2016年2月12日金曜日

二月三日

晴れ。

完全な人間など存在しない、政治家だって人間なのだから、多少の倫理的、道徳的瑕疵には目をつむらないと、と友人はいう。
反対である。リアル・ポリティクスだの現実などを盾に、臆面もない糞リアリズムに逃げ込むのをいつ果てることもなく見せられるのはまっぴらである。
丸山眞男は荻生徂徠をそれまでの儒教的な世界観を根本的に覆すものとして評価した。
特に朱子以来の儒教では、倫理道徳もひっくるめた自然が世界を構成している。それゆえ、聖人は自然の理を体現したものとして理想化される。世界の様々な物には理があり、理は世界の調和と一致し、聖人、そして神話的な聖人=君主は、世界を調和をもってまとめ上げる。
しかし、歴史には戦争が絶えず、不調和が支配し、自然の一部であるような聖人の君主は現われていない。かくして、聖人は神話的な存在であり、歴史の、時間の外に置かれる。
一方、徂徠は聖人はあくまで歴史的人物だと主張する。聖人の世というのは、我々と異ならない人間が、人為的につくりあげたものだ。それは自然という調和の一部などではない。人工的で意志的な構築物なのだ。
政治家はすべからく聖人を目指すべきである。そのとき始めて現実が見えてくるだろう、.

パトリック・シヴェルセン『NAKED ブービートラップ』(2008年)をみる。ノルウェー映画。マンハントという英題がぴったり。邦題は意味不明。森のなかで、狩りの獲物となる話。殺せるはずなのに殺さなかったり、ルールがよくわからない。改めて『クライモリ』はよくできていたと思う。

西洋餅をもらう。飲み込まずに嚙んでいると甘みが口のなかに広がる。

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