軒に烏より一回り大きな鳥が止まっている。名前がわからない。くちばしの形状から猛禽類ではないようだ。
浅草から本願寺に行く。風が暖かい。莟がほどけて爛漫になる感触。
歌舞伎にあっては、美人の美人たる所以は笑顔ではない憂い顔にあるという。現実との相違がその辺にある。
窪田が豚肉とネギをもってくる。塩を加えて煮る。
アドルノの『美の理論』から書き抜き。
文学の現実暴露
文学は後退して何一つ容赦することがない現実暴露の過程となり、詩的なものという概念はこの過程によって台無しにされた。ベケットの作品の抗い難い魅力を作り上げているのもその点にほかならない。
複製技術と芸術
洞窟の壁に動物の絵を描く手と、無数の場所に同時に無数の写しを出現させることができるカメラとのあいだには、明らかに質的飛躍がある。だが直接的に見られたものを客観化し洞窟に描くという行為のうちには、技術的処置に特有な可能性が、つまり見られたものを見るという主観的行為から解放する可能性がすでに含まれている。多数の人間を対象とした作品はどのような作品であれ、その理念からしてすでにその作品自体を再生産するものにほかならない。
醜い景観
市民意識は産業によって掘り返された景観を醜いものときめつけるが、こうした判断は素朴なものであるとしても、一つの関係を的確に捉えたものと言ってよい。つまり、自然が人間に、人間によって支配されていない顔を向けるところにおいて出現する、自然支配を捉えていると。掘り返された風景に対する憤激はそのため、支配のイデオロギーに順応することになる。もしいつか人間の自然に対する関係が、人間の抑圧を続けている抑圧的特性を持ちつづけることを断念することがあるなら、こうした醜さも消滅するかもしれないが、その逆はありえない。技術が平和的なものとなるなら、技術によって荒廃した醜い世界が消滅する可能性も生まれてくるかもしれないが、こうした世界のうちに計画的に自然保護地帯を作り上げたところで、そうした可能性が生まれることはない。
芸術の残酷さ
醜は芸術に敵対的なものであるが、芸術の概念を拡大して理想の概念を乗りこえさせる芸術の動因として、芸術に敵対する。芸術における醜は芸術の理想に奉仕するものにほかならない。だが醜は、つまり芸術における残酷さはたんなる描写ではない。芸術そのものの身振りにはニーチェも承知していたように、残酷なところがある。残酷さは形式を通じて想像力となる。つまり生あるものから何かを切り取り、言語の肉体、響き、目にすることができる経験から何かを切り取る。形式が純粋なものとなり、作品の自律性が高度なものとなればなるほど、作品はますます残酷になる。芸術作品の態度をより人間的なものとし、観客となるかもしれない人間に順応したものとするようにという呼びかけが行われているが、こうした呼びかけは通例、質をふやけたものとし、形式法則を軟弱なものに変える。
美と分析
すべての美は分析を加えることによって徐々に一貫して解明されて行くが、分析はこうした美を再び本能的なものとして分類することになるし、もし分析に本能的なものという契機が隠され内在することがないなら、こうした分析は何らの成果もあげることができないであろう。美を前にしての分析的反省は、美のアンチテーゼを通して持続的時間をふたたび確立する。分析は最終的に、完全なものであって自己を忘れ去った無意識的なものである知覚を前にするなら出現してくるような美にたどりつくことになる。分析はこうした美にたどりつくことによって、芸術作品が客観的に自己のうちで描く軌道を主観的に再度描くことになる。美的なものについての妥当な認識とは、緊張状態を作り出すことによって自己の内部に生じる客観的過程を過程そのものとして、自発的に完成させることに外ならない。美的態度を持つためにはその前提として、自然美に慣れ親しむ少年期が、つまり自然美のイデオロギー的局面に背を向け、自然美を人工物と関連させて救う少年期が必要なのかもしれない。
自然美とアレゴリー的意図
自然美は自らが解くことなしに示すアレゴリー的意図とともに、つまり意味ではあっても指示的な言語の場合とは異って、自己を対象化することがない意味とともに深まる。こうした意味はヘルダーリンの〈ハールトのはざま〉のように、徹頭徹尾歴史的本質を持つのかもしれない。木立にしてもそれが過去の出来事を示す、たとえいかに漠然としてものであろうと、しるしに思われるような場合、美として————他の木立よりも美しいものとして――区別される。一瞬のあいだ太古の獣に見えるが次の瞬間にはたちまちそれらしいところなど見当らなくなるような岩にしても、そう見えない他の岩より美しく思われる。ロマン主義的経験の次元に属してはいても、ロマン主義的哲学や思考を離れても通用するようなものは、こうした歴史的な点に根ざすものにほかならない。自然美においては自然的要素と歴史的要素とが、さながら音楽や万華鏡のように変化しながら絡み合っている。自然的要素は歴史的要素に取って代り、歴史的要素は自然的要素に取って代るが、自然美を生かしているのは二つの要素の明確は関連ではなく、変動にほかならない。
芸術と自然美
芸術作品をして芸術作品たらしめている即自存在とは、現実的なものの模倣ではなく、いまだまったく存在することがない即自存在の先取り、つまり未知のものであって、主観を通して規定されるものの先取りにほかならない。芸術作品は何かが即自的に存在していると語ることはあっても、その何かについて明確に語ることはない。芸術は事実最近の二十年間に精神化という事態に遭遇し、精神化することによって成熟したものとなったが、芸術は物象化した意識が主張したがるように、自然から疎外されたものではなく、それ自身の形態に従って自然美へと接近したものにほかならない。芸術理論によっては、芸術の主観化の傾向を主観的理性に従って進行しつつある科学の発展と単純に同一視する向きが見られるが、こうした理論はつじつまを合わせるために芸術の運動の内容をなおざりにしたものにすぎない。芸術は非人間的なものが語る言葉を、人間的手段によって現実かしようとする。
前衛と象徴
ほかならぬ急進的な芸術はリアリズムの欠陥に陥ることを拒む反面、象徴に対しても緊張した関係を持つ。新しい芸術における象徴、あるいは文章論的に言うなら隠喩は象徴機能から自律する傾向があり、こうした傾向を通して経験や経験の意味にとってアンチテーゼをなす領域を構成するために、それ本来の寄与を行っているということ、このことは証明することも不可能なことではない。象徴がもはや何ものも象徴することがないという事実を通して、芸術は象徴を利用する。前衛的芸術家たちによって行われた象徴主義批判は象徴特性そのものの批判であった。モダニズムの暗号と特性は徹頭徹尾絶対的なものと化した、自己自身を忘却した記号にほかならない。こうした記号が美的媒介手段へ侵入することと、こうした記号が意図に対して冷淡であることとは、同一のものが持つ異なる局面にすぎない。不協和音が作曲の〈材料〉へと移行したこともそれと同様に解釈されねばならない。こうした移行は文学的にはおそらく比較的早い時期に生じたものであって、イプセンからストリンドベルイという関係からもうかがえることであるが、晩年のイプセンのうちにすでにその準備の整えられているのが見てとれる。
力業としての芸術
芸術は経験から抜け出すものでありながら、形式というユートピアのうちでのしかかるその経験の重みに屈服する。さもなければ芸術の完全性は無に等しくなる。統合の前進は芸術作品が自ら要求せざるをえなかったものであるし、芸術の内容はこうした前進をつうじて直接的に存在するかのように思われているのであるが、芸術における仮象はこうした統合の前進と密接な関係がある。芸術が引きついでいる神学的遺産とは啓示を世俗化すること、つまりそれぞれの作品の理想と限界とを世俗化することにほかならない。芸術と啓示を混同することは、芸術にとって避けえないものである呪物特性を反省することなく理論を通して繰り返すことかもしれない。だが芸術からの啓示の痕跡を根絶するなら、それは存在するものを無差別に繰り返すにすぎないものへと、芸術をして引き下げることに等しいと言えよう。意味連関、つまり統一は存在しないものであるため、芸術作品によって準備されるが、即自存在はそのために準備が行われているにもかかわらず、準備されたものにすぎないために否定される。この場合否定されるのは結局のところ芸術そのものにほからない。どのような人工物も自己に逆らう。力業として、つまり綱渡り的行為として構想された作品は、全芸術を超える何かを白日のもとにさらけ出している。つまり作品は不可能を現実化するものにほかならない。どのような芸術作品も現実化し得ないところを持つが、それによってごく単純な芸術も実際上、力業として規定されることになる。
力業としての芸術を上演すること バッハ
芸術作品の上演は力業を芸術作品のうちに発見し、それによって不可能なものの可能性が隠されている零点を見出さなければならない。作品は二律背反的なものであるため、作品に完全に適合した上演といったものは実際上はありえないが、どのような上演も矛盾する契機を抑圧しなければならないのかもしれない。上演がこうした抑圧を伴うことなしに、力業に力点を置いた葛藤の舞台となっているかどうかという点が、演出の善し悪しを見分ける最上の基準であると言ってよい。力業として計画された作品は仮象であるが、それはこれらの作品が本質的になりえないものとして振舞わざるをえないためにほかならない。これらの作品は自らにとって不可能なことを強調することによって自己を訂正する。偏狭な内面性の美学によって禁止されている芸術における名人芸的要素が正当化されるのは、この点による。とりわけ真正な芸術作品を例にとるなら、これらの作品が力業を、つまりその作品が現実化しえないものを現実化しているものであることが証明されるかもしれない。バッハは通俗的で内面的人間たちによってその同類に仕立てられているが、彼は両立しえないものを両立させる名人であった。彼によって作曲された作品は、和声的で通奏低音的な考えと多声的な考えとを総合したものにほかならなかった。彼の曲は和音の展開の論理に一貫して適合しているが、だが声部誘導の純粋な結果であるこの展開からは、この展開につきものの伸しかかるような異質の重みは取り除かれている。バッハの作品に独特の漂うような感じを与えているのは、この点にほかならない。
ベケットと理性
ベケットの芸術は表面的な合理性から堅く身を守り、こうした合理性から切り離された芸術であるが、彼の芸術はいかなる瞬間においても事柄に内在する理性によって貫かれている。だがこうした理性を持つことはけっしてモダニズムの特権ではなく、それはたとえば晩年のベートーベンが行っている省略からも、つまり余計なものであり、その限りにおいて非合理的なものでもある付加物を彼が断念しているところから、同様に読み取ることができる。逆に粗悪な芸術作品などは、なかんずくぎくしゃくした音楽などは内在的な愚かさによって貫かれているが、モダニズムがその掲げる成熟の理想を通してとりわけ非難し反撥したものは、こうした愚かしさにほかならなかった。芸術作品はミメーシス,模倣であって構造でもあるというアポリア,難問によって、過激な態度に慎重さを結びつけることを、それもつけ足り的に考えられ偽物にすぎないような補助的仮説を用いることなく結びつけることを、強制されている。
台本や楽譜とその上演
演劇の台本あるいは音楽のテキストはただ単にそのようにして眺めるべきものであって、俳優あるいは演奏者に対する指示の総体として眺めるべきものではない。これらのものはいわば作品による作品自身の模倣行為の凝固したものであり、こうした模倣はたとえ意味的な要素によってつねに浸透されたものであろうと、作品自身を模倣している限りにおいて本質的なものなのだ。作品が上演されるかどうかということは、作品そのものにとってはどうでもよいことと言ってよい。だが作品についての経験が、つまり理想からするなら沈黙した内在的なものである経験が作品を模倣するということ、このことは作品にとってどうでもよいことではない。こうした模倣は芸術作品の記号から芸術作品の意味連関を読み取り、芸術作品が自己を出現させる曲線をたどるようにその連関のあとをたどる。芸術作品の異るさまざまな媒体はその模倣の法則としてそれらの統一を、つまり芸術の統一を見出す。カントにおいては、論証的認識は事物の内部について認識することは断念すべきものとされているが、芸術作品は客体、つまりその真実は内部の真実として表象する以外には表象しえない客体と見なされている。模倣はこうした内部へと導く通路にほかならない。
芸術と意味 モンタージュ
極端なところまで首尾一貫性を貫くなら、それがどのような一貫性であれ、それがたとえ不条理と呼ばれるものであろうと、意味に類似した何かにたどりつくということ、この事実は真に芸術の謎の一つであって、芸術の論理的な力を証明するものにほかならない。しかしそのことは意味に類するものが形而上学的な実体であることを、つまり仕上げられた作品ならどのような作品であろうと手に入れると言われているような、形而上学的な実体であることを証明しているのではなく、むしろそれが仮象特性にすぎないことを証明しているにすぎない。芸術は結局のところ、意味を欠くものの真只中に置いて意味を暗示し、そうすることを免れえないということを通して仮象となる。しかし意味を否定する芸術作品は、統一されたものでありながら混乱しているといった作品でなければならない。これがモンタージュの機能であって、モンタージュは統一を形式原理として繰り返し作り上げるが、それと同時に部分を乖離したまま出現させることによって統一を否定する。
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