2017年10月21日土曜日

イメージと技術--ヴェンダース『666号室』(1982年)

 ドゴール空港へ通じるハイウェイの傍らに、樹齢百五十年を経た樹木が立っている。『666号室』はこの樹木を捉えたショットから始まる。ちょうど盆栽の松のような形をしているが、樹木にそれ以上カメラが寄ることはないので、正確なところはわからない。空港に通じる道の傍らにあることから、パリへ来たのだという印象を与えるものだと語られる。後にもう一度この樹木が現われるが、それはこのドキュメンタリーに登場する、友人でもあったライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが同じ年、37歳の若さで死んでしまったことへの追悼の意が込められているのだろう。

 この映画はカンヌ映画祭に集まった映画監督たちに、映画の未来について問いを投げかけることで成り立っている。登場するのは、ヴェンダースを含めて十七人の監督だが、私がその映画を見たことがある監督だけをあげれば、ゴダール、ポール・モリセイ、モンテ・ヘルマン、ファスビンダー、ヘルツォーク、ロバート・クレイマー、スティーブン・スピルバーグ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ユズマス・ギュネイなどである。それぞれの監督がホテルの一室に入り、十分間の時間を与えられる。カメラは置きっ放し、部屋には誰も残っていない。画面中央に椅子があり、その右手後方にテレビが流しっぱなしになり、左手には小さなテーブルに録音テープが置かれ、出演者が自分で始まりと終りを決める。

 映画の未来について問うということには、ある種の危機感があり、それは映画のテーマであったものが、テレビに乗っ取られていることからきている。さらに即時性についてはテレビの方に分がある。80年代にはビデオも普及し始め、映画をテレビの画面で見ることが容易になった。考えてみれば当然のことなのだが、改めてはっとしたのはテレビより映画の方がずっと長い歴史をもっていることである。ほとんどテレビを見ることがなく、パソコンの画面で映画を見ることの方が多いためにちょっとしたアナクロニズムに陥っていたのだが、私などは白黒テレビをぎりぎり経験した最後の世代になるのかもしれない。幼いころには既に家の中心となるテレビは、カラーテレビになっていたと思うのだが、十代のなかばくらいまで、自室に白黒テレビがあったはずだから、特に白黒の画面に違和感なく育った。しかし、もはやテレビが生活の中心になることはなく、要するにモニターさえあればいい。

 いわゆる放送局がCMを流しつつ、放映するテレビはもはや映画の危機感を喚起するほどの力はないが、ネット配信による放送のことを考えると、映画の危機はいまでも、というよりかつてないほど高まっているのかもしれない。Netflixやアマゾンによって独自に制作される作品は、漠然としたものとしてあった映画とテレビの主題の違い、放送コードや予算の相違によって自ずから生じる棲み分けを無効にしてしまった。その一方撮影機器が格段に進歩したことによって、編集ソフトを用いることによって、一人でも映画が撮れるようになった。アメリカの大作はコミックの映画化によって、限りなく連続ドラマに近くなり、ネット配信にはデヴィッド・フィンチャーやウディ・アレンのような映画人も参加している。数多くのドラマを見ることができ、一日一本見たところで、追いつかないほどの映画が定額で配信されているが、そこにはヨーロッパ映画や中東や日本を除くアジアの映画はほとんど含まれていない。楽しいことは楽しいのだが、ブロイラーのように餌を無理矢理食べさせられているようにも感じるのも確かなのだ。


 この映画に出演している監督たちも、僅かな時間でこんな大きな問題に答えられるはずもないが、ゴダールが映画やテレビというよりイメージのことを考えていること、アントニオーニがビデオであろうがなんであろうが、新しい技術を取り入れるつもりだといっていることが印象に残った。ドゥルーズはホークスやヒッチコックなどハリウッドによって洗練された映画を運動―イメージと捉え、ネオ・リアリスモやヌーヴェルバーグによって開拓された新たなイメージのあり方を時間―イメージとして描きだしたが、新たなイメージもあり方が存在しうるかがおそらくは問題なのだろう。

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