2016年2月29日月曜日

一月十三日

一月十三日

早くに畑村を立つ。道がますます険しい。槐、椎の木、猿滑りなどが巨石と混じり合って針の山になっている。道が凍り、その上に雪が降りしきる。権現坂を登ると湖に出る。関はますます険しく狭く、一人いれば万人を防ぐことができそうである。山中には城跡が見える。関を越えてしばらく行くと道はようやく平らになり、三島に着く。明神の祠がある。庭には数多くの鶏が放たれ、聞けば明神が愛するのだという。六反田、長沢を経て、黄瀬川にかかる。義経が頼朝と始めてあったとされるところである。薄暮どき、沼津を過ぎると、左に千本松原がある。東今戸を過ぎると右には愛鷹山に白雲がたなびいている。日が暮れて、原に宿す。

 伊藤整『日本文壇史1 開化期の人々』からの抜き書き。

露伴の少年時代

 明六社の社員の敬宇中村正直は「西国立志編」といふ西洋の立志伝の訳書を明治四年に出して、福沢の書物に次いで多くの読者を知識階級の間に得てゐた。中村正直は、この頃、本郷お茶の水に東京女子師範学校を創立する仕事を命ぜられ、創立後は「摂理」すなはち校長になつた。その女子師範は、「明六雑誌」の終刊号の出た明治八年の十一月に創立された。この女子師範学校が創立された時、関千代子といふ女性がこの学校の教師になつた。関千代子は、当時の著名な儒家、雪江関忠造の姉であり、学問も出来、人物も立派であつたので、中村正直に招かれたのである。この時、幕府の表方のお茶坊主といふ式部官のやうな仕事をしてゐた幸田成延といふ者の四男で、九歳になる幸田成行といふ少年が、この女子師範の附属小学校に入学した。成行は六歳の頃から漢学塾に行く外、この関千代子について習字を学んでゐたのだが、千代子が女子師範の教師になつて、その習字塾をやめたので、幸田家では千代子のすすめで成行を女子師範の附属小学校に入れたのである。

「小説神髄」の二人の読者

 当時、この新しい小説論を最も真剣に読み、且つその本質を理解したところの、二人のこれから出発しようとする若い作家があつた。その一人は幸田成行(しげゆき)であり、もう一人は長谷川辰之助である。


2016年2月27日土曜日

一月十二日

一月十二日

曇り。

朝早く大磯を発つ。慈福寺に虎子石がある。虎女は娼妓である。西行が歌った鴫立沢をへる。梅沢の藤巻寺を過ぎる。見事な藤が取り巻いている。松の向こうに海が見える。坂匂川を渡る。小田原を過ぎ、秀吉が一夜にして城を建てたところを過ぎ、道が険しくなる。早川橋を過ぎ湯本にいたる。早雲寺がある。畑村に泊まる。


スティーヴン・ポリアコフのPerfect Strangerを見る。イギリスBBCのドラマで、3部に分かれていて、合計約4時間。親戚がすべて集まるパーティーが催される。親戚づきあいのなかった主人公の一家は(夫婦と成人した息子)、特に息子は始めた会ったものばかりである。ところが、思いもかけなかった過去があらわになり、接点がないかに思われたもの同士が結びつく。といって、アメリカのドラマのように、「衝撃の」過去があらわになるわけではない。第二次世界大戦が関わる世代も含まれているが、それに関わる挿話もどちらかといえばファンタスティックなものだ。『国際夜行列車』の方がどちらかといえば好きだが、このドラマも実に良質である。どの事件も誰にでも起きうることで、それをこのようにドラマチックに仕上げるというのは、仕立てのいい服を着るときのように、実に心地がいい。

2016年2月25日木曜日

四月十一日

四月十一日

晴れ。

朝早く神奈川を発つ。左は鎌倉街道になる。岩間、郷戸を経て保土ケ谷に至る。戸塚を過ぎて藤沢に着く。藤沢山清浄光寺はいわゆる遊行寺である。相模川は源頼朝が馬から落ちたところ。平塚を過ぎ、大磯で泊まる。

志ん生の息子の金原亭馬生は『あくび指南』の枕で江戸には耳かきが職業としてあったといっていたが、実際にあったらしい。横になってされるものと思っていたが、残っている絵によると、たったまましている。

2016年2月24日水曜日

四月十日

四月十日

晴れ。

身体の調子が思わしくないが、予定通り旅に出る。仲間たちが品川まで送ってくれる。清風楼で別れを交わす。蒲田、生麦を過ぎ、六郷の渡しに至る。昔は橋があったが、いまはない。水源は多摩川である。川崎を過ぎ、松の間から海が見えるようになる。河田村の山頂にある浦賀観音が見えてくる。日が暮れかけているので、参詣はしない。

瓢箪の根付けをもっているが、瓢箪だけに転ばないという縁起担ぎからきたものらしい。


基礎研究は宙に矢を放つようなものだ、刺さったところに的を書き足す。

2016年2月23日火曜日

十二月二十三日

十二月二十三日

晴れ。

朝日が雪に燦然と反射する。隅田川に行って雪見をする。寒さが骨にしみ通り、身体には炭の蓄えがない。深川楼に行き、灯で顔が赤く照りかえる。

多くの人は冬を楽しむというが、実際にはそれに耐える感じを楽しんでいるのだ。

BBCのテレビドラマ『国際夜行列車』(1980年)を見る。多くのテレビドラマがそうであるように、監督であるピーター・デュフェルのものというよりは、脚本家のスティーヴン・ポリアコフの作品である。山田太一や向田邦子の名が先に出るようなものだ。
ヨーロッパを横断する列車に一人のイギリス人の男が乗り込む。まだ若い男である。列車内は人影がなく、同じ個室には若いアメリカ人の女性がいて、淡い期待を抱く。しかし、発車の時刻になると室内はいっぱいになる。ことにやっかいなのは頑固であくまでわがままを通そうとする老嬢の存在である。
図式的にいえば、老嬢は古いヨーロッパをあらわし、座席もなく通路をうろうろして騒いでいる不良少年たちがいまのヨーロッパを、中年にさしかかろうとするイギリス人がどちらにも属さず、両者のことを辛うじて理解することができる。

それにしても良質な脚本で、アメリカ女性との断絶も見事だし、イギリス人とウィーンに住む老嬢がある程度互いをわかりあったすえに、老嬢がある提案をするのだが、それに対する応対も安易に落とし込むことなく好感が持てる。

2016年2月22日月曜日

四月十七日

四月十七日

晴れ。

大墨亭で幻戯をみる。五色の幕で壇上を張り巡らし、芸人はその上にいる。白い紙を取りもみしだいて息を吹きかけると、数千の細かな紙片となって散乱する。また、紙で卵を作りそれを箱のなかに入れ、扇で打つと鶏が出てくる。また、卓上に升のような物を置き、昔、鎮守の将、源公頼、東北を征伐するとき、日照りが続き、軍中、水が乏しく、兵士たちが非常に苦しんだ。公頼これを憂い、八幡神に祈り、弓で岩を打つと、直ちに水がほとばしった。そんな意味のことを朗々と語り、升を扇子で叩くと、水が吹き上がった。

死んだ勘三郎が勘九郎だったころに上演した野田秀樹版『鼠小僧』を見る。野田秀樹と夢の遊民社は劇団の立ち上げのころから知っており、長い間食わず嫌いで、テレビの中継で一度見てますます嫌いになり、今回見てもやはり嫌いだった。鼠小僧や大岡越前を脱神話化しようとしているのだが、社会的な人物像は実際の人物とは異なるという驚くほど幼稚な話をけたたましく演じているだけのもの。

2016年2月20日土曜日

三月二十二日

雨。

さる金持ちは屋敷の他に、水晶とガラスで一楼をつくり、夏はそのなかに金魚を泳がしていた。

竹馬は古くからあるが、いまあるよう一本の竹に足場を付けて、乗るのではなく、枝葉を付けたままの竹を斜めにしてまたがる。ちょうど『魔女の宅急便』で箒に乗る魔女のように。竹馬の友の竹馬もそうしたもののこと。


ティム・バートンの『バットマン』『バットマン・リターンズ』を公開以来ひさしぶりに再見する。ノーランの方が監督としては好きだが、ゴッサムのゴシック趣味はティム・バートンの資質の方があっているように思う。

2016年2月19日金曜日

三月十六日

晴れ。

暁に乗じて隅田川に出て、三囲神社にいたる。霧が立ちこめ、いまだ開闢せぬ太古の世のようだ。

『源氏物語』は淫猥な物語で、君子が読むものではないといわれてきた。
ところが、栗原某がいうに、『源氏物語』は王室の頽廃を嘆き、志を暗に述べたものだという。宮廷の醜状を明らかにし、貴族が跋扈するところを目の当たりに見せるのが作者の腕の見せ所だという。築紫に大夫監がおり、権力が国主よりも大きいのは、大権が下に移ったのを憤っている。岩倉高僧が源氏の招きに応じないのは、当世の僧徒に芯がないことを謗っているのだという。

2016年2月17日水曜日

三月八日

晴れ。

筒井某は仕事ができて、文章もうまい。ある神を信じ、敬することが厚かった。ある人がその書斎のなかを見ると壁龕がある。秘かに開いてみると脱衣婆の像があった。

昼食をして歩いていると井の頭弁天に出る。御殿山に登り、玉川水道に出る。水源の方を眺めやると、紅白が映じ合い、錦の反物を広げたようである。

アランの『幸福論』からの書き抜き。

 恐怖

 多くの者が恐怖を、ことばでもってやっつけている。しかも強い論拠をもって。ところが、恐怖を感じている者はその理由など聞かないのだ。彼は心臓の鼓動と血液の波打つ音しか聞かない。もの知りぶる者は危険を感じるから恐怖が生まれるのだと言う。情念に囚われた者は恐怖を感じるから危険だと判断するのであると言う。二人とも自分の考えが正しいと主張するが、二人ともまちがっている。しかも、もの知りぶる者は二度もまちがいを犯している。ほんとうの理由を知らないのと、もう一方の誤りがわからないのである。人間は恐怖を感じると具体的な危険を考え出して、この恐怖がリアルなもので、十分確かめられたものだと説明する。ところが、どんな小さな驚きでさえも人をおびえさせる。まったく危険などないものでも。たとえば、非常に近くで不意にピストルの一発があった時、あるいは思いがけない人が現われただけでも。マッセナ元帥は暗い階段の彫像におびえて、一目散に逃げ出した。

 恐怖と悲劇

 シェークスピアの『マクベス』のなかに、城館に朝がきて門番が夜明けの光とツバメとを眺めているシーンがある。淡々とした風景で、さわやかさと清らかさのあふれている光景である。だがわれわれには、犯行がすでに行われてしまったことがわかっている。悲劇としての恐怖感はここで最高にたかまってくる。これと同じように、難船にまつわるあのさまざまな思い出においても、一つひとつの瞬間は次に起こったことがらによって照らされている。だから明かあかと照らし出されて、海面にどっしりと静かに浮かんでいたあの船の姿は、その時にはたのもしい姿だった。それがあの人たちの思い出や夢のなかでは、またぼくの描くイマージュのなかでは、次を待っている恐怖の瞬間となってしまう。今やこの悲劇は、事情を知り尽くしていて、一刻一刻断末魔の苦しみを味わっている見物人のために展開している。しかし、悲劇の進行そのものの中には、こんな見物人は存在しない。ふり返って考えてみることなどありえないのだ。見ている光景が変わると印象も変わってしまう。もっと正確にいえば、じっと見られている光景など存在しないのだ。ただ予期されない知覚、意味のわからない、脈絡のない知覚があるだけだ。とりわけ、思考を押し流してしまう行為があるだけだ。一瞬ごとに思考が難破している。イマージュが一つひとつ現われては消えて行く。なまの出来事が悲劇を葬り去ってしまった。死んで行った人たちは何かを感じるどころではなかった。

 あくび1

 犬が暖炉のそばであくびをしている。これは猟師たちに気がかりなことは明日にしなさいと言っているのだ。気取りもせずどんな礼儀もなしに、伸びをするあの生命力は、見ていてもすばらしいし、引き込まれ真似をしたくなる。周囲の人たちはみんな伸びをし、あくびをしたくなるはずだ。これが寝支度の開始となる。あくびは疲労のしるしではないのだ。あくびはむしろ、おなかに深々と空気を送り込むことによって、注意と論争に専念している精神に暇を出すことである。このような大変革(精神のはたらきをばっさり切ること)によって、自然(肉体)は自分が生きていることだけで満足して、考えることには倦き倦きしていることを知らせているのである。

あくび2

どうしてあくびが病気のようにうつるのかとふしぎに思っている人がいる。ぼくは、病気のようにうつるのはむしろ、事の重大性であり、緊張であり不安の色であると思う。あくびは反対に、生命の報復であり、いわば健康の回復のようなものである。あくびがうつるのは深刻な態度を放棄するからであり、何も気がかりがなくなったことを大げさに宣言するからのようだ。それは整列している人たちを解散させる合図のようなもので、だれもが待ち受けている合図なのだ。この気楽な気分が拒否されることはありえない。そこから、深刻な気分はふっ飛んで行く。 笑いとすすり泣きも、あくびと同じ種類の解決方であるが、あくびよりもひかえ目で、抑えられている。そこには二つの思考、すなわち拘束しようとするものと解放しようとするものとの間の戦いが現われている。これに対し、あくびをすると、拘束するものであれ解放するものであれ、いっさいの思考が逃げ出してしまう。生きることの気安さがいっさいの思考を消し去っている。これもやはり犬のあくびなのだ。だれでも見たことがあるように、思考がもとで病気となる、神経症と呼ばれるこの種の病気のなかで、あくびが出ることはつねによい徴候なのである。しかしぼくは、あくびはあくびが知らせている眠りと同じように、すべての病気に効能があると思う。それはわれわれの思考がいつも病気の中で大きな役割をはたしているしるしである。これは自分の舌を噛みながら味わう苦痛を考えるならば、それほど驚かないであろう。この表現(噛む)の比喩的な意味からよくわかるように、「悔恨」とうまく形容された後悔は、損傷にまで及ぶのである。反対に、あくびにはどんな危険もない。

 幸福


 幸福は自分の影のようにわれわれが追い求めても逃げて行くと人は言う。しかしたしかに、想像された幸福はけっして手に入れることができない。でも、つくり出す幸福というのは、想像されないもの、想像できないものなのだ。それは実質的なものでしかあり得ない。そのイマージュだけを描くことは出来ない。物書きのよく知るように、美しい主題などない。いや、ぼくはさらにこう言いたい。美しい主題には気をつけなければならない。眺めていないでそれにすぐに近付き取りかからねばならない。幻影をなくすために。それが希望などは棚に上げて、信念を持つことである。壊すこと、そしてつくり直すこと。おそらくその時、わかるであろう、小説とその小説の書かれる契機となったほんとうの冒険との間には驚くべき相違がつねにあることが。絵かきよ、モデルの微笑に気をよくして時を浪費することなかれ。


2016年2月16日火曜日

三月四日

曇り。

軒に烏より一回り大きな鳥が止まっている。名前がわからない。くちばしの形状から猛禽類ではないようだ。

浅草から本願寺に行く。風が暖かい。莟がほどけて爛漫になる感触。

歌舞伎にあっては、美人の美人たる所以は笑顔ではない憂い顔にあるという。現実との相違がその辺にある。

窪田が豚肉とネギをもってくる。塩を加えて煮る。

アドルノの『美の理論』から書き抜き。

文学の現実暴露

文学は後退して何一つ容赦することがない現実暴露の過程となり、詩的なものという概念はこの過程によって台無しにされた。ベケットの作品の抗い難い魅力を作り上げているのもその点にほかならない。

複製技術と芸術

洞窟の壁に動物の絵を描く手と、無数の場所に同時に無数の写しを出現させることができるカメラとのあいだには、明らかに質的飛躍がある。だが直接的に見られたものを客観化し洞窟に描くという行為のうちには、技術的処置に特有な可能性が、つまり見られたものを見るという主観的行為から解放する可能性がすでに含まれている。多数の人間を対象とした作品はどのような作品であれ、その理念からしてすでにその作品自体を再生産するものにほかならない。

醜い景観

市民意識は産業によって掘り返された景観を醜いものときめつけるが、こうした判断は素朴なものであるとしても、一つの関係を的確に捉えたものと言ってよい。つまり、自然が人間に、人間によって支配されていない顔を向けるところにおいて出現する、自然支配を捉えていると。掘り返された風景に対する憤激はそのため、支配のイデオロギーに順応することになる。もしいつか人間の自然に対する関係が、人間の抑圧を続けている抑圧的特性を持ちつづけることを断念することがあるなら、こうした醜さも消滅するかもしれないが、その逆はありえない。技術が平和的なものとなるなら、技術によって荒廃した醜い世界が消滅する可能性も生まれてくるかもしれないが、こうした世界のうちに計画的に自然保護地帯を作り上げたところで、そうした可能性が生まれることはない。

芸術の残酷さ

醜は芸術に敵対的なものであるが、芸術の概念を拡大して理想の概念を乗りこえさせる芸術の動因として、芸術に敵対する。芸術における醜は芸術の理想に奉仕するものにほかならない。だが醜は、つまり芸術における残酷さはたんなる描写ではない。芸術そのものの身振りにはニーチェも承知していたように、残酷なところがある。残酷さは形式を通じて想像力となる。つまり生あるものから何かを切り取り、言語の肉体、響き、目にすることができる経験から何かを切り取る。形式が純粋なものとなり、作品の自律性が高度なものとなればなるほど、作品はますます残酷になる。芸術作品の態度をより人間的なものとし、観客となるかもしれない人間に順応したものとするようにという呼びかけが行われているが、こうした呼びかけは通例、質をふやけたものとし、形式法則を軟弱なものに変える。

美と分析

すべての美は分析を加えることによって徐々に一貫して解明されて行くが、分析はこうした美を再び本能的なものとして分類することになるし、もし分析に本能的なものという契機が隠され内在することがないなら、こうした分析は何らの成果もあげることができないであろう。美を前にしての分析的反省は、美のアンチテーゼを通して持続的時間をふたたび確立する。分析は最終的に、完全なものであって自己を忘れ去った無意識的なものである知覚を前にするなら出現してくるような美にたどりつくことになる。分析はこうした美にたどりつくことによって、芸術作品が客観的に自己のうちで描く軌道を主観的に再度描くことになる。美的なものについての妥当な認識とは、緊張状態を作り出すことによって自己の内部に生じる客観的過程を過程そのものとして、自発的に完成させることに外ならない。美的態度を持つためにはその前提として、自然美に慣れ親しむ少年期が、つまり自然美のイデオロギー的局面に背を向け、自然美を人工物と関連させて救う少年期が必要なのかもしれない。

自然美とアレゴリー的意図

自然美は自らが解くことなしに示すアレゴリー的意図とともに、つまり意味ではあっても指示的な言語の場合とは異って、自己を対象化することがない意味とともに深まる。こうした意味はヘルダーリンの〈ハールトのはざま〉のように、徹頭徹尾歴史的本質を持つのかもしれない。木立にしてもそれが過去の出来事を示す、たとえいかに漠然としてものであろうと、しるしに思われるような場合、美として————他の木立よりも美しいものとして――区別される。一瞬のあいだ太古の獣に見えるが次の瞬間にはたちまちそれらしいところなど見当らなくなるような岩にしても、そう見えない他の岩より美しく思われる。ロマン主義的経験の次元に属してはいても、ロマン主義的哲学や思考を離れても通用するようなものは、こうした歴史的な点に根ざすものにほかならない。自然美においては自然的要素と歴史的要素とが、さながら音楽や万華鏡のように変化しながら絡み合っている。自然的要素は歴史的要素に取って代り、歴史的要素は自然的要素に取って代るが、自然美を生かしているのは二つの要素の明確は関連ではなく、変動にほかならない。

芸術と自然美

芸術作品をして芸術作品たらしめている即自存在とは、現実的なものの模倣ではなく、いまだまったく存在することがない即自存在の先取り、つまり未知のものであって、主観を通して規定されるものの先取りにほかならない。芸術作品は何かが即自的に存在していると語ることはあっても、その何かについて明確に語ることはない。芸術は事実最近の二十年間に精神化という事態に遭遇し、精神化することによって成熟したものとなったが、芸術は物象化した意識が主張したがるように、自然から疎外されたものではなく、それ自身の形態に従って自然美へと接近したものにほかならない。芸術理論によっては、芸術の主観化の傾向を主観的理性に従って進行しつつある科学の発展と単純に同一視する向きが見られるが、こうした理論はつじつまを合わせるために芸術の運動の内容をなおざりにしたものにすぎない。芸術は非人間的なものが語る言葉を、人間的手段によって現実かしようとする。

前衛と象徴

ほかならぬ急進的な芸術はリアリズムの欠陥に陥ることを拒む反面、象徴に対しても緊張した関係を持つ。新しい芸術における象徴、あるいは文章論的に言うなら隠喩は象徴機能から自律する傾向があり、こうした傾向を通して経験や経験の意味にとってアンチテーゼをなす領域を構成するために、それ本来の寄与を行っているということ、このことは証明することも不可能なことではない。象徴がもはや何ものも象徴することがないという事実を通して、芸術は象徴を利用する。前衛的芸術家たちによって行われた象徴主義批判は象徴特性そのものの批判であった。モダニズムの暗号と特性は徹頭徹尾絶対的なものと化した、自己自身を忘却した記号にほかならない。こうした記号が美的媒介手段へ侵入することと、こうした記号が意図に対して冷淡であることとは、同一のものが持つ異なる局面にすぎない。不協和音が作曲の〈材料〉へと移行したこともそれと同様に解釈されねばならない。こうした移行は文学的にはおそらく比較的早い時期に生じたものであって、イプセンからストリンドベルイという関係からもうかがえることであるが、晩年のイプセンのうちにすでにその準備の整えられているのが見てとれる。

力業としての芸術

芸術は経験から抜け出すものでありながら、形式というユートピアのうちでのしかかるその経験の重みに屈服する。さもなければ芸術の完全性は無に等しくなる。統合の前進は芸術作品が自ら要求せざるをえなかったものであるし、芸術の内容はこうした前進をつうじて直接的に存在するかのように思われているのであるが、芸術における仮象はこうした統合の前進と密接な関係がある。芸術が引きついでいる神学的遺産とは啓示を世俗化すること、つまりそれぞれの作品の理想と限界とを世俗化することにほかならない。芸術と啓示を混同することは、芸術にとって避けえないものである呪物特性を反省することなく理論を通して繰り返すことかもしれない。だが芸術からの啓示の痕跡を根絶するなら、それは存在するものを無差別に繰り返すにすぎないものへと、芸術をして引き下げることに等しいと言えよう。意味連関、つまり統一は存在しないものであるため、芸術作品によって準備されるが、即自存在はそのために準備が行われているにもかかわらず、準備されたものにすぎないために否定される。この場合否定されるのは結局のところ芸術そのものにほからない。どのような人工物も自己に逆らう。力業として、つまり綱渡り的行為として構想された作品は、全芸術を超える何かを白日のもとにさらけ出している。つまり作品は不可能を現実化するものにほかならない。どのような芸術作品も現実化し得ないところを持つが、それによってごく単純な芸術も実際上、力業として規定されることになる。

力業としての芸術を上演すること バッハ

芸術作品の上演は力業を芸術作品のうちに発見し、それによって不可能なものの可能性が隠されている零点を見出さなければならない。作品は二律背反的なものであるため、作品に完全に適合した上演といったものは実際上はありえないが、どのような上演も矛盾する契機を抑圧しなければならないのかもしれない。上演がこうした抑圧を伴うことなしに、力業に力点を置いた葛藤の舞台となっているかどうかという点が、演出の善し悪しを見分ける最上の基準であると言ってよい。力業として計画された作品は仮象であるが、それはこれらの作品が本質的になりえないものとして振舞わざるをえないためにほかならない。これらの作品は自らにとって不可能なことを強調することによって自己を訂正する。偏狭な内面性の美学によって禁止されている芸術における名人芸的要素が正当化されるのは、この点による。とりわけ真正な芸術作品を例にとるなら、これらの作品が力業を、つまりその作品が現実化しえないものを現実化しているものであることが証明されるかもしれない。バッハは通俗的で内面的人間たちによってその同類に仕立てられているが、彼は両立しえないものを両立させる名人であった。彼によって作曲された作品は、和声的で通奏低音的な考えと多声的な考えとを総合したものにほかならなかった。彼の曲は和音の展開の論理に一貫して適合しているが、だが声部誘導の純粋な結果であるこの展開からは、この展開につきものの伸しかかるような異質の重みは取り除かれている。バッハの作品に独特の漂うような感じを与えているのは、この点にほかならない。

ベケットと理性

ベケットの芸術は表面的な合理性から堅く身を守り、こうした合理性から切り離された芸術であるが、彼の芸術はいかなる瞬間においても事柄に内在する理性によって貫かれている。だがこうした理性を持つことはけっしてモダニズムの特権ではなく、それはたとえば晩年のベートーベンが行っている省略からも、つまり余計なものであり、その限りにおいて非合理的なものでもある付加物を彼が断念しているところから、同様に読み取ることができる。逆に粗悪な芸術作品などは、なかんずくぎくしゃくした音楽などは内在的な愚かさによって貫かれているが、モダニズムがその掲げる成熟の理想を通してとりわけ非難し反撥したものは、こうした愚かしさにほかならなかった。芸術作品はミメーシス,模倣であって構造でもあるというアポリア,難問によって、過激な態度に慎重さを結びつけることを、それもつけ足り的に考えられ偽物にすぎないような補助的仮説を用いることなく結びつけることを、強制されている。

台本や楽譜とその上演

演劇の台本あるいは音楽のテキストはただ単にそのようにして眺めるべきものであって、俳優あるいは演奏者に対する指示の総体として眺めるべきものではない。これらのものはいわば作品による作品自身の模倣行為の凝固したものであり、こうした模倣はたとえ意味的な要素によってつねに浸透されたものであろうと、作品自身を模倣している限りにおいて本質的なものなのだ。作品が上演されるかどうかということは、作品そのものにとってはどうでもよいことと言ってよい。だが作品についての経験が、つまり理想からするなら沈黙した内在的なものである経験が作品を模倣するということ、このことは作品にとってどうでもよいことではない。こうした模倣は芸術作品の記号から芸術作品の意味連関を読み取り、芸術作品が自己を出現させる曲線をたどるようにその連関のあとをたどる。芸術作品の異るさまざまな媒体はその模倣の法則としてそれらの統一を、つまり芸術の統一を見出す。カントにおいては、論証的認識は事物の内部について認識することは断念すべきものとされているが、芸術作品は客体、つまりその真実は内部の真実として表象する以外には表象しえない客体と見なされている。模倣はこうした内部へと導く通路にほかならない。

芸術と意味 モンタージュ

極端なところまで首尾一貫性を貫くなら、それがどのような一貫性であれ、それがたとえ不条理と呼ばれるものであろうと、意味に類似した何かにたどりつくということ、この事実は真に芸術の謎の一つであって、芸術の論理的な力を証明するものにほかならない。しかしそのことは意味に類するものが形而上学的な実体であることを、つまり仕上げられた作品ならどのような作品であろうと手に入れると言われているような、形而上学的な実体であることを証明しているのではなく、むしろそれが仮象特性にすぎないことを証明しているにすぎない。芸術は結局のところ、意味を欠くものの真只中に置いて意味を暗示し、そうすることを免れえないということを通して仮象となる。しかし意味を否定する芸術作品は、統一されたものでありながら混乱しているといった作品でなければならない。これがモンタージュの機能であって、モンタージュは統一を形式原理として繰り返し作り上げるが、それと同時に部分を乖離したまま出現させることによって統一を否定する。




2016年2月15日月曜日

三月二日

晴れ。

唐菜をさっとゆで、塩を振って食べる。淡泊でうまい。

桜田門、和倉門、鍛橋門を過ぎ、霊巌橋、永代橋を渡り、右に曲がると、左右はみな娼家である。衣裳は派手だが、面貌はいかんともし難い。冷やかすまでもなく州崎に至ると、潮が引いていて、蛤を拾おうとする子供連れが虫が湧いたように集まっている。

先頃死んだ中村勘三郎がまだ勘九郎だったときの『一本刀土俵入』をみる。落語の『芝浜』『文七元結』も歌舞伎への脚色がされているが、よく意義がわからない。 落語の方がずっと洗練されているからだ。同じように、長谷川伸のこの作品も、たとえば新派などで公演した方がずっといいように思う。女形を使って演じられると、虚構の水位が原作と明らかに違っているように思える。ちなみに、桂三木助の同題の落語は、噺のなかで芝居の筋をすべて語ってしまうという妙なものだが、歌舞伎でみるよりはずっといい。

2016年2月14日日曜日

二月二十九日

晴れ。

小倉とともに平河天満宮に行く。麹町三丁目の南、平河町にある。別当は天台宗で、長松山龍眼寺と号す。東叡山に属す。越後に菅原道真の像があり、存命中職人に任せてつくらせたという。それが平河天神に移され、開帳されている。様々な屋台が出て、祭りのようである。

馬琴の『八犬伝』を読まなくてはと思う。子供のころ、『新八犬伝』という人形劇が好きだった。八つの玉以外にみそかの玉という邪悪な玉が出てきた。馬琴は説教臭いのが難点だが、鶴屋南北とともにもっとも魅力的に悪を描きだした人物だろう。


ローエル・ユートハウグ『コールドプレイ』(2006年)を見る。ノルウェーの映画。スノー・スポーツを楽しむために雪山に入った五人(男三、女二)は、一人が怪我を負ったために、近くの山荘に避難する。そこで例の如く何ものかに襲われていく。ただ珍しいことに、殺されてはいくのだが、具体的なグロテスク表現はほとんどない。上品な?ホラー映画である。

2016年2月13日土曜日

二月十五日

大風。

浅草寺で木製の人形を陳列してある。外国人もあれば、日本人もあり、武士の姿をしたもの、婦人、背の曲がった老人、毛髪や爪、髭にいたるまで細かく再現している。


ダヴィド・モロー、ザビエ・パリュ『THEM』(2006年)を見る。フランスとルーマニアの合作。実話をもとにしている。屋敷で、恋人二人が襲われ、殺される。シチュエーションとしてはホラーだが、特にぞっとするわけではなく、犯人の意外さに力点が置かれている。

2016年2月12日金曜日

二月三日

晴れ。

完全な人間など存在しない、政治家だって人間なのだから、多少の倫理的、道徳的瑕疵には目をつむらないと、と友人はいう。
反対である。リアル・ポリティクスだの現実などを盾に、臆面もない糞リアリズムに逃げ込むのをいつ果てることもなく見せられるのはまっぴらである。
丸山眞男は荻生徂徠をそれまでの儒教的な世界観を根本的に覆すものとして評価した。
特に朱子以来の儒教では、倫理道徳もひっくるめた自然が世界を構成している。それゆえ、聖人は自然の理を体現したものとして理想化される。世界の様々な物には理があり、理は世界の調和と一致し、聖人、そして神話的な聖人=君主は、世界を調和をもってまとめ上げる。
しかし、歴史には戦争が絶えず、不調和が支配し、自然の一部であるような聖人の君主は現われていない。かくして、聖人は神話的な存在であり、歴史の、時間の外に置かれる。
一方、徂徠は聖人はあくまで歴史的人物だと主張する。聖人の世というのは、我々と異ならない人間が、人為的につくりあげたものだ。それは自然という調和の一部などではない。人工的で意志的な構築物なのだ。
政治家はすべからく聖人を目指すべきである。そのとき始めて現実が見えてくるだろう、.

パトリック・シヴェルセン『NAKED ブービートラップ』(2008年)をみる。ノルウェー映画。マンハントという英題がぴったり。邦題は意味不明。森のなかで、狩りの獲物となる話。殺せるはずなのに殺さなかったり、ルールがよくわからない。改めて『クライモリ』はよくできていたと思う。

西洋餅をもらう。飲み込まずに嚙んでいると甘みが口のなかに広がる。

2016年2月11日木曜日

二月二日

朝、雨、昼から晴れる。

薬研坂に銃の製造に優れた者があるという。薬研坂は赤坂にある。

佐倉飴をもらう。

最近どこかで佐倉のことを聞いたと思っていたら、『弱虫ペダル』の舞台が佐倉だった。原作は読んでおらず、アニメだけ見た。伏見京都の怪物が登場してから、『アストロ球団』のような超人的スポーツマンガになってきた。

ブラッド・ヘルミンク、ジョン・ラウシェンバッハのThe Lodgeを見る。山荘に泊まりに行ったら、その主人が殺人鬼だったという新鮮味のないもの。しかも80分ほどの(時間だけは期待させる時間だ)長さのほぼ中盤になってようやく正体がわかる。襲う側も襲われる側も自分たちがホラー映画に出ているという自覚がまったくない。


二月に入って暖かく、梅が咲く。 

2016年2月10日水曜日

二月一日

四谷で手袋を買う。手足が火照るのでつけない。

『開口新話』、詳細はわからず。

正月、『鋼の錬金術師』をぶっ続けで見る。一国大の魔方陣を描き、全住民を生け贄として賢者の石を得ようとする者たちとの戦い。これだけ壮大で、血なまぐさい戦いを敵の命を奪わないという「きれいごと」で説得力をもって描きだしたのは見事。

『ウォーキング・デッド』は第2シーズンの途中でやめていた。そこまでしかつくられていなかったからだ。忘れていた頃に第5シーズンまで見られるようになっている。刑務所に立てこもり、疑似ユートピア的な街を作りあげている者との戦いになるまでは面白い。うざったい主人公の妻が死んだのもすっきりしたが、その後人間ドラマの繰り返しになり興味が減速する。第5シーズンの途中でやめてしまった。

エリック・ハートのThe Wrong Houseをみる。日本では公開も、DVDの発売もされていない様子。ある田舎の家に二つの家族がたどり着く。しゃべることのできない娘がいるだけで人が住んでいる様子はない。そして、この二つの家族はこの家から離れられなくなる。文字通り離れられないので、車で出ても同じところに舞い戻ってしまうのだ。しかし食事は与えられ、毎朝同じ家のセールスの声が鳴り響く。『CUBE』や『ソウ』のようなシチュエーション・スリラーかと思えるが、登場人物には知らされないルールがあるわけでもない。ただ隠されていた家族の秘密があらわになっていく。次々に人が殺されていくわけではないので、地味だがまあまあ。


清水宏の映画『有りがたうさん』の原作が川端康成であることなどすっかり忘れていた。『掌の小説』の「有難う」という4ページの掌編だった。 ちなみにこの原作では、桑野道子のあだっぽい姿は登場しない。