すべての美は分析を加えることによって徐々に一貫して解明されて行くが、分析はこうした美を再び本能的なものとして分類することになるし、もし分析に本能的なものという契機が隠され内在することがないなら、こうした分析は何らの成果もあげることができないであろう。美を前にしての分析的反省は、美のアンチテーゼを通して持続的時間をふたたび確立する。分析は最終的に、完全なものであって自己を忘れ去った無意識的なものである知覚を前にするなら出現してくるような美にたどりつくことになる。分析はこうした美にたどりつくことによって、芸術作品が客観的に自己のうちで描く軌道を主観的に再度描くことになる。美的なものについての妥当な認識とは、緊張状態を作り出すことによって自己の内部に生じる客観的過程を過程そのものとして、自発的に完成させることに外ならない。美的態度を持つためにはその前提として、自然美に慣れ親しむ少年期が、つまり自然美のイデオロギー的局面に背を向け、自然美を人工物と関連させて救う少年期が必要なのかもしれない。
どうして書き抜いたのかよくおぼえていない。
美はどれほど分析しても、主観的、本能的な部分が残る。つまり、分析という美のアンチテーゼのなかで、必ず主観的、本能的な持続的時間と出会わなければならない。さらに分析が進むと、この主観的、本能的なものは無意識的な知覚にまでたどり着く。分析とはそうした無意識を緊張状態のなかで自発的に完成させる。
ある種入れ子構造になっており、更に先へ進むと、美の真髄は、分析的知性の自発的な完成にしか見いだせないものといえる。
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