2017年4月21日金曜日

アドルノ『美の理論』6



自然美は自らが解くことなしに示すアレゴリー的意図とともに、つまり意味ではあっても指示的な言語の場合とは異って、自己を対象化することがない意味とともに深まる。こうした意味はヘルダーリンの〈ハールトのはざま〉のように、徹頭徹尾歴史的本質を持つのかもしれない。木立にしてもそれが過去の出来事を示す、たとえいかに漠然としてものであろうと、しるしに思われるような場合、美として————他の木立よりも美しいものとして――区別される。一瞬のあいだ太古の獣に見えるが次の瞬間にはたちまちそれらしいところなど見当らなくなるような岩にしても、そう見えない他の岩より美しく思われる。ロマン主義的経験の次元に属してはいても、ロマン主義的哲学や思考を離れても通用するようなものは、こうした歴史的な点に根ざすものにほかならない。自然美においては自然的要素と歴史的要素とが、さながら音楽や万華鏡のように変化しながら絡み合っている。自然的要素は歴史的要素に取って代り、歴史的要素は自然的要素に取って代るが、自然美を生かしているのは二つの要素の明確な関連ではなく、変動にほかならない。

 自然も、人工的なものと同様歴史的なものであること。人々のまなざしによって、奈良の山並みは穏やかなものとなった、 と吉田健一はよく書いていた。
 一方、芸術は歴史的であることを運命づけられている。自然美においては、重要ではあるが副次的な歴史的要素が、芸術においては克服すべき要素となる。もっとも克服するためには歴史的要素が厳然と顕在化していなければならない。 和歌や謡曲においては意味をもち、自然的要素と絡み合っていた歴史的要素は、すっかり忘れられ、克服すべきものではもやはない。

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