2014年2月28日金曜日

幸堂得知の一句

 「鬣」第31号に掲載された。

散る花の中にも一本さくらかな    幸堂得知


                        
 幸堂得知は万延元年(1860年)江戸下谷車坂町に生まれ、大正二年(1913年)根岸に没している。劇評家として活躍した人で、江戸芝居についてもっとも詳しい人物の一人として知られていた。饗庭篁村、森田思軒、須藤南翠、幸田露伴らが参加した「根岸派」と呼ばれるグループの最年長だった。饗庭篁村のほぼ一回り、幸田露伴のほぼ二回り年長である。根岸派は文学者の集まりではあったが、尾崎紅葉の硯友社のように文学的運動を組織するわけではなかった。「彼等を一党一派と団結させたのは、文学上の主張でも主義でもない、むしろ酒であった。詩酒徴遂の遊楽であつた。彼等は文壇の覇権を心配する大友の黒主の寄合ひではなしに、世俗を白眼視する清談の酒徒のまどひであつたのである」と柳田泉は書いている(『幸田露伴』)。

 幸堂得知の文章をまとめて読んだことはない。根岸派の行事に二日旅行と称するものがあった。一泊二日の旅の間、御前と三太夫を決め、御前の命ずる無理難題を会計を預かる三太夫が機転を利かして取りさばき、客人たち(つまり、御前と三太夫以外の者たち)を満足させるという遊びだ。彼らが群馬県松井田に旅したときのことが、その参加者がリレー式に道中の様子を語った『草鞋記程』にあらわれている。同じく、墨堤を一日歩く遊覧の記事が『足ならし』としてまとめられており、この二編にある短い文章でしか幸堂得知のことは知らない。今回あげた句も露伴の「得知子の俳句」(明治三十年)という五行ばかりのごく短い文章で知ったもので、得知の句が何らかの形でまとめられているのかどうかさえわたしにはわからなかった。『草鞋記程』には「煙たつ浅間も白し冬隣」「月と寐たむかし語りや枯芒」の二句があり、また、新潮社の『日本文学大辞典』によると、齋藤緑雨が「幾ら食ふものか捨てゝおけ雀の子」という得知の句を「太つ腹な句だと褒めた」とあって、これがわたしの知る得知の句のすべてである。

 露伴の文章には、得知が「先代夜雪庵門下の逸才にして、句ぶりおのづから一家をなせり」とあるが、この夜雪庵とは明治二十年代まで生きた四世ではなく三世のことなのだろうか。夜雪庵の句も捜してみたのだが、わたしの手持ちの本ではまるっきり歯が立たない。露伴はこの句を直接本人から聞いたらしく、「其後、人の花の句得たりなどいふごとに、耳を傾けて聞けど、これに勝りたりと予が思ふ句をば今に得ぬなり。めでたき句なるかな」と簡潔に評しているが、期せずして緑雨の評言と符節を合わせていると言えよう。これほど短い詩形にもかかわらず、文の柄が(人柄とは言うまい)あらわれるのが俳句の不思議なところである。結局わたしが俳句に求めるのはこうしためでたさが自然ににじみでるような柄の大きさでしかないのである。

2014年2月27日木曜日

幸田露伴『七部集評釈』12

影法の暁寒く火を焚きて     芭蕉

 影法はいまでいう影法師で、略語ではない。何々坊というのはすべて人に擬していう言葉で、しわい(しみったれ)なのをしわん坊、けちなのをけちん坊、取られるものを取られん坊、取るものを取りん坊または取ろ坊、かたゐ(乞食)をかったゐ坊というのと同様である。 法は当て字で坊と同じで、影法は影坊であり、影法師の師の文字は添えることで生じたもので、孤独の「独り坊」を「ひとりぼっち」というときの「ち」のようなものである。貞享、元禄のころは、影法とも影法師とも言ったもので、いまのあり方で昔を疑ってはいけない。

 一句は葬儀の場に籠もった人が悲嘆で身も細るほどの暁に、衣服も薄く胸が氷りそうな夜明けのあり様をあらわして、すさまじく哀れな様子をよく言い取っている。旧註で、墓守の翁だというのはよくない、なき主に忠義の厚いものか、母親に孝行の思いが中々去らない子供であろう。前句とのかかりはいわなくとも理解すべきである。「消えぬ」という語に縁を引いて影法といったなどというのは間違いである。情景を描いて情があり、情を述べて景色があり、影法は明けようとする空に薄れて、卒塔婆は夜が遠くなっていくうちに白々と浮かびあがる、嘘寒く凍りつきそうな状況を見てとるべきである。肌を粟立たしめる一句であり、連句としては涙を誘う。詩は解釈するのではなく味わわねばならない。非人であるという旧解はとりがたい。

2014年2月26日水曜日

究境頂と銀幕少年王――ノート7

 『鬣』第31号に掲載された。

 かくして、第三エロチカの公演によって状況劇場以外の劇団への門が開かれたわけだが、第三エロチカは状況劇場のようにわたしの鍾愛する劇団にはならなかった。というのも、『新宿八犬伝』第一部第二部は文句なしに面白かったが、それ以降の『ニッポン・ウォーズ』や『ラスト・フランケン
シュタイン』などはなにか歯車が噛み合わない感じで、結局その後を追いかけるのをやめてしまったからである。もっとも後で述べるように、深浦加奈子との縁がこれで切れたわけではなかった(第三エロチカでいえば、もう一人、香取早月が贔屓だった。狐のような顔をしたボーイッシュな女優で、迫力のある表情で言いたいことだけ言ってしまうと、舞台の脇で膝をかかえて座っているような役柄が多かったように思う。その姿には、なにか、衆人環視のなかでの寂寥感のようなものが漂っていた)。

 この集中的に芝居に通った時期に心底熱狂した劇団は別にあった。一つは山川三太主宰の究境頂である。金閣寺の三層を究境頂と言うが、特に関係はないようだ。まったく知らなかったこの劇団を見にいったのは、チラシに山川三太と種村季弘との対談が載っていたからだった。本来、究境頂は状況劇場と同じくテント芝居だったが、わたしはテントでの公演は一度しか見ていない。とい
うのも、この劇団はまもなく解散してしまったからである。結局わたしが見たのは、テント、高円寺のスタジオでの二回にとどまる(究境頂のヒロイン鳳九が、他の二つの劇団の女優と集まって行なった三人芝居を加えると三回になるが)。テントで見たのは『空飛ぶ鍛冶屋』という芝居で、場所はよくおぼえていないが、なんでも駅から相当歩いたような気がする。周辺には何もないのっぱらのような場所に銀色のテントが立っていた。花園神社のような喧噪と隣り合わせの場所ではなかったから、朧気になった記憶で思い返してみると、夢のなかの出来事か、水木しげるの漫画にでも入り込んでいたかのような気分になる。芝居の内容もまた朧気だが、安部公房の『友達』のように、見知らぬ他人がずかずかと家庭のなかに入り込むところから始まったと思う。それがどういう具合にか、錬金術的な創世の神話に結びつくのだ。ヒロインの鳳九がまた魅力的で、女性にこんな形容もないものだが、貫禄のある偉丈夫さながらだった。イタリアの女優、ソフィア・ローレンやクラウディア・カルディナーレを思い起こして貰えばいいだろうか。創世の神話といっても、決して堅苦しい難解な芝居ではなく、芝居を見てこのときほど笑ったことはなかった。このことは実は大変なことで、それというのも、この公演、観客が十人ほどしかいなかったからだ(やはり辺鄙な場所が障害となっていたのだろう――都内であったのは確かなのだが)。役者と観客が互いを意識せざるを得ないこのような状況で笑いが絶えないというのは、満員の劇場をわきかえらせるのより、より容易なことだとは言えまい。二回の公演しか見られなかったことが思い出を美化しているかもしれないが、とにかく究境頂は状況劇場以後始めてのぼせ上がった劇団だったのである。

 しかし、究境頂は、テント芝居であること、卑俗な現実が創世の神話と結びつく展開など、第三エロチカと同じく、多かれ少なかれ状況劇場からの流れにあった劇団だった。当時熱狂したもう一つの劇団こそ、状況劇場的な作劇を相対化する視点をわたしに与えてくれた。そして、これ以後、この劇団の与えてくれた方向にわたしの好みも移っていく。それが内田栄一が主宰する銀幕少年王である。内田栄一でもっともよく知られているのは、脚本家としての彼であろう。藤田敏八の『バージンブルース』『妹』『スローなブギにしてくれ』『海燕ジョーの奇跡』、若松孝二の『水のないプール』『スクラップストーリー ある愛の物語』、神代辰巳の『赤い帽子の女』、根岸吉太郎の『永遠の1/2』などが彼の脚本(及び共同脚本)である。もともとは「新日本文学」に入会し、小説家として出発したらしい。安部公房のもとにいたということをどこかで本人が書いていたのを読んだ記憶がある。わたしが読んだ小説は(題名は忘れてしまったが)、なんでも中年の男がナンパした少女と部屋のなかでごろごろしている、といった感じのものだった。藤田敏八の映画を思わせるもので、当時わたしが内田栄一についてもっていた印象は、軟派な硬派というものだった。とりわけ硬派の部分が突出しているのが劇団主宰者としての内田栄一だった。1967年の公演『ゴキブリの作り方』は花田清輝に激賞されたというが、その後コンスタントに演劇に関わっていたのかどうかわたしは知らない。

 銀幕少年王の芝居がどのようなものであったか伝えるのは難しい。まず、状況劇場のように、かけがえのない役者の存在を前提に成立するような芝居ではなかった。役者は公演ごとに代わっていった。池袋の文芸座ル・ピリエでの公演では田口トモロヲが出演していて、さしたる必然性もなしに服を脱いで、腰蓑の間から性器が見え隠れしていたのをおぼえているが、それは当時彼がボー
カルをしていたパンクバンドばちかぶりを聞いていたから記憶に残っているに過ぎない。舞台装置も大げさなものはほとんどなかった。ある意味象徴的なことだと思うが、あれほど熱狂していたというのにわたしは一つも公演名が思い出せないのだ。基本的なパターンは決まっていて、短いスケッチ風の芝居と、さあなんと言ったらいいか、リズミックな音楽にのせてなされるごく単純な動作の持続が交互に繰り返されるのである。たとえばその場で駆け足をしながら、隊列をなして、その編成を変えていく、といった誰にでもできる動作で、ここにも役者の特異性をあてにしない姿勢が一貫している。後で触れることになるかと思うが、関西の劇団維新派の芝居に近いと言えるかもしれない。維新派の主催者である松本雄吉も経歴が長いから、あるいはどこかで擦れ違って影響を与えあったというようなことがあるかもしれないが、よくわからない。しかし、維新派は巨大な舞台装置を組み立てることが芝居の一環となっており、その点では両劇団は正反対である。内田栄一には『生理空間』という身体論であり、演劇論でもある著作があるが、まさしく彼の芝居は単純な動作の持続によって人間が無名の生理へと還元されていくのである。

 あり得る誤解を避けるために言っておけば、銀幕少年王の芝居は、モダン・アートに特有なコンセプチュアルなものではなかった。後に、絶対演劇宣言と題してまさにコンセプチュアルな演劇ばかりを集めた催しがあったが、箱を右から左へ移すような単純な行為の繰り返し自体は両者に共通するが、こうした演劇にはまったく劇的興奮をおぼえなかった。内田栄一の芝居が人間がなにか訳のわからぬものに変貌するさまを見せてくれるのに対し(キューブリックの『フルメタル・ジャケット』の前半部分、新兵に対するしごきの場面で、汚い言葉に乗せて繰り返されるランニングが若者を何ものかに変貌させるように)、それらの演劇ではどこまでいっても概念によって動かされる人間は概念によって動かされる人間のままなのだ。

 その他印象に残った劇団を思いつくままにあげてみよう。劇団鳥獣戯画は歌舞伎ミュージカルと称して『桜姫東文章』などをミュージカル仕立てにして公演していた。美空ひばりが主演する歌謡映画の雰囲気で、和製ミュージカルの変な臭みがなかった。歌舞伎にインスパイアーされた劇団としては花組芝居もあったが、わたしは鳥獣戯画の方が断然好きだった。坂手洋二の燐光群は政治
と性や変革と情念の、山崎哲の転位・21は日常から犯罪へと向かう回路を示してくれた。女性ばかりの劇団青い鳥がこの頃話題になっていて、数回見に行ったが、おしゃれではあったが劇的なるものはさほど感じなかった。どうも男性だけの劇団や女性だけの劇団には性的葛藤がない分、劇的緊張の水位が一段階低くなるように感じるのが常であった。

 鴻上尚史の第三舞台は一度見に行って、野田秀樹の夢の遊眠社はテレビで一度だけ見て大嫌いになった。それ以来全く見ていないので、批判のしようもないが、例えて言うなら、ライブハウスにジャズを聴きに行ったら、クロスオーバーが演奏されていたようなものだった。もちろん、クロスオーバーをジャズと称して演奏する者にも、それなりの言い分や理屈があるだろう。いずれにせよ、わたしがジャズあるいは芝居に求めるものと彼らが与えてくれるものがあまりにかけ離れていたので、彼らの芝居および彼らとともに語られるような劇団にはそれ以後足を踏み入れることはなかった。

 土方巽は間に合わなかったが、多かれ少なかれ彼から発している舞踏も幾つか見た。誰であったか名前は失念したが、舞踏家が十メートルくらいの距離を一時間ほどかけて移動する舞台があって、こういうのは他人の行を見せられているようでそれほど感興がわかなかった。山海塾もわたしには禁欲的かつ審美的すぎた。もともと微細な動きを緊張感をもって見守り続けることがわたしはあまり好きではないらしい。その点、麿赤児の大駱駝艦や大駱駝艦から分かれた白虎社(山海塾も大駱駝艦から派生したのだが)は楽しかった。特にこの両集団の場合、くだらないことをするときほど身体があるべき場所にぴったり収まるのが見事だった(かつて『タモリ倶楽部』で麿赤児が登場する体操のコーナーがあったが、ばかばかしい文句に乗せて動く身体の正確さには毎回驚かさ
れた)。モダン・ダンスはさほど見ていないが、ロバート・ウィルソン(音楽フィリップ・グラス)の『浜辺のアインシュタイン』やフランクフルト・バレエ団を率いたウィリアム・フォーサイスの公演などを覚えている。ダンスやバレーと舞踏は対照的で、跳躍による上方への志向においてダンスやバレーが際立っているのに対し、舞踏は地を抉るかのような動きにおいて優れていた(勝新太郎演ずる座頭市の、独楽のように地を這いずる殺陣を思い返してもらってもいいだろう)。

 さて、頻繁に芝居に通っていた時期が二、三年だったことが確かなのは、劇場から遠ざかったきっかけがはっきりしているからである。少々面倒くさい病気にかかり、半年ほど入院したことが芝居から距離をとる原因となった。もともとどちらかというと閉所恐怖症の気味があり、人混みが苦手であったから、いったん熱が冷めてしまうと、もうもとの勢いを取り戻せなくなってしまったのだ。しかし、病気のあともいくつかの劇団に出会い、かつての熱気を取り戻せそうなきっかけは幾度かあった。そうした劇団をアトランダムにあげてみよう。

 まず、維新派がある。先ほど述べたように、維新派は舞台装置を組み立てることが芝居の大きな要素であり、新橋の空き地に巨大なセットが建てられていた。1991年の『少年街』である。維新派は自分たちの芝居をジャンジャン☆オペラ(ジャンジャンというのは大阪新世界のジャンジャン横丁からきているらしい)と呼んでおり、銀幕少年王同様、芝居の部分と大阪弁で掛け詞や語呂合わせを大量に含んだ短い言葉の積み重ねを踊りながら歌う部分に分かれている。踊りも言葉と同じように、アクロバティックなものではなく、短く簡単な動作の積み重ねによって成り立っていた。舞台はノスタルジックな未来とでも言うべき空間で、そこで顔を白く塗った少年少女たちが壮大な仕掛けのなかを歌い踊る姿にわたしは圧倒された。すっかり興奮して、劇中音楽のカセットを買って帰ったのだが、肝心の歌が入っていないのにはがっかりした。それでも、数日間音楽とリズミックな歌の調子が取り憑いたように離れなかった。

 興奮した芝居、熱狂した芝居、楽しんだ芝居と芝居の経験も様々だが、わけがわからないということで群を抜いていたのは東京乾電池のチェーホフ劇だった。面白かったかと言われると言葉に窮するが、それではつまらないかというとそうも言えない、ただただ困惑のなかに放置される体の芝居だったのだ。神西清の訳した脚本を、柄本明、ベンガル、綾田俊樹、角替和枝といった乾電池
の役者たちがまったく感情を交えないフラットな台詞回しで述べ立てる。アドリブなども一切なく、蛭子能収が人が真面目なことをしているとおかしくなってくる癖がでて、同意を求めるように周りの役者に笑いかけるのだが、誰一人として応じる者がないので、曖昧な表情のなかに笑いを紛らわすことが幾度か繰り返された。チェーホフに現代性を盛り込もうとするような特別な演出もなく(演出は柄本明)、早口の台詞だけが滔々と流れていくような芝居だった。とにかく不思議な時間だったと言うしかない。もっともこうした「実験」は一時的なものであったらしく、最近、劇団創立三十周年の「劇団東京乾電池祭り」の演目シェイクスピアの『夏の夜の夢』、小津安二郎の『長屋紳士録』をDVDで見る機会があったが、それなりに人情もあり、デフォルメによるおかしさもあり、こういってはなんだが、ごく普通に面白い芝居になっていた。

 平田オリザの青年団を最初に見たときも、心を奪われた。1991年の『S高原から』をこまばアゴラ劇場という小さな小屋で見た。確かサナトリウムが舞台で、特になんということもない話を交わす。役者と観客の間に想定される第四の壁の扱いにおいて特異で、あたかも役者は観客が存在しないかのように振る舞い(お尻を向け続けることもある)、台詞は順々に受け渡されるものではなく、重なり合う。ロバート・アルトマンの映画のように複数の会話が同時に進行することもある。「静かな演劇」などと形容されることもある青年団だが、見ていて実にスリリングだった。

 松本修を中心にしたMODEはこれまであげた劇団のなかでもっともソフィストケイトされた劇団だと言えるかもしれない。小道具などの舞台装置も、衣装も、音楽もシックでおしゃれだった。単に歩くことでさえ、この上なく楽しい演劇的行為になることを教えてくれたのがMODEだった。必ず演目のどこかで、役者たちが一列になって、そう、ちょうどスキップのようにアクセントをつけた歩き方で舞台を経めぐるのだが、それを見ただけでわたしは幸福感に満たされたものだった。この劇団に第三エロチカを退団して参加していたのが有薗芳記と深浦加奈子で、ここでの深浦加奈子は実にチャーミングでかつエレガントだった。大きく弧を描いて再び深浦加奈子に戻ったことでわたしの芝居の話もおしまいにする。

2014年2月24日月曜日

ブラッドリー『論理学』13

 第一巻判断、第一章判断の一般的性質の続き。

II.§13.判断についての誤った理論は自然に二つの種類に分けられ、一つは主語、述語、繋辞に対する迷信によって理論が損われるもので、他方は別の欠点による。二番目のものを最初に取り上げよう。 
 (i)判断は観念と感覚の連合でも観念や諸観念の勢いや強さでもない。これまで経てきたことを考えるなら、こうした考え方を詳細に調べる必要はない。彼らが語る観念は心的な出来事だが、判断は、既に見てきたように意味に関わる普遍的な観念内容であり、心的な事実でないのは確かである。我々にあるのが現象の関係、感覚と隣接あるいは結びついた心的イメージだけなら、どんな主張も否定も真や偽ももつことはできない。我々にあるのはそこにある、なにものもあらわさない現実だけであり、それは存在はしてもとなる可能性はない。 
 我々は「連合」についての一般的な議論を先取りはせず(第二巻第二部第一章)、この学派がもつ普遍についての途方もない考え方に移ろう。すぐにその結論にたどり着くだろう。特殊なイメージという意味での観念があり、それはある仕方で感覚に結合し縛りつけられている。例えば、私は色のついた点々の感覚をもつ。動き、堅さ、重さのイメージがそうした感覚によって「呼びだされ」、それに結びつき一体となる。これは我々がある難点を呈示するまでは非常にうまくいっているように思える。一個のオレンジは我々に視覚的感覚を与え、我々はそれにいま述べたようなイメージをつけ加える。しかし、そのそれぞれのイメージは堅固な個物であり、他のあらゆるものを排除した関係によって性質づけられている。単にそれらの事実の束を連合するなら、誰がそれを一つの事実として認めるのだろうか。その内容を混合し、存在のことは無視して、それぞれの性質の一部をとり、それを対象に移すのだとしたら、その過程をなんと呼ぼうが勝手だが、それが連合ではないことは確かである。(以下、第二巻を見よ。) 
 観念がどのようにか感覚に結びついていると仮定したとしても、判断は、真や偽はどこにあるのだろうか。オレンジは私の感覚や想像の前にある。私の心にはそれは存在し、それで終りである。あるいは「シーザーは腹を立てるだろう」と言ったとする。シーザーはここでは知覚であり、それが性質づけられて「シーザーの立腹」となる。しかし、このイメージは単にそう存在するものであり、なにをあらわすわけではなく、なにも意味することができない。 
 まず「観念」が一つの事実として自律し、感覚の事実と心的な関係をもっていると仮定してみよう。二つの現象は、頭痛が三段論法と共存できるように共存している。しかし、そうした心的な結合は主張というには程遠い。ここに肯定は存在しない。肯定すべきなにがあるだろうか。二つの事実の関係を肯定するのだろうか。しかし、それは与えられたものであり、肯定するにしても否定するにしても意味がないだろう。一方の事実が他方の事実の賓辞となるのだろうか。それはまったく理解できないように思える。端的に言って、感覚と観念の双方が事実ならば、我々はなんの肯定も見いだせないばかりでなく、肯定すべきなにがあるのかさえ解らないだろう。 
 次に、(連合そのものはあきらめることとし)「観念」そのものは姿を消し、その不完全な内容が感覚のなかに溶け込んでいるのだと仮定してみよう。この場合、混合によって生みだされた全体は私の心に単体のあらわれとしてやってくる。しかし、どこに肯定が、真や偽があるのだろうか。ありのままのあらわれのうちにあるとは言うことができない。我々はこのあらわれと他のなにものかの関係のうちのどこかにそれを見いださねばならない。その関係が判断が指し示すものとなろう。しかし、いまのところは、その何ものかも判断が指し示すものも存在しない。我々が最初にもつのは変更されていない感覚、次に変更された感覚である。 
 先に進む唯一の道は、まず、「観念」が自律し、その内容と区別されると仮定する。次に、その両者が感覚と区別されると仮定することにある。すると、我々は感覚とイメージという二つの事実と、それ以外にイメージとは異なる内容をもつことになる。こうして我々は判断が可能になる条件にたどり着くことになるが、この条件への到達は連合によっては説明できない。またそれ以上の段階を考えることもできない。イメージから感覚への内容の移動と感覚の主語としての性質づけがあるが、そのどちらも説明することができないだろう。つけ加えるなら、どんな判断においても感覚を主語として役立てることは不可能である(以下の第二章を見よ)。最後に、私の行為が結びつけ、結びつけられる意識とは我々が考えているような心理学とは両立しない事実なのである。要約すれば、イメージの内容を変更されたあらわれのうちに溶け込ませることは判断に向けての一歩ではあるが、連合を離れることになる非常に大きな一歩でもある。心的現象の結合や統一は判断でないばかりでなく、その初歩的な基礎としても役に立たないだろう。



2014年2月23日日曜日

『サイト&サウンド』の2007年映画ベスト10

1.クリスティアン・ムンジウ『4ヶ月、3週と2日』



2.デヴィッド・リンチ『インランド・エンパイア』



3.デヴィッド・フィンチャー『ゾディアック』



4.トッド・ヘインズ『アイム・ノット・ゼア』



フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク『善き人のためのソナタ』



6.Carlos Reygadas, Silent Light

7.アンドリュー・ドミニク『ジェシー・ジェームズの暗殺』



アピチャッポン・ウィーラセタクン、Syndromes and a Century

コーエン兄弟『ノー・カントリー』



デヴィッド・クローネンバーグ『イースタン・プロミス』



 見たことがあるのは、『4ヶ月、3週と2日』、『インランド・エンパイア』、『ゾディアック』、『善き人のためのソナタ』、『ノー・カントリー』、『イースタン・プロミス』。

 『インランド・エンパイア』はいまのところ生涯の何本かに入っているので思い入れがある。
 『4ヶ月、3周と2日』は期待していなかったが、面白かった。
 『ゾディアック』は十年位見返していないので、また見てみたい。後半ちょっとだれた気がするが。
 『イースタン・プロミス』も見返したい。好きな監督なのになぜか内容があまり思い出せない。

2014年2月22日土曜日

幸田露伴『七部集評釈』11

消えぬ卒塔婆にすご/\と泣く     荷兮

 消えぬ卒塔婆を、卒塔婆の文字がいまだに消えないと解釈するのは、何丸があげた一書の解で、現実として読んでいる。

 鶯笠が解して、失った子供の面影が眼に残って、死んだのも本当とは思われず、もしかしたら夢ではないか、夢ならば眼前にある卒塔婆も消え失せるだろうに、消えないのは本当に死んだので夢ではなかったのだと母親の深い愛情をあらわしている、といっているのは、虚構として読んでいる。

 虚構として解釈すべきか、現実として解釈すべきか、曲齋は虚構に傾き、何丸は虚実は聞く人に任せると言った。鶯笠の解も面白いが、現実と解して、卒塔婆の文字がなお鮮やかに、何々童子とか何々孩子とあるのに、我が子は消えて無く、その対照が目に痛く胸に応えて泣くのだというのもないことではない。夢かと思ったら現実だったのを悲しむというのは、深読みしすぎである。前句の「偽りのつらき」を、この世はすべて仮のもので現実ではなく、夢幻のようだと、子を失って偽の世を悲しむことに見るのは、一致した解釈で、異論はない。子供を亡くして乳房が張ることのむなしさに悲しむ女のことを詠んでいる。

2014年2月21日金曜日

スタイルと生理――レミ・ド・グールモン

 『鬣』第31号に掲載された。

澁澤龍彦はスタイル偏重を公言し、「極度に人工的な」スタイルさえあれば、思想の当否や人間が描かれているかどうかなどは取るに足らない問題だと言って憚らなかった。ここで、スタイルというのは、単なる文体よりも広い概念を示す。

「極度に人工的」であるとは、日常生活とは隔絶された異なった秩序をもつ世界をつくりあげることであり、一つの世界を構築するには一貫した方向性と持続が必要となる。健康に気をつかった毎日の養生のように抑制による自己管理が中心になることではなく、積極的な造形意志に関わる問題なので、その内容はともかく身を律していく倫理的な姿勢が要求されよう。それかあらぬか、あれだけ「不道徳な」ことを生涯書き続けた澁澤龍彦だったが、自堕落なデカダンには鼻も引っかけなかった。

ところで、レミ・ド・グールモンのスタイルについての考え方はおよそ正反対の方向を向いていると言っていい。グールモンは、マラルメやヴェルレーヌのおよそ一回り下、ヴァレリーのおよそ一回り上の世代に属し、「象徴主義のサント=ブーブ」と呼ばれ、象徴主義運動を擁護した。象徴主義をマラルメとヴァレリーという系図のもとで捉えると、この二人の自意識の化け物が文を最高度に意識的なものたらしめようとしたのに対し、グールモンがスタイルを意識よりもむしろ無意識に近い場所に位置づけたのは興味深い。

グールモンによれば、人間の心的な活動のサイクルは次のような段階を経て進むと考えられる。まず始めに感覚がイメージに変化する。次に、イメージが観念に変わる。次に、観念が感情になる。最後に、感情が行動になって終わる。

そして、作家には二つの主要なタイプがある。明確なイメージを具体的に描くことのできる視覚的なタイプと、出来事がもたらす感情だけを捉え、出来事のそのものは抽象的にしか描くことのできない感情的なタイプである。

視覚的な作家、つまり、感覚とイメージを鮮明にもたらすことのできるものだけが真の芸術家と認められる。範とすべきは余計な観念によって出来事が歪められることのないホメロスの文章であり、もっぱら感情に訴えかけようとするユーゴーは非難される。哲学者で言えば、抽象的な精神にすべてが呑み込まれていくヘーゲルではなく、その思想を具体的なイメージで提示することのできたニーチェが称揚される。

といって、だからといって、我々はこうした模範を手本にすることはできない。なぜなら、感覚とイメージが観念を経ることなくスタイルにあらわれるとは、つまりスタイルと生理とが直結しているということであって、スタイルの問題とは生理学の問題に移り、意識的、理性的に処理できるような事柄ではなくなり、せいぜい我々にできることといっては、様々な経験を積むことによって感覚の領域を拡げることくらいしかないからである。

人は自分自身をスタイルによってあらわすことはない。その形式は脳の構造によって決定されており、そこから扱うべき事実を受け取るのである。