2017年4月24日月曜日

アドルノ『美の理論』9



芸術は経験から抜け出すものでありながら、形式というユートピアのうちでのしかかるその経験の重みに屈服する。さもなければ芸術の完全性は無に等しくなる。統合の前進は芸術作品が自ら要求せざるをえなかったものであるし、芸術の内容はこうした前進をつうじて直接的に存在するかのように思われているのであるが、芸術における仮象はこうした統合の前進と密接な関係がある。芸術が引きついでいる神学的遺産とは啓示を世俗化すること、つまりそれぞれの作品の理想と限界とを世俗化することにほかならない。芸術と啓示を混同することは、芸術にとって避けえないものである呪物特性を反省することなく理論を通して繰り返すことかもしれない。だが芸術からの啓示の痕跡を根絶するなら、それは存在するものを無差別に繰り返すにすぎないものへと、芸術をして引き下げることに等しいと言えよう。意味連関、つまり統一は存在しないものであるため、芸術作品によって準備されるが、即自存在はそのために準備が行われているにもかかわらず、準備されたものにすぎないために否定される。この場合否定されるのは結局のところ芸術そのものにほからない。どのような人工物も自己に逆らう。力業として、つまり綱渡り的行為として構想された作品は、全芸術を超える何かを白日のもとにさらけ出している。つまり作品は不可能を現実化するものにほかならない。どのような芸術作品も現実化し得ないところを持つが、それによってごく単純な芸術も実際上、力業として規定されることになる。

 意味連関、あるいは統一は、言い換えれば世界を完結させる神の視点である。芸術は統一を目指すが、常にある種断片的な、不完全なものにとどまらざるを得ない。 しかしまた、あらかじめ不完全であることを前提とする芸術は、「芸術」と呼ばれるなにかをなぞったものに過ぎない。キッチュはいまでは肯定的に用いられることもあるが、本来は、そうしたまがい物を意味する。つまり、芸術には常に「綱渡り的行為」が含まれていなければならない。もし綱渡りに失敗して墜ちたとしても、それはその作品をおとしめることにはならない。綱渡りという力業こそが芸術を芸術たらしめるからだ。

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