2017年4月17日月曜日

アドルノ『美の理論』2




洞窟の壁に動物の絵を描く手と、無数の場所に同時に無数の写しを出現させることができるカメラとのあいだには、明らかに質的飛躍がある。だが直接的に見られたものを客観化し洞窟に描くという行為のうちには、技術的処置に特有な可能性が、つまり見られたものを見るという主観的行為から解放する可能性がすでに含まれている。多数の人間を対象とした作品はどのような作品であれ、その理念からしてすでにその作品自体を再生産するものにほかならない。

 テクノロジーの問題は難しい。コンピューターが囲碁や将棋で人間に勝とうと、インターネットで世界中がつながろうと、ヴァーチャルなセックス・マシンが登場しようと、我々は驚きはしない。理念的にはとっくの昔にそんなことはわかっているからだ。およそテクノロジーや科学に関することで、私は何も驚くことを見いだせない。しかし、数十年前には、へぼ将棋の私でも楽々とコンピューター・ソフトに勝っていたし、ネットは電話回線で、たやすくつながるものではなかったし、ビニ本、裏本を経て、ビデオへと移行してきた。そこから現在を見ると、確かに「質的飛躍」があり、驚くことはないといいながらその飛躍を享受している。そして、テクノロジーは確実に進歩しているが、新しい理念が生みだされたわけではない。テクノロジーの進歩は、だが、世界を変化させる。孔子がいま生きていたら、周公の夢を見るのだろうか。

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