2017年4月25日火曜日

アドルノ『美の理論』10



芸術作品の上演は力業を芸術作品のうちに発見し、それによって不可能なものの可能性が隠されている零点を見出さなければならない。作品は二律背反的なものであるため、作品に完全に適合した上演といったものは実際上はありえないが、どのような上演も矛盾する契機を抑圧しなければならないのかもしれない。上演がこうした抑圧を伴うことなしに、力業に力点を置いた葛藤の舞台となっているかどうかという点が、演出の善し悪しを見分ける最上の基準であると言ってよい。力業として計画された作品は仮象であるが、それはこれらの作品が本質的になりえないものとして振舞わざるをえないためにほかならない。これらの作品は自らにとって不可能なことを強調することによって自己を訂正する。偏狭な内面性の美学によって禁止されている芸術における名人芸的要素が正当化されるのは、この点による。とりわけ真正な芸術作品を例にとるなら、これらの作品が力業を、つまりその作品が現実化しえないものを現実化しているものであることが証明されるかもしれない。バッハは通俗的で内面的人間たちによってその同類に仕立てられているが、彼は両立しえないものを両立させる名人であった。彼によって作曲された作品は、和声的で通奏低音的な考えと多声的な考えとを総合したものにほかならなかった。彼の曲は和音の展開の論理に一貫して適合しているが、だが声部誘導の純粋な結果であるこの展開からは、この展開につきものの伸しかかるような異質の重みは取り除かれている。バッハの作品に独特の漂うような感じを与えているのは、この点にほかならない。

 前回に引き続き力業の問題。不可能なものの可能性を見いだす葛藤の舞台であるかどうかが、芸術作品の上演や演出の善し悪しを見分ける最上の基準だということ。名人芸的な要素はどの分野でも最近否定的に語られることが多いが、名人芸によって「その作品が現実化しえないものを現実化している」ことが感じ取れることもある。たとえば、グールドのバッハには「漂うような感じ」が確かにあらわれている。グールドの演奏を名人芸といっていいかは疑問だが、確実に「力業」ではある。

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