原著は1984年にフランスで、『カイエ・デュ・シネマ』の叢書の一冊として出版された。『カイエ・デュ・シネマ』といえば、ゴダール、トリュフォー、クロード・シャブロル、エリック・ロメール、ジャック・リヴェットたちが、映画批評家として参加し、のちに監督として映画を撮ることによってヌーヴェル・ヴァーグという潮流をつくりだした。彼らが活躍したのは1950年代であり、いまから考えるとかえって不思議なことだが、当時は顧みられることのなかった映画における監督の立場を認め、娯楽映画の監督として看過されていたハワード・ホークスやアルフレッド・ヒッチコックなどを「作家」として顕彰した。
それから三十年以上の時を隔てた本書は、監督論でもなければ、作品論でもない。言及される映画は数えられるほどである。映画というテクノロジーが人間の知覚をいかに変容させ、その変容された知覚が戦争という行為をいかに決定的に変化させてしまったかが論じられている。したがって、個々の監督、製作者、俳優、作品をめぐっていわゆる映画論とは異なり、テクノロジーとイデオロギーの干渉地帯を対象にした、ベンヤミンの写真論、マクルーハンのテレビ論に連なる。
戦争とともに大きく変わったのは、勝利によって領土を獲得したり、経済的支配を得ることではなく、「非物質的な」知覚の場に侵入することが優先されることなったことである。たとえば、原子力発電所ひとつをとっても、そこでセキュリティの問題になっているのは、危険な放射線物質が現実にそこにあることだけではなく、それを安全たらしめるために網の目のように張り巡らされた情報を取捨選択するための場であり、それがいかに「安全」なものであろうと都心につくろうとしないのは、そうした情報の波を整理し、知覚を統制できないためである。
敵と対面して戦うといった形での戦争は、すでに牧歌的なものであり、目に見えぬ場をめぐる戦いが常に行われているのだとすると、たとえば、VRのゴーグルをつけて端から見れば滑稽な動きをしている者たちとそれを馬鹿にして、あるいは面白がって脇から見ている者たちのどちらにリアリティは存在するのだろう。
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