どうした一連の文学的ノートでもっと大きな問題を扱わずに、文学的ノートに関する文学的ノートのようなもので始めたのだろうか。この問題には多くの楽しい考察や心理学的なものが含まれている。歴史もあり、奇妙でおかしなこともある。一言で言えば、文学ノートとして知られる文学の特殊な形には最適な主題である。
行動的な人間は、金儲けや戦争をしたり、他人に害を及ぼしたりするが、哲学者は純粋な抽象に携わり、我々文学者の頭を占めているのは、些細な見当違いのものとなろう。金をもたらすわけでもなく、永遠なる真理の新しい要素をあらわにするわけでもない。それでは文学の無駄話になんの良いところがあるのだろうか。金を生みだすものと心理を探るものとが予期せぬ共同して、我々の方を向き脅迫めいた態度でなんの良いところがあるんだと問いかけてきたらどうだろうか。
実際、何があろう。適切な道徳的、合理的正当化を与えるのが困難な仕事はほかにも数多くある。しかし、文学的ゴシップは少なくとも正当化があって、高尚なものではないにしろ、心を占め、楽しませることで満足する。心を占めること、忙しいという心地よい感覚は――それは常に我々が求めているのものであって、それというのも倦怠がつきまとって離れない恐怖だからだ。少なくとも、我々は退屈するという不安を免れねばならず、余暇を満たすものをなにかで埋めなければならない。しかし同時に、我々には自らに飽き飽きする意図はない。秘かで無気力な自己保存は、合理的で些細な拘束のなかに熱意を閉じ込めてしまうが、必然的に精神的な冒険へも向かう。かくして、我々は余暇に高度な数学や哲学の本を読みふけるに違いない。宇宙の問題を解決しようとすることで頭はいっぱいになる。しかし、ああ!抽象的に考えるようとすることの苦悶、長く連続して精神を集中しておくことの苦痛よ!怠惰を戒めていたものが、ほどほどに緩和するように促される。そして、最終的に、我々は切手を収集したり、愛書家になったり、古いものを探したり、文学に好奇心を抱くようになる。ここで我々は退屈に対する解毒剤を見いだし、疲れもなしに忙しさだけを感じる。
好奇心をそそる文学的情報に埋まることほど楽しく、興奮することがあるだろうか。余暇と、おいしく味わう好みと、そこそこに働く記憶が必要とされるすべてである。思考や集中はまったく必要ない。そしてさらなる満足がある。我々の読書は単なる楽しみではなく、教育的なものでもある。なにかを学んでいるのだと都合よく思い込み、激しい仕事をして研究にのめり込んでいるつもりでいる。『文学の楽しみ』の『憂鬱の解剖』についてやサー・E・T・クックの『文学的気晴らし』などは確かにそうである。仕事と学ぶこと・・・ロード・パルマーソンの古典からの唯一の引用を、女性と仮定されるアキレスという名の者が、もっとも平坦な英語で、数多くの楽しい、不必要な事実を書いたことを知っている。
いつの時代にも、切手収集の精神的等価物は文化の主要な部分としてあった。バートンのすばらしい天才がボルドー図書館を不滅の本に入れかえていたとき、すばらしい叙事詩を書けたものはいなかったが、世界が賛辞を送った奇妙で曖昧模糊とした文学的ノートを書いた学者はいた。サルマシウスがもっとも偉大な天才という評判を受けていたとき、彼はオロシウスの注釈を書いていたが、それは書くと言うことが発明されて以来のあらゆる作家たちの馬鹿げた情報からできたものだった。離婚についての二、三の小冊子しか書かず、無難な黄金期ラテン語の引用を少々行なっただけのミルトンについては僅かなノートしか残されておらず、生意気な学生として捉えられている。文学に心を転じたものには幸福な時代だった。過去の本の骨董品を好んで集めるだけで、科学と哲学の立派な評判を得ることができた。それらの主題が考慮に値しない惨めなものになると、文学者は素直に文学だけを扱いそれ以外のものに関わらなくなった。他の人間に困難で実りの少ない抽象的に考えることを任せるようになった。我々の仕事と喜びは、ポンス従姉妹のように、豊富で小さな心の博物館をブラブラし、傑作を面白半分にあるいは敬意を込めて注釈しながら、古い逸話を磨きあげ、無数の小事実を棚に収めている。もし我々が蒐集家の役割を勤勉に辛抱強く行なうなら、最後には学者という評価を得ることになろう。喜ばしく、尊敬に値する評判ではなかろうか!同じ評価に達するためには、科学者なら我々が決してしなくてすむような汗と苦悶が必要となるだろう。
文学的好奇心の真の味わい手となるためには、あらゆる人間的事象の歴史にひそむ奇妙なことどもの穏やかな香りを嗅ぎとることのできる鼻と味覚がなければならない。さらに、事実そのものに対する敬意がなければならない。「ここでネルソンは倒れた」「エリザベス女王この寝台で寝ていた」こうした記述に冷淡であり、理論を支持するため、あるいは拒絶する限りにおいて事実に興味をもつつむじ曲がりの人間はよい文学者になることは決してないだろう。馬鹿げた、些細な、無用な事実であればあるほど、心を配り大事にするべきなのだ。そうしたもののために、もっともよく選択されるのが文学ノートである。
事実そのもの、具体的で確固とした小さな事実はいかなる可能性を考えても理論的な目的には役立つことはない――ペンはどのようにしてその魅力を描き説明するか?次のような文章を読んだときの文学的心に窺われる風変わりな心情を誰が分析できようか?
「1676年か5年ごろ、ニューゲート通りを歩いていると(語り手は楽しい思い出を語るジョン・オーブリーである)「ゴールデン・ブラスの露店の、細工師の店でヴェネチア・ダーヴィの半像があるのを見つけた。私は完璧にそれをおぼえているが、それは火災(ヴェネチアの「豪華で荘厳な建造物」を破壊した大火災で、半身像はその燃え残りだった)から引きだされたものだが、私以外には気づくものもなく、それ以後通りで見かけることもなくなった。それは溶かされてしまった。そうした好奇心は失われ、こんなことを書く暇な人間もいなくなってしまうだろう!」
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