2017年4月23日日曜日

アドルノ『美の理論』8



ほかならぬ急進的な芸術はリアリズムの欠陥に陥ることを拒む反面、象徴に対しても緊張した関係を持つ。新しい芸術における象徴、あるいは文章論的に言うなら隠喩は象徴機能から自律する傾向があり、こうした傾向を通して経験や経験の意味にとってアンチテーゼをなす領域を構成するために、それ本来の寄与を行っているということ、このことは証明することも不可能なことではない。象徴がもはや何ものも象徴することがないという事実を通して、芸術は象徴を利用する。前衛的芸術家たちによって行われた象徴主義批判は象徴特性そのものの批判であった。モダニズムの暗号と特性は徹頭徹尾絶対的なものと化した、自己自身を忘却した記号にほかならない。こうした記号が美的媒介手段へ侵入することと、こうした記号が意図に対して冷淡であることとは、同一のものが持つ異なる局面にすぎない。不協和音が作曲の〈材料〉へと移行したこともそれと同様に解釈されねばならない。こうした移行は文学的にはおそらく比較的早い時期に生じたものであって、イプセンからストリンドベルイという関係からもうかがえることであるが、晩年のイプセンのうちにすでにその準備の整えられているのが見てとれる。

 意味を持たないようにされた象徴はすぐに材料になる。現代の映画、アニメ、小説とふんだんに用いられている無意味な設定や物は、日本においてはもちろんエヴァンゲリオンの影響もあるのだろうが、もともとはモダニズムの陳腐な常套手段に過ぎない。エヴァンゲリオンに創意があるとしたら、何ものをも象徴しないと思われていた細部に聖書などの引用によって、意味を取り戻そうとしたことにあるが、それも物語を単に延長させるだけの仕掛けに過ぎなかった。

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