2016年2月17日水曜日

三月八日

晴れ。

筒井某は仕事ができて、文章もうまい。ある神を信じ、敬することが厚かった。ある人がその書斎のなかを見ると壁龕がある。秘かに開いてみると脱衣婆の像があった。

昼食をして歩いていると井の頭弁天に出る。御殿山に登り、玉川水道に出る。水源の方を眺めやると、紅白が映じ合い、錦の反物を広げたようである。

アランの『幸福論』からの書き抜き。

 恐怖

 多くの者が恐怖を、ことばでもってやっつけている。しかも強い論拠をもって。ところが、恐怖を感じている者はその理由など聞かないのだ。彼は心臓の鼓動と血液の波打つ音しか聞かない。もの知りぶる者は危険を感じるから恐怖が生まれるのだと言う。情念に囚われた者は恐怖を感じるから危険だと判断するのであると言う。二人とも自分の考えが正しいと主張するが、二人ともまちがっている。しかも、もの知りぶる者は二度もまちがいを犯している。ほんとうの理由を知らないのと、もう一方の誤りがわからないのである。人間は恐怖を感じると具体的な危険を考え出して、この恐怖がリアルなもので、十分確かめられたものだと説明する。ところが、どんな小さな驚きでさえも人をおびえさせる。まったく危険などないものでも。たとえば、非常に近くで不意にピストルの一発があった時、あるいは思いがけない人が現われただけでも。マッセナ元帥は暗い階段の彫像におびえて、一目散に逃げ出した。

 恐怖と悲劇

 シェークスピアの『マクベス』のなかに、城館に朝がきて門番が夜明けの光とツバメとを眺めているシーンがある。淡々とした風景で、さわやかさと清らかさのあふれている光景である。だがわれわれには、犯行がすでに行われてしまったことがわかっている。悲劇としての恐怖感はここで最高にたかまってくる。これと同じように、難船にまつわるあのさまざまな思い出においても、一つひとつの瞬間は次に起こったことがらによって照らされている。だから明かあかと照らし出されて、海面にどっしりと静かに浮かんでいたあの船の姿は、その時にはたのもしい姿だった。それがあの人たちの思い出や夢のなかでは、またぼくの描くイマージュのなかでは、次を待っている恐怖の瞬間となってしまう。今やこの悲劇は、事情を知り尽くしていて、一刻一刻断末魔の苦しみを味わっている見物人のために展開している。しかし、悲劇の進行そのものの中には、こんな見物人は存在しない。ふり返って考えてみることなどありえないのだ。見ている光景が変わると印象も変わってしまう。もっと正確にいえば、じっと見られている光景など存在しないのだ。ただ予期されない知覚、意味のわからない、脈絡のない知覚があるだけだ。とりわけ、思考を押し流してしまう行為があるだけだ。一瞬ごとに思考が難破している。イマージュが一つひとつ現われては消えて行く。なまの出来事が悲劇を葬り去ってしまった。死んで行った人たちは何かを感じるどころではなかった。

 あくび1

 犬が暖炉のそばであくびをしている。これは猟師たちに気がかりなことは明日にしなさいと言っているのだ。気取りもせずどんな礼儀もなしに、伸びをするあの生命力は、見ていてもすばらしいし、引き込まれ真似をしたくなる。周囲の人たちはみんな伸びをし、あくびをしたくなるはずだ。これが寝支度の開始となる。あくびは疲労のしるしではないのだ。あくびはむしろ、おなかに深々と空気を送り込むことによって、注意と論争に専念している精神に暇を出すことである。このような大変革(精神のはたらきをばっさり切ること)によって、自然(肉体)は自分が生きていることだけで満足して、考えることには倦き倦きしていることを知らせているのである。

あくび2

どうしてあくびが病気のようにうつるのかとふしぎに思っている人がいる。ぼくは、病気のようにうつるのはむしろ、事の重大性であり、緊張であり不安の色であると思う。あくびは反対に、生命の報復であり、いわば健康の回復のようなものである。あくびがうつるのは深刻な態度を放棄するからであり、何も気がかりがなくなったことを大げさに宣言するからのようだ。それは整列している人たちを解散させる合図のようなもので、だれもが待ち受けている合図なのだ。この気楽な気分が拒否されることはありえない。そこから、深刻な気分はふっ飛んで行く。 笑いとすすり泣きも、あくびと同じ種類の解決方であるが、あくびよりもひかえ目で、抑えられている。そこには二つの思考、すなわち拘束しようとするものと解放しようとするものとの間の戦いが現われている。これに対し、あくびをすると、拘束するものであれ解放するものであれ、いっさいの思考が逃げ出してしまう。生きることの気安さがいっさいの思考を消し去っている。これもやはり犬のあくびなのだ。だれでも見たことがあるように、思考がもとで病気となる、神経症と呼ばれるこの種の病気のなかで、あくびが出ることはつねによい徴候なのである。しかしぼくは、あくびはあくびが知らせている眠りと同じように、すべての病気に効能があると思う。それはわれわれの思考がいつも病気の中で大きな役割をはたしているしるしである。これは自分の舌を噛みながら味わう苦痛を考えるならば、それほど驚かないであろう。この表現(噛む)の比喩的な意味からよくわかるように、「悔恨」とうまく形容された後悔は、損傷にまで及ぶのである。反対に、あくびにはどんな危険もない。

 幸福


 幸福は自分の影のようにわれわれが追い求めても逃げて行くと人は言う。しかしたしかに、想像された幸福はけっして手に入れることができない。でも、つくり出す幸福というのは、想像されないもの、想像できないものなのだ。それは実質的なものでしかあり得ない。そのイマージュだけを描くことは出来ない。物書きのよく知るように、美しい主題などない。いや、ぼくはさらにこう言いたい。美しい主題には気をつけなければならない。眺めていないでそれにすぐに近付き取りかからねばならない。幻影をなくすために。それが希望などは棚に上げて、信念を持つことである。壊すこと、そしてつくり直すこと。おそらくその時、わかるであろう、小説とその小説の書かれる契機となったほんとうの冒険との間には驚くべき相違がつねにあることが。絵かきよ、モデルの微笑に気をよくして時を浪費することなかれ。


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