2012年12月20日木曜日

立川談志のジョークを思いだす




立川談志がよく言っていたジョークに次にようなものがある。
バーでいつも二人分の酒を注文する客がいる。
バーテンが気になって聞いてみると、
「友人が遠いところへ行ってしまったもんでね」という答え。
ところが、ある時期から一人分しか注文しなくなった。
「失礼ですが、ご友人の身になにか・・・・・・」
「ああこれ、いやなに、私が禁酒したもんでね」

ちょっとおもむきは違うが、似たようなジョークがのっていた。

「特務曹長、毎朝カクテル二杯を部屋に運ばせているが、飲み仲間がいるのかね?」
「ハッ、そうであります。カクテル一杯を飲みますと、自分は他人になったように感じます。そして、もちろん、自分は絶対に他人をもてなす主義なのであります」

2012年12月19日水曜日

怠惰と法悦




怠惰というと空虚な時間を思ってしまうが、ラ・ロシュフコーによると、どんな試みをも堰きとめてしまうもっとも危険な情念であり、空虚とは正反対のものとして観察されている。

怠惰の安息は魂の秘密の魔力であって、最も熱烈な追求も、最も断固たる決意も、突如として中止させてしまう。要するにこの情念はほんとうは何かと言えば、怠惰とは魂の法悦状態のようなもので、魂のあらゆる損失を慰め、魂にとってあらゆる善きものの代わりになるものだ、と言わねばならない。

2012年12月18日火曜日

寺田寅彦と俳諧




寺田寅彦は多次元の世界と連句とを比較している。

実数と虚数の組みあわせはX軸とY軸の面状の線であらわされる。

 これは単なる言葉のアナロジーではあるが、連句はやはり異なる個性のおのおののXY、すなわちX1Y1X2Y2X3Y3・・・・・・によって組み立てられた多次元の世界であるとも言われる。
 それは、三次元の世界に住する我らの思惟を超越した複雑な世界である。
 「独吟」というものの成効し難いゆえんはこれで理解されるように思う。
 また「連句」の妙趣がわれわれの「言葉」で現わされ難いゆえんもここにある。

2012年12月17日月曜日

かぶらずし




かぶらずしは金沢の名産で、1センチ間隔くらいにあけた蕪の切れ目に塩ブリをはさみ、麹で漬けたものである。金沢には何回か行ったことがあり、かぶらずしも食べた。

芭蕉七部集の『猿蓑』「灰汁桶」で、野水の「うそつきに自慢いはせて遊ぶらん」に去来が「又も大事の鮓を取出す」とつけている。

中谷宇吉郎はこの鮓がかぶらずしではないかと推測している。

 露伴先生の評釈では、鮒の鮓か鰆の鮓となっているが、「又も」と「大事の」が、相当長期間の保存を意味するようにみえる。そうするとかぶらずしの方が、ぴったりする。昔、寺田先生のこの話をしたら、「そうかもしれんな」といっておられた。先生もかぶらずしが好きであった。

2012年12月16日日曜日

ローブ・モンタントとホック




ジャリは『超男性』で次のように書いている。

 三人の女はローブ・モンタントを着てきたが、それは世にも不思議なぴっちりしたローブで、しかもホック一つでぱっと開くようになっており、その下に彼女たちは何も着ていなかったのである。

主人公は屋敷に七人の娼婦を招くが、そのうちの三人がこのような恰好をしている。ローブ・モンタントとは、宮中で着られているような、あるいは鹿鳴館で着られていたような、首がみられないほど襟が高く、長袖で、裾もくるぶしが隠れるほど長いものである。それがホックひとつで開くとはまったく「世にも不思議」で、風船のような薄いゴムでできているとでも考えるしかない。

2012年12月15日土曜日

ハンチクな刺青




「長谷川伸と文身」という文章によると、長谷川伸に「刺青奇遇」という戯曲があるそうだ。主人公の半太郎というやくざ者の二の腕に、稚拙なサイコロの刺青がある。半太郎の博打好きを諫めるために死んでいく女房が遺言がわりに彫ったのだという。

この戯曲が「俺の刺青芸術観を変えた。ハンチクな刺青によさがあるのではないか。」と平岡正明は書いている。そういえば、昔よく銭湯に通っていた頃、中途半端ななんの図柄かもわからない彫りものをした人がいたものだった。要は、「歩く美術館」になるために彫っているわけではないということだ。美的感覚や趣味とは別に、日常的な問題も絡んでくる。

 刺青を途中で投げだすのは、痛さに我慢できないからではないそうだ。金がつづかないのだ。総身彫りで二百万円くらいだ。一気に仕上げるというのではなく、体調をみながら長い人で一年ほどかける。通うたびに刺青師に五万、十万と支払う。名人彫よしの芸術を二百万円で全身に負うことは、絵はがき大の絵に何十万円もとる表の絵描き世界にくらべたらべらぼうに安いが、それでも職人衆や、ハクをつけてこれから売り出そうとするやくざには安い金額ではない。通いきれなくなるというケースが多い。総身彫りを仕上げる人は十人に一人くらいという。

2012年12月14日金曜日

鬼神と時間




新井白石の『鬼神論』は儒教に則ったもので、すべてを陰陽の気によって説明する。

たとえば、恨みを抱いて殺されたり、自殺した者、気を集中する力が強く、突然死に見舞われた者などは、気が散ずるのに時間がかかり、気の塊が世の中に残っているので、怪異な現象を起こしたり、祟りをなしたりする。

面白いのは、寿命の長い人間でも、動物でも、植物でも時間とともに精気が塵のように積もっていくことで、同じように怪異を引き起こすことだ。生きていることは気を集中させている状態なのだから、このことは納得しやすい。普通の老人は、どれだけ長生きでも、病気などによって気を減じてしまうので、妖怪までには到らないのである。

2012年12月13日木曜日

バルトの葉巻




紙巻きの煙草はまったく吸わなくなったが、パイプは吸う。オブジェとして好ましいし、普段とは違った時間が流れる。葉巻も吸ったことはあるが、どこでやめたらいいのかよくわからないのと、なにより高価だ。

二人とも葉巻を吸うが、しかしドルトが大衆的なイタリアのタバコ「トスカーに」を好むのに対して、バルトのほうは、金さえあればハバナ葉巻のほうを好み、ブレヒトもハバナ葉巻を吸っていたといって自分を正当化していた。バルトは長いあいだ、あのよじれた奇妙な形の葉巻「パンチ・クレブラス」を吸っていたが、ずっとあとになって、七〇年代の半ば頃、はじめてブランドを変え、ラカンが同じ葉巻を吸い始めたので、その真似をしているように見られたくないからだ、と笑いながら説明する。

写真でこの葉巻を見たが、たしかに妙な形にねじれていて、三本にするとちょうどよく組み合わさり、女性のトルソーのようになる。

2012年12月12日水曜日

『旅芸人の記録』




テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』をDVDでみる。顔が見られないといらいらするほうなので、アンゲロプロスのよい観客とは言えないかもしれない。

といって、退屈したわけではなく、車窓から風景を見るように刻々と時間は過ぎていく。だが、景色を眺めているときのように、いろいろな考えが浮かんでは消えていくので、本当にこの映画を見たと言えるのかちょっと不安になる。

2012年12月11日火曜日

カフカと夢と唐十郎




ブロートのカフカ伝は、その神学的解釈と自分のことがやたらにでてくるので評判が悪い。しかし、美しい文章も多い。

 ある日の午後カフカが私の家に来て(私は当時まだ両親のところに住んでいた)、部屋に入る足音でソファーに寝ている私の父を起こしてしまった。カフカは言いわけすると思いのほか、手をあげてなだめるような恰好をし、爪先でそっと部屋を歩きながら、なんとも言えないやさしい声でこう言った。「どうか私を夢だと思ってください。」

また、

 カフカは私に、「一隻の小舟に乗って、水のない河床を走ってゆく」「すばらしい夢」を物語った。

前の一節は、ずっと昔、状況劇場をしていたころ、役者や仲間たちが宴会している部屋に入った唐十郎が、「あれ、おれの姿がないぞ」と言ったことを思い起こさせた(どこでこのエピソードを知ったかは忘れてしまった)。

2012年12月10日月曜日

饗庭篁村の劇評






饗庭篁村の小説は、いくつかの文学全集や最近では筑摩書房の「明治の文学」で読むことができるが、より大きな力を注いだ劇評はなかなか読めない。もっとも、歌舞伎にもその演目にも疎い私には馬の耳に念仏だろうが。

饗庭篁村のファンに英文学者の福原麟太郎がいる。一見妙な取り合わせだが、落語全集を枕頭の書にしていたと聞くと、それほど違和感はなくなる。

「饗庭篁村」という文章で、福原麟太郎は、篁村の小説はどれも「めでたしめでたし」で終わっていること、しかも勧善懲悪にしたがっているわけではなく、生き方に直接関わっていることを述べた上で、劇評についても触れている。

 劇評のごときもそうでありまして、ほとんどすべての劇評、それは今日と違って、みな長いもので、一座について、三回も四回もつづくというふうでありました、そして竹の屋主人と署名されたものでありましたが、そのほとんどすべての評の最後の一行は、めでたしめでたしであります。皮肉や苦言もたくさんありましたが、最後は何でもめでたいので、これは、ただ、面白半分に、いたずらに、または、意地になって、そう書いたというよりも、実際、人生は、めでたしめでたしであると、竹の屋主人自身が思っていたのであろうと思います。
「めでたしめでたし」の系譜を考えてみてもおもしろい。

2012年12月9日日曜日

幸田露伴と森鷗外の不仲

『辰野隆随想全集5 忘れ得ぬことども』は、学生時代の思い出やスポーツのことなどが中心の雑文集である。 なかに少しだけ幸田露伴と森鷗外のことが出てくる。両者は文壇にでたての頃は仲が良かったが、はっきりとはわからぬ理由から疎遠になった。辰野隆はその辺の経緯をこう推測している(「一杯きげんの昔話」)。  
 ところが森鷗外の背後には山県がいた、ということは、鷗外先生なかなかそこは如才ないので、山県のキンタマをしっかりつかんでいた。だから山県の景気がいいときと、それほどでないときによって、鷗外さんの地位が変わるんだ。山県に勢力があるときには東京におられる。山県がちょっと退くと小倉に左遷されるというようなことがあったわけだね。

 幸田露伴先生は、とにかく森鷗外先生が小倉くんだりまで行くということは文人の面汚しだと思っている。ここらでそろそろ禄を去って、鷗外ともあろうものは筆一本で立てるじゃないか。わざわざ小倉くんだりまで行きやがって・・・・・・といって軽蔑の念を抱いた。
本当か嘘かわからないが言えないことだ。