったものであり、そうしたものとして考察の価値がある。タレスは歴史上でももっとも非凡なひとりであり、非凡な革命を行った。そうした人間が子供でも反駁するような哲学を発言したとは思えない。少なくとも彼にとっては、その考えには深い意味があった。とりわけ、事物の起源を発見する試みにおいては深い意味合いをもっていた。彼の考えの意味するところを考察してみよう。彼の精神のなかでそれがどのように生じ、育っていったか、たどれないものか見てみよう。
想像しうるあらゆる多様性を一つの原理に還元するのは哲学的精神に特徴的なことである。多神論が一神論に還元されるのが宗教的考察の避けられない傾向であるように――すべての超自然的な力が一つの表現へと一般化される――あらゆる可能な存在の様態がひとつの存在そのものに一般化されるのが初期の哲学的思弁の傾向だった。
宇宙の成り立ちを考えたタレスは、一つの原理――初源的な事実――すべての特殊な存在がその様態に過ぎないような実体を発見するよう努めざるを得なかった。周囲を見回すと常に変容が――誕生と死、形、大きさ、存在のあり方の変化――あり、その存在のありようを一つの存在と見なすことはできなかった。それゆえ彼は自問した、常に変化がある状態で、変わることのない存在とはなんだろうか。一言で言えば、事物のはじまりとはなんであろうか。
こう問うことは、哲学探究の時代を開くことだった。それまでは、自分が見いだした世界を受け入れることで満足していた。見たものを信じ、見ることができないものを崇拝していた。
タレスは、事物のはじまりに関して答えることがきわめて重大な問題だと感じていた。周囲を観察し、瞑想をした結果、水分こそがはじまりだと確信するにいたった。
彼は地球の成り立ちを検証するという考えにとらわれた。至る所に水分を見いだした。彼が見たすべてのものは水分によって養われていた。暖かさそのものが水分の働きによって生まれたものだった。水は凝縮されると地表となった。水が普遍的に存在することが確信されたので、彼はそれを事物の始まりだと宣言した。
タレスは容易にこの考えを古代のものの見方と調和させることができた。たとえば、ヘシオドスの『神統記』では、オーケアノスとテーテュースが自然に関係する神々の親だとされていた。「彼は現代科学が『創世記』に行ったことを当時の一般的な宗教について行ったことになろう。以前には謎であったことを説明したのである。」
このことによってタレスは哲学に地歩を占めた。アリストテレスは、彼を、神話の助けを借りずに、初めて物理的な始まりを確立しようとした人物だと呼んだ。結果的に彼は現代の作家たちによって無神論者として責められている。しかし、無神論はずっと後になって発達したものであり、タレスにその名を負わせるとしたら、アリストテレスの沈黙という否定的な証拠しか、つまり、タレスが水よりも深く、また水より先んじて信じていたり、また信じていないことがあったら、アリストテレスが黙っているはずはないという推測によるのである。水はすべてのものの始まりだった。タレスの時代から遠く離れて影響を受けたり与えたりしていたキケロが、彼は「水をすべての始まりだとし、神は水から事物を創造する精神である」と言うとき、アナクロニズムに陥っている。我々はヘーゲルとともに、タレスは知性としての神の概念を持てなかったとするが、それはより進んだ哲学の概念だからである。造形的な知性、あるいは創造的力の概念があったかどうかも疑われる。アリストテレスははっきりと、古代の物理学者たちは物質とそれを動かす原理、あるいはそれを生み出す原因と区別していたことを否定している。さらには、造形的な知性という考えに最初に到達したのはアナクサゴラスだと付け加えている。タレスは神々を、神々の系譜を信じていた。他のものと同じく、彼らも水に起源をもっていた。それが何を意味するのであれ、これは無神論ではない。彼がすべての事物が生きており、世界が霊や神々で充満していると理解していたのが本当だとしても、それは起源、出発点、第一存在としての水分に矛盾しているものではない。
しかしながら、無批判的な伝統のなかで、断片しか残っていない思想家の見解を議論しても無益なことである。我々が確実に知っているのは、タレスが二つのことでもたらした影響である。――第一に、始まりを、あらゆる事物の第一物質を発見すること。第二に、もっとも潜在能力があり、偏在する要素を選択すること。人間精神の歴史を知悉すると、両者がまったく新しい時代においても意味深いものであることがわかる。
2017年12月13日水曜日
明治の学者についての柳田国男の説――桑原武夫『時のながれ』
学問を支えるもの
1.明治の学者とそれ以後の学者との断絶についての柳田國男の説。これは読んだときにびっくりしてしまった。生きた「もの」が失われたということには、非常に説得力があるが、孝行心と書くことを結びつけたことのない私は陥没地帯に落ち込んだようで、しかし、こう言ってしまうと、それも「宙に浮いた観念」に過ぎず、「糸車」が観念を収斂する「もの」として見事な働きをしている。
それは正しい、自分も君と全く同感だ、と言下に答えられたので、それでは
その理由は何でしょうか、と重ねて聞くと、先生はこれも直ちに答えられた―
―孝行という考えがなくなったからです。
私はびっくりして、それは一たいどういうわけですか、と伺うと、先生は大
よそ次のような意味のことをいわれた。
明治初期に生れた学者は、忠義はともかく、孝行ということだけは疑わなか
った。自分なども『孝経』は今でも暗誦できる。東京へ出て勉強していても、
故郷に学問成就を待ちわびている父母のことは、夢にも忘れることがなかっ
た。人間には誰しも怠け心があり、酒をのみに行きたい、女と遊びたいという
気も必ずおこるのだが、そのとき眼頭にうかぶのが自分の学費をつむぎ出そう
とする老いたる母の糸車で、それは現実的な、生きた「もの」である。ところ
が、私たち以後の人々は、儒教を知的には理解していても、もはやそれを心そ
のものとはしていない。学問は何のためにするのか、××博士などは恐らく、
真理のため、世界文化のため、あるいは国家のためなどというだろうが、それ
らは要するに「もの」ではなくて、宙に浮いた観念にすぎない。観念では学的
情熱を支えることができにくい。平穏無事な時勢は、それでも間に合うように
見えるけれども、一たび嵐が吹きあれると、そんなハイカラな観念など吹きと
ばされてしまう。その上、悪いことに日本人は自分の身のまわりの物を見て、
そこから考えることを怠って、やたらに本を読むくせがついた。本の中には真
理が入れてあり、それを手でつかめばよいかのように。だから日本のことは、
歴史のことも身のまわりのことも何も知らなくても、西洋の本に書いてあるこ
とを知っておれば、けっこう学者として通用するようになった。学者が弱々し
い感じを与えるというのは当り前のことです。
2017年12月11日月曜日
内藤湖南と狩野直喜――桑原武夫全集4『人間認識』
湖南先生
1.内藤湖南の本の読み方。京都大学、中国研究の黄金時代の話。おそらく、「大ていの書物」というのは、学者として読んでおかなければならないが、それほど強い関心をもっていない本のことを指すのだろう。ちなみに、幸田露伴は京都大学に呼ばれ、一年間教鞭を執ったが辞めてしまった。その理由は、生徒に教えるともなると、自分が興味をもたない本も読まなければならないから、というものだった。
先生は大ていの書物はまず序文を丹念に読み、それから目次を十分にらんだ
上、本文は指さきで読み、結論を熟読すれば、それで値打はわかるはずだと漏
らされたというが、それでなくては一流の学者とはいえまい、と当時の私はい
たく感服したものであった。
君山先生
2.狩野直喜の辞書の引き方。私は漢和辞典は本で引いた方が早いので使っているが、そのほかは電子辞書に頼っており、辞書をひきつぶした経験もない。全然関係ないが、外国語を習得するにはエロ本を読むにしかず、という説があって、もっともいまでは活字でオナニーをするものもほとんどいないだろうから、この説そのものが意味を失っているのだが、種村季弘はどこかで、この説は間違っており、エロ本にはその国特有の俗語が満載されており、普通の小説を読むより難しいといい、例としてあげているのがよりにもよって永井荷風の『四畳半襖の下張』なのだからそれは難しいだろうさ、と思ったものだが、私も若い頃には英語のエロ本を読んだことあって、いちいち辞書を引きながら読んでいたのだが、出てくる単語の意味が「湿った」、「びしょびしょの」、「潤んだ」などばかりなのでばかばかしくてやめてしまった。
・・・驚いたのは先生の『康煕字典』の引き方である。そばにいる私に字典を
もって来させ、それをといわれるので指ざされた巻をお渡しすると、先生はい
きなり両手で何かものを割るように本をやや乱暴にぐっと開かれる。求める字
はそのページになくても、必ずその数ページ前後のうちにある。一、二回成功
しなかったこともあったが、その際ももう一度同じ操作をくり返すだけで、指
で字を書いてみて字画を勘定されることは殆どなかった。字典が先生に忠実に
つかえているという感じがして、はなはだ見事だった。
2017年12月9日土曜日
部分と全体――ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ボーダーライン』(2016年)
ドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』は、異星人とのコミュニケーションという大好きなテーマだったにもかかわらず、期待しすぎたせいでもあろうか、それほど満足のいくものではなかった。こうしたテーマでは、タルコフスキーの『惑星ソラリス』を思い起こすのは自然なことだが、『メッセージ』の異星人には、彼らはなにを望んでいるのか、という大きな謎はなく、また彼らとの意思疎通が『ソラリス』ほどには切実なものとは感じられなかったのである。
『ボーダーライン』も大きく括れば、『メッセージ』と同じテーマの映画である。FBIの女性捜査官(エミリー・ブラント)がメキシコの麻薬組織壊滅作戦のチームに抜擢される。麻薬がらみで大量の死体を発見したばかりの彼女は、その作戦に加わることを希望する。作戦の指揮をとっているのは、会議にもサンダル履きで参加するようないかがわしい男(ジョシュ・ブローリン)と、組織に精通しているらしい南米系の男(ベニチオ・デル・トロ)である。捜査官はいかにもアメリカで活動してきたFBIの職員らしく、証拠を固め、法律に従って事件を解決しようとする。だが、組織の中心である二人は、黙ってみてれいればそのうちわかるさというばかりだ。ある人物を逮捕するや、四方から狙撃手がわらわらと集まってきて、メキシコ警察は信用してはいけないと教えられる。この巨大で目に見えない組織にどう働きかければいいのか彼女は最後まで理解することはできない。いや、自分のFBI捜査官としての倫理観、道徳観からいえば、拒否すべきだということはわかるのだが、拒否したところで、どう対処すればいいのかわからないのである。
グーグル・アースのようにはるか上空から見下ろした町や、西部劇でしか見ないようなロング・ショットの連続が印象的である。また、カフカの『城』を思い起こさせる映画でもある。『城』では、巨大な城の存在は見まがうまでもないが、そのなかに入るのに誰に連絡し、なにをすればいいのかわからない。同じように、夜のロングショットで、山の中腹で、拳銃のものらしい火花がちかちかと起こるが、遠くから見ているものには、それをどう調停し、あるいは関与すればいいのかさっぱりわからない。それは、作戦行動が一応の成功を収め、捜査官が自分がなんのために招集されたのか理解したのちもそう変わりはしない。麻薬組織を逃れるかのように不法移民しようとするメキシコ人たちや、ボスといわれる人物も登場するのだが、それはあくまでも部分であって、麻薬カルテルの全体をあらわすものではない。ここにあるのはその両者を媒介するもののない部分と全体だけの世界である。
2017年12月7日木曜日
芭蕉の誠と西欧文学のサンセリテーー桑原武夫『伝統と近代化』
芭蕉について
1.芭蕉の誠と西欧文学のサンセリテの相違。同じく桑原武夫の「第二芸術論」からつながる論である。「第二芸術論」は、手元に本がないので、記憶だけでいうが、著名な俳人と投稿された俳句を冒頭に並べ、桑原本人も含め、幾人かにみせたところ、誰も俳人と無名の投稿者の句の区別がつかず、そこから、俳句が結局は第一芸術とはなり得ず、第二芸術にとどまるということになる。私は基本的にはこの考えに賛成である。桑原の文章は俳壇に強い反発を引き起こしたらしいが、彼に反駁する説得力のある文章を読んだことがない。私自身は俳人はむしろ、役者や芸人と同じ立場にあるものだと思う。素人がそんじょそこらの俳優よりもずっといい演技をし、芸人よりも面白い話をすることがあるのは、ままあることだが、だからといってその人物がいくつもの役を演じ分け、あるいはいくつもの番組に出たり、地方の営業に回れるかといえば、話はまったく別のことになる。当然のことだが、芸術家と役者や芸人に優劣があるとはまったく思っていない。はからずも「型」という言葉が用いられているが、「型」が焦点になるのは芸事の世界である。さらにいえば、私は「人生的倫理的態度」などはどうでもいいと思っているので、第二芸術でもなんでもいいのだが、近・現代の俳人が「日本中古の文学と唐宋詩文の伝統をつぐことを誇りとした」芭蕉が存在したことなど忘れたかのように、「表現のための誠実」を忘れ、人生的な俳句を輩出しているのを見ると、芸術にも芸にも「誠」がない二重の欺瞞をみせられる気がする。
ところが綿密な研究をつづけた学者のうちにも、同じように芭蕉を西洋風の人
生詩人に見たてようとする傾向がある。そして「誠をせむる」などという言葉
に力点がおかれすぎた。誠はフランス語でいえばサンセリテとなろう。しかし
近代文学でいうサンセリテとは、スタンダールなどの場合に最もはっきりあら
われるように、「主のたまいければ」という言葉を否定しようとする、つまり
既成倫理を反発して、自己が倫理創世の主体になろうとする個体の自覚であ
る。ところが芭蕉の誠というのは、人生的倫理的態度ではなく、恐らく表現の
ための誠実、あるいは表現における誠実ともいうべきものであったろう。誠を
せむるというのが、既得のあらゆる「型」をつき破ることであって、芭蕉は貞
門の型、談林の型をつぎつぎと破っていったというのは正しいが、しかも彼は
日本中古の文学と唐宋詩文の伝統をつぐことを誇りとしたものであった。内的
自己の革新をはかり、その新しい感動を吐露することによって「新しみ」を創
造しようとしたのだ、とは考えられない。「昨日の我にあける人」といって
も、それは自己改革などではない。俳諧が「上手になる」ための前提にすぎぬ
のである(小宮豊隆『芭蕉の研究』)。芭蕉は一つ前の型をすてはしたが、常
に大きな伝統文学の型の中で考えていた。本当の意味での型を破る誠とは、
「自分はフランス語で書くが、フランス文学では書くまい」といったスタンダ
ールの言葉に要約されるような精神であろう。
2017年12月6日水曜日
桑原武夫『文学とはなにか』ーーノート
文学とはなにか
1.文学と科学。ローレンツなどの動物行動学が話題になる以前に書かれた文章であるだろうから、ファーブルの伝統が意外なところから芽を出したのを見てどう感じたのか聞いてみたいところだが、それでも科学のなかで小さな領域であることは確かで、むしろ、今日では後半の部分、現実を観察し、そのなかで実践をしている代表者として文学者があげられるかが問題になるだろう。
ファーブルのように自然界の中で直接の観察をすることは、今日むしろ稀れで
あって(そういう意味で『昆虫記』は文学である)、多くの科学者はラボラト
リで目盛りを読んでいるのだ。現実の社会、ないし自然に存在するものを直接
に見るのではない。つまりガリレオのように塔の上からものを落としてみた
り、フランクリンのように大空にタコを上げたりはしない。そうしたことは、
むしろ今日の文学者がしているといえる。文学者は自己の世界観を導きの糸と
して、現実を観察し、また現実の中で実践することによって(実践によってし
か見えないものがある)、集めた多くの経験を調整して、一つのまとまった経
験をつくる。それは言語シンボルによって表現されるから、当然抽象性をもつ
が、しかし作品の結末が結論なのではなく、そこへの過程が作品なのだから、
その点において一個の全体的な「もの」として、他の芸術作品と相通じる面を
もつ。
文学入門
2.よい本。これは「よい本」についてのおそらくはもっとも素晴らしい定義であると思う。そして、「ひどく正しい」ところを見いだすのが読書の快楽である。
よい本とは、初めからしまいまですべて正しい本という意味ではなく、多少の
錯覚があっても、正しいところはひどく正しい、という本のことである。そし
てわれわれが鍛錬されるのは、むしろそういう本によってである。
2017年12月3日日曜日
土地の霊――桂文楽『愛宕山』
総合的な噺家と分析的な噺家がいる。もちろん両方を兼ね備えていなければ一流の噺家とはいえないので、程度の問題に過ぎない。両者の相違がもっとも明瞭にあらわれるのは登場人物の扱いだろう。
分析的な噺家が各人物の性格や行動を解釈し、あとはそれぞれの行動原理の赴くところにまかせるとしたら、総合的な噺家は、各人物の性格や行動をうまく組合わせて一枚の織物となるように緊密に織りこんでいく。
古今亭志ん生や立川談志が分析的な噺家だとすると、桂文楽や古今亭志ん朝は総合的な噺家だと言える。そして総合的な噺家と親和性が高いのが、『愛宕山』や『つるつる』のような噺だろう。
幇間ものとひとくくりに言っても、『鰻の幇間』のように騙しあいが楽しいものもあれば、『富久』のようにひとりの幇間の生き方が惻々と伝わってくるものもある。『愛宕山』や『つるつる』は内容だけを読めば弱い者いじめでしかない。旦那と幇間の性格と行動をうまく織物として織りこまねば、いじめ的ないやみや弱い立場のルサンチマンなどがつい浮かびあがってしまうのである。
旦那のお供で京都の愛宕山に登ることになった幇間の一八、監視役の繁八がついて逃げようにも逃げられない。ようやく旦那たちに追いついて休憩となった。そこに土器投げの的があり、旦那は器用に的に当てる。一八も投げてみるがまったく当らない。上手い人になると軽い塩煎餅で当てるらしい、今日は逆に重たいこれで試してみようと、旦那は小判を取りだし、三十枚すべてを投げてしまった。あの小判はどうなるんです、と訊くと、それは拾った者のものさ、という答え。一八は茶店で傘を借り、広げて谷の底に飛び降りようとする。足がすくんで飛べないでいるところを、シャレに背中を押してやれよ、と旦那が言うから繁八がどんと押して、落ちていったがなんとか無事だった。三十枚みんなありましたよー、と一八、みんなやるよー、どうして上がるー、と言われた一八、そこまで考えてはいなかった。欲張りー、狼に食われて死んじまえー、と罵声を浴びて大いに慌てて、絹の羽織、着物、長襦袢を裂き始めた。それで縄をこしらえ、縄の先に石を結び、それを長い竹の先に引っかけて手許に引きよせ、撓った力を利用して、地を足でとんと蹴り、ヒラリと戻ってきた。偉い奴だな、一八、生涯贔屓にしてやるぞ、金はどうした。ああ、忘れてきた。
川戸貞吉の『落語大百科』によると、本来これは上方の噺であり、三代目の三遊亭円馬によって東京に伝えられ、その円馬から教わったのが文楽だという。「この噺には無理がある。その無理をお客に感付かれたらお終いだよ」と円馬は文楽に言ったそうだ。谷底からヒラリと舞い戻るところなどが無理な部分というわけだろう。
ところで、幸田露伴の『魔法修行者』によれば、室町後期の武将細川政元は晩年、魔法修行に凝って、終いには「空中へ飛上つたり空中へ立つたりし、喜怒も常人とは異り、分らぬことなど言ふ折りもあつた。空中へ上るのは西洋の魔法使もする事で、それだけ永い間修行したのだから、其位の事は出来たことと見て置かう」と露伴は述べている。この細川政元が幼いときから尊崇していたのがこの愛宕山であり、多少身が軽くなるくらいのことは土地の霊が許してくれるに違いない。
2017年12月2日土曜日
ガストン・バシュラール『瞬間と持続』(抜き書き)
1.ベルグソンとバシュラール。いまから見ると、両者は互いにそう違ってはいないように感じる。ベルグソンにしても、純粋持続の意識が創造的な瞬間であることは否定しないだろうし、バシュラールは、生によって豊かにされた瞬間の積み重ねが純粋持続の創造的な面であることを拒否しないだろう。要は二人とも時間に創造性を認め、それを生において最も重大なことと見ていることについては完全に一致しており、そうした究極的な目的のもとでは、方法の相違などたいしたことではないように感じられる。
ベルグソン氏とわれわれとの間には、常に変わらない方法の相違が存在する。すなわち彼は、出来事にみちた時間を、それらの出来事の意識の水平そのものにおいてとらえ、ついでそれらの出来事、したがってそれらの出来事の意識をだんだんと消していく。思うにそのようにして彼は、出来事のない時間、つまり純粋持続の意識に到達するのであろう。これに反してわれわれは、意識する瞬間を積み重ねるときにしか、時間を感覚することはできないと考える。たとえわれわれの怠惰が、思索を生ぬるいものにしているとしても、持続しているという、多少とも漠然とした感情を持つのに充分な、感覚や肉体の生によって豊かにされた瞬間が、なおわれわれに残されうることはいうまでもない。しかし、われわれとしては、その解明はただ思考の積み重ねの上にしか見出しえないだろう。時間の意識とは、われわれにとっては常に、「瞬間」の利用の意識であり、それは常に能動的であってけっして受動的ではない。言いかえれば、われわれの持続の意識とは、我々の内部存在の進歩ーーたとえその進歩が実効あるものであれ、見かけだけのものであれ、あるいは単に夢想されただけのものであれ、--の意識のひとつである。
2017年12月1日金曜日
ガストン・バシュラール『新しい科学的精神』(抜き書き)
バシュラールにはイメージの原型を探ろうとする著作と、科学哲学に関する著作とがある。私が読み始めたのはイメージに関するものだったが、惹かれたのは科学哲学に関する作品だった。
1.デカルトの蜜蝋。デカルトが『方法序説』でコギトを導きだした蜜蝋が問題にされている。しかし、感覚がコギトと同一視されるなら、諸感覚に散乱することのない私、蜜蝋が変化している「その瞬間」に私をまとめ上げているものはなんなのだろうか。と、問題が先送りされることになる。感覚だろうと思惟だろうと、私がそれを感覚、思惟することを感覚し、思惟する私、と無限後退に進んでしまう。
もし蜜蝋が変化するなら、私も変化するのである。私は私の感覚といっしょに変化する。そしてこの感覚は、私がそれを思惟しているその瞬間には、私の全思考にほかならない。なぜなら、感覚するとは思惟すること、コギトのデカルト的な広い意味において思惟すること、だからである。しかしデカルトは、実体としての魂の実在性にひそかな信頼をよせている。コギトの一瞬の光に眩惑されて彼は、われ思うの主語であるわれの永続性を疑ってみることはしなかった。だが、かたい蜜蝋を感覚する存在とやわらかい蜜蝋を感覚する存在とが、なぜ同一の存在であるのか?一方では、この二つの異なった経験において感覚される蜜蝋が、同一の蜜蝋ではないとされているのに。もし仮に、コギトが受身の形に言いかえられて、私によって思惟されてあるcogitatur ergo estとなっていたとしたら、能動的主語は印象の不確かさや曖昧さといっしょに霧散してしまったであろうか?
2.リズム・時間。リズムは持続的なものと著しい対照を示す。我々は、たとえば、ラモンテ・ヤングの音楽の持続音にもリズムを感じ取る。バシュラールのここでの仮想敵はベルグソンである。
リズムが構造に働きかけることをよく示している実証的な実験が、いくつかある。・・・もしフォスゲンCOCL2に、振動数がちょうど<塩素三五>の帯スペクトルに入るような紫外線をあてたとすると、このフォスゲンから<塩素三五>だけを分離してとりだすことができる。<塩素三七>のほうは、あてた紫外線のリズムに同調せず結合状態のままとり残される。この例で分かるように、輻射は物質を解きはなつのである。リズムに支配されるこれらの反応をそのあらゆる細部にいたるまで理解することが無理だとしたら、それは時間にたいするわれわれの直観がまだ相当に貧しいことによるのである。われわれは絶対的な始まりと、連続的持続についての直観をもっている程度にすぎない。この無構造の時間は、最初に見たときには、あらゆるリズムを自分に受け入れる能力をもっているように見える。しかしそう見えるのは見かけだけで、それは時間の実在性を連続的なもの、単純なものと見込んでいるからなのである。これにたいして、ミクロ物理学というこの新しい領域では、時間の驚異的な作用のすべては明らかに非連続的なものと関係している。ここでは、時間は持続によるよりも、反復によって作用することが多い。
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