「橋本治『風雅の虎ノ巻』を論ず」から。
俺は和歌は五七五七七の下の句七七が他人みたいできらいだが、「課長風月」みたいな俳句よりも、和歌の方に反時代的人物が輩出することを経験的に認める。『金茎和歌集』の中川道弘は言った。和歌とは、都に屍々るいるいとして御所にぷーんと屍臭がただよってきても花鳥風月をうたうものです。
「課長風月」はもちろんわざと。歌人にはまったく詳しくないが、与謝野晶子、折口信夫、斎藤茂吉とあげると、俳人よりも倒錯的であるように思える。
俺は和歌は五七五七七の下の句七七が他人みたいできらいだが、「課長風月」みたいな俳句よりも、和歌の方に反時代的人物が輩出することを経験的に認める。『金茎和歌集』の中川道弘は言った。和歌とは、都に屍々るいるいとして御所にぷーんと屍臭がただよってきても花鳥風月をうたうものです。
黄金時代というものは町の片隅にあって、けっして時代全部が頭のてっぺんから足の爪先まで光っているのではない。
演出、丸尾長顕。
踊り子トップ、ジプシー・ローズ。
ボードビリアン、トニー谷。
照明、団鬼六。
ギター、深沢七郎。
これが昭和三十年(一九五五年)の日劇ミュージック・ホールの陣容である。
壮観だった、と今でこそ言える。この黄金郷は、数寄屋橋の下に川が流れていた時代の日劇の一角にあった。裏町に行けば東京の空は電線だらけだった。
芸術作品の上演は力業を芸術作品のうちに発見し、それによって不可能なものの可能性が隠されている零点を見出さなければならない。作品は二律背反的なものであるため、作品に完全に適合した上演といったものは実際上はありえないが、どのような上演も矛盾する契機を抑圧しなければならないのかもしれない。上演がこうした抑圧を伴うことなしに、力業に力点を置いた葛藤の舞台となっているかどうかという点が、演出の善し悪しを見分ける最上の基準であると言ってよい。力業として計画された作品は仮象であるが、それはこれらの作品が本質的になりえないものとして振舞わざるをえないためにほかならない。これらの作品は自らにとって不可能なことを強調することによって自己を訂正する。偏狭な内面性の美学によって禁止されている芸術における名人芸的要素が正当化されるのは、この点による。とりわけ真正な芸術作品を例にとるなら、これらの作品が力業を、つまりその作品が現実化しえないものを現実化しているものであることが証明されるかもしれない。バッハは通俗的で内面的人間たちによってその同類に仕立てられているが、彼は両立しえないものを両立させる名人であった。彼によって作曲された作品は、和声的で通奏低音的な考えと多声的な考えとを総合したものにほかならなかった。彼の曲は和音の展開の論理に一貫して適合しているが、だが声部誘導の純粋な結果であるこの展開からは、この展開につきものの伸しかかるような異質の重みは取り除かれている。バッハの作品に独特の漂うような感じを与えているのは、この点にほかならない。
芸術は経験から抜け出すものでありながら、形式というユートピアのうちでのしかかるその経験の重みに屈服する。さもなければ芸術の完全性は無に等しくなる。統合の前進は芸術作品が自ら要求せざるをえなかったものであるし、芸術の内容はこうした前進をつうじて直接的に存在するかのように思われているのであるが、芸術における仮象はこうした統合の前進と密接な関係がある。芸術が引きついでいる神学的遺産とは啓示を世俗化すること、つまりそれぞれの作品の理想と限界とを世俗化することにほかならない。芸術と啓示を混同することは、芸術にとって避けえないものである呪物特性を反省することなく理論を通して繰り返すことかもしれない。だが芸術からの啓示の痕跡を根絶するなら、それは存在するものを無差別に繰り返すにすぎないものへと、芸術をして引き下げることに等しいと言えよう。意味連関、つまり統一は存在しないものであるため、芸術作品によって準備されるが、即自存在はそのために準備が行われているにもかかわらず、準備されたものにすぎないために否定される。この場合否定されるのは結局のところ芸術そのものにほからない。どのような人工物も自己に逆らう。力業として、つまり綱渡り的行為として構想された作品は、全芸術を超える何かを白日のもとにさらけ出している。つまり作品は不可能を現実化するものにほかならない。どのような芸術作品も現実化し得ないところを持つが、それによってごく単純な芸術も実際上、力業として規定されることになる。
ほかならぬ急進的な芸術はリアリズムの欠陥に陥ることを拒む反面、象徴に対しても緊張した関係を持つ。新しい芸術における象徴、あるいは文章論的に言うなら隠喩は象徴機能から自律する傾向があり、こうした傾向を通して経験や経験の意味にとってアンチテーゼをなす領域を構成するために、それ本来の寄与を行っているということ、このことは証明することも不可能なことではない。象徴がもはや何ものも象徴することがないという事実を通して、芸術は象徴を利用する。前衛的芸術家たちによって行われた象徴主義批判は象徴特性そのものの批判であった。モダニズムの暗号と特性は徹頭徹尾絶対的なものと化した、自己自身を忘却した記号にほかならない。こうした記号が美的媒介手段へ侵入することと、こうした記号が意図に対して冷淡であることとは、同一のものが持つ異なる局面にすぎない。不協和音が作曲の〈材料〉へと移行したこともそれと同様に解釈されねばならない。こうした移行は文学的にはおそらく比較的早い時期に生じたものであって、イプセンからストリンドベルイという関係からもうかがえることであるが、晩年のイプセンのうちにすでにその準備の整えられているのが見てとれる。
芸術作品をして芸術作品たらしめている即自存在とは、現実的なものの模倣ではなく、いまだまったく存在することがない即自存在の先取り、つまり未知のものであって、主観を通して規定されるものの先取りにほかならない。芸術作品は何かが即自的に存在していると語ることはあっても、その何かについて明確に語ることはない。芸術は事実最近の二十年間に精神化という事態に遭遇し、精神化することによって成熟したものとなったが、芸術は物象化した意識が主張したがるように、自然から疎外されたものではなく、それ自身の形態に従って自然美へと接近したものにほかならない。芸術理論によっては、芸術の主観化の傾向を主観的理性に従って進行しつつある科学の発展と単純に同一視する向きが見られるが、こうした理論はつじつまを合わせるために芸術の運動の内容をなおざりにしたものにすぎない。芸術は非人間的なものが語る言葉を、人間的手段によって現実化しようとする。
自然美は自らが解くことなしに示すアレゴリー的意図とともに、つまり意味ではあっても指示的な言語の場合とは異って、自己を対象化することがない意味とともに深まる。こうした意味はヘルダーリンの〈ハールトのはざま〉のように、徹頭徹尾歴史的本質を持つのかもしれない。木立にしてもそれが過去の出来事を示す、たとえいかに漠然としてものであろうと、しるしに思われるような場合、美として————他の木立よりも美しいものとして――区別される。一瞬のあいだ太古の獣に見えるが次の瞬間にはたちまちそれらしいところなど見当らなくなるような岩にしても、そう見えない他の岩より美しく思われる。ロマン主義的経験の次元に属してはいても、ロマン主義的哲学や思考を離れても通用するようなものは、こうした歴史的な点に根ざすものにほかならない。自然美においては自然的要素と歴史的要素とが、さながら音楽や万華鏡のように変化しながら絡み合っている。自然的要素は歴史的要素に取って代り、歴史的要素は自然的要素に取って代るが、自然美を生かしているのは二つの要素の明確な関連ではなく、変動にほかならない。
すべての美は分析を加えることによって徐々に一貫して解明されて行くが、分析はこうした美を再び本能的なものとして分類することになるし、もし分析に本能的なものという契機が隠され内在することがないなら、こうした分析は何らの成果もあげることができないであろう。美を前にしての分析的反省は、美のアンチテーゼを通して持続的時間をふたたび確立する。分析は最終的に、完全なものであって自己を忘れ去った無意識的なものである知覚を前にするなら出現してくるような美にたどりつくことになる。分析はこうした美にたどりつくことによって、芸術作品が客観的に自己のうちで描く軌道を主観的に再度描くことになる。美的なものについての妥当な認識とは、緊張状態を作り出すことによって自己の内部に生じる客観的過程を過程そのものとして、自発的に完成させることに外ならない。美的態度を持つためにはその前提として、自然美に慣れ親しむ少年期が、つまり自然美のイデオロギー的局面に背を向け、自然美を人工物と関連させて救う少年期が必要なのかもしれない。
醜は芸術に敵対的なものであるが、芸術の概念を拡大して理想の概念を乗りこえさせる芸術の動因として、芸術に敵対する。芸術における醜は芸術の理想に奉仕するものにほかならない。だが醜は、つまり芸術における残酷さはたんなる描写ではない。芸術そのものの身振りにはニーチェも承知していたように、残酷なところがある。残酷さは形式を通じて想像力となる。つまり生あるものから何かを切り取り、言語の肉体、響き、目にすることができる経験から何かを切り取る。形式が純粋なものとなり、作品の自律性が高度なものとなればなるほど、作品はますます残酷になる。芸術作品の態度をより人間的なものとし、観客となるかもしれない人間に順応したものとするようにという呼びかけが行われているが、こうした呼びかけは通例、質をふやけたものとし、形式法則を軟弱なものに変える。
市民意識は産業によって掘り返された景観を醜いものときめつけるが、こうした判断は素朴なものであるとしても、一つの関係を的確に捉えたものと言ってよい。つまり、自然が人間に、人間によって支配されていない顔を向けるところにおいて出現する、自然支配を捉えていると。掘り返された風景に対する憤激はそのため、支配のイデオロギーに順応することになる。もしいつか人間の自然に対する関係が、人間の抑圧を続けている抑圧的特性を持ちつづけることを断念することがあるなら、こうした醜さも消滅するかもしれないが、その逆はありえない。技術が平和的なものとなるなら、技術によって荒廃した醜い世界が消滅する可能性も生まれてくるかもしれないが、こうした世界のうちに計画的に自然保護地帯を作り上げたところで、そうした可能性が生まれることはない。
洞窟の壁に動物の絵を描く手と、無数の場所に同時に無数の写しを出現させることができるカメラとのあいだには、明らかに質的飛躍がある。だが直接的に見られたものを客観化し洞窟に描くという行為のうちには、技術的処置に特有な可能性が、つまり見られたものを見るという主観的行為から解放する可能性がすでに含まれている。多数の人間を対象とした作品はどのような作品であれ、その理念からしてすでにその作品自体を再生産するものにほかならない。
文学は後退して何一つ容赦することがない現実暴露の過程となり、詩的なものという概念はこの過程によって台無しにされた。ベケットの作品の抗い難い魅力を作り上げているのもその点にほかならない。
声は、意見を言い、反対し、代わりとなって語る。闘争的な声は、虐待された無言の犠牲者たちに代わって虐待する/言葉に反対して戦っている。それは確かにひとつの声である。というのも、告発には声という音が必要とされるからである。それゆえに超自我は常に声に結びついている。テキストにおける声は世界を弾劾すると同じく、「あなた方」犠牲者に語りかける。「対象」としての声は常に告発の道徳性を補強するが、常に流されることを楽しみ、行き過ぎとなり、実際、道徳の命じるところと矛盾する。逸脱がある点までくると、声の名のもとに発せられた禁止に反対する、あるいは付加される形で、声が自らのためになにを欲しているのか常に問うことができる。この声のよこしまな享楽とはなんなのだろうか。
発話レベルの内部でのこの分裂は、超自我の分裂した性格のある働きである。こうした分裂は命令を発する者にとって常に問題となる。命令を発するとき、どうしたら行き過ぎ、自らを裏切って判断という道理に基づいた公平無私の行為を蝕むサディスティックな満足を生むことになる享楽なしで済ませることができるのだろうか。問題を否定することは常にそれを悪化させることになる。超自我の分裂は、フロイトが認めたように、矛盾以上のものであった。超自我そのものが区別するよう命令を発し、それによって道徳的法と罰する快楽、表象と出来事とが分けられるようになった。このことは必然的に、ほかにいい言葉がないのだが、願望と行為、幻想と罪悪の相違、つまりは去勢を受けいれることが伴う。しかし、同時に、超自我の恐ろしい声(シニファン)はまったく相容れない正反対の方向に働くひとつの対象(声そのもの)としても存在しうる。それは去勢によって開いた亀裂を満たす。そこで声が亀裂を完全に覆い隠し、審判者は自分たちの仕事を真に楽しみ始めるのである。