饗庭篁村の小説は、いくつかの文学全集や最近では筑摩書房の「明治の文学」で読むことができるが、より大きな力を注いだ劇評はなかなか読めない。もっとも、歌舞伎にもその演目にも疎い私には馬の耳に念仏だろうが。
饗庭篁村のファンに英文学者の福原麟太郎がいる。一見妙な取り合わせだが、落語全集を枕頭の書にしていたと聞くと、それほど違和感はなくなる。
「饗庭篁村」という文章で、福原麟太郎は、篁村の小説はどれも「めでたしめでたし」で終わっていること、しかも勧善懲悪にしたがっているわけではなく、生き方に直接関わっていることを述べた上で、劇評についても触れている。
劇評のごときもそうでありまして、ほとんどすべての劇評、それは今日と違って、みな長いもので、一座について、三回も四回もつづくというふうでありました、そして竹の屋主人と署名されたものでありましたが、そのほとんどすべての評の最後の一行は、めでたしめでたしであります。皮肉や苦言もたくさんありましたが、最後は何でもめでたいので、これは、ただ、面白半分に、いたずらに、または、意地になって、そう書いたというよりも、実際、人生は、めでたしめでたしであると、竹の屋主人自身が思っていたのであろうと思います。
「めでたしめでたし」の系譜を考えてみてもおもしろい。
0 件のコメント:
コメントを投稿