醜は芸術に敵対的なものであるが、芸術の概念を拡大して理想の概念を乗りこえさせる芸術の動因として、芸術に敵対する。芸術における醜は芸術の理想に奉仕するものにほかならない。だが醜は、つまり芸術における残酷さはたんなる描写ではない。芸術そのものの身振りにはニーチェも承知していたように、残酷なところがある。残酷さは形式を通じて想像力となる。つまり生あるものから何かを切り取り、言語の肉体、響き、目にすることができる経験から何かを切り取る。形式が純粋なものとなり、作品の自律性が高度なものとなればなるほど、作品はますます残酷になる。芸術作品の態度をより人間的なものとし、観客となるかもしれない人間に順応したものとするようにという呼びかけが行われているが、こうした呼びかけは通例、質をふやけたものとし、形式法則を軟弱なものに変える。
この一節は二つの部分に分かれる。
ひとつは醜ということ。芸術が美をつくりだすことにあるならば、醜は芸術に敵対するが、敵対するものがなければ、芸術は固定化し、発展しない。芸術は、醜をいかに取り込んでいくかの歴史であるともいえる。しかし、それに失敗した場合、醜は醜にとどまり、芸術の残酷さがあらわになる。
第二に、そうした残酷さは形式に通じる。たとえば、俳句のことを考えればわかりやすい。俳句は和歌において醜とされてきたもの、世俗的なものを取り入れることで発達した。 醜を取り入れていく経過において、形式として純粋なものとなり、高度な自律性を得た。そして、それをより「人間的なもの」にしようとして、自由律の俳句も生まれたが、それらは多くの場合、質をふやけたものとしている。
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