早くに畑村を立つ。道がますます険しい。槐、椎の木、猿滑りなどが巨石と混じり合って針の山になっている。道が凍り、その上に雪が降りしきる。権現坂を登ると湖に出る。関はますます険しく狭く、一人いれば万人を防ぐことができそうである。山中には城跡が見える。関を越えてしばらく行くと道はようやく平らになり、三島に着く。明神の祠がある。庭には数多くの鶏が放たれ、聞けば明神が愛するのだという。六反田、長沢を経て、黄瀬川にかかる。義経が頼朝と始めてあったとされるところである。薄暮どき、沼津を過ぎると、左に千本松原がある。東今戸を過ぎると右には愛鷹山に白雲がたなびいている。日が暮れて、原に宿す。
伊藤整『日本文壇史1 開化期の人々』からの抜き書き。
露伴の少年時代
明六社の社員の敬宇中村正直は「西国立志編」といふ西洋の立志伝の訳書を明治四年に出して、福沢の書物に次いで多くの読者を知識階級の間に得てゐた。中村正直は、この頃、本郷お茶の水に東京女子師範学校を創立する仕事を命ぜられ、創立後は「摂理」すなはち校長になつた。その女子師範は、「明六雑誌」の終刊号の出た明治八年の十一月に創立された。この女子師範学校が創立された時、関千代子といふ女性がこの学校の教師になつた。関千代子は、当時の著名な儒家、雪江関忠造の姉であり、学問も出来、人物も立派であつたので、中村正直に招かれたのである。この時、幕府の表方のお茶坊主といふ式部官のやうな仕事をしてゐた幸田成延といふ者の四男で、九歳になる幸田成行といふ少年が、この女子師範の附属小学校に入学した。成行は六歳の頃から漢学塾に行く外、この関千代子について習字を学んでゐたのだが、千代子が女子師範の教師になつて、その習字塾をやめたので、幸田家では千代子のすすめで成行を女子師範の附属小学校に入れたのである。
「小説神髄」の二人の読者
当時、この新しい小説論を最も真剣に読み、且つその本質を理解したところの、二人のこれから出発しようとする若い作家があつた。その一人は幸田成行(しげゆき)であり、もう一人は長谷川辰之助である。
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