明治29年11月に発表された。
躑躅が盛んに咲いているというから、夏にはまだ至らない4,5月のことなのだろう。優しい姉に一人で外にできてはいけないよ、といわれていた幼い弟が、山というのほどのことないだらだら坂の続く岡を上ったり下りたりしているうちに、ハンミョウを殺し、触れた部分がかゆくなり、ハンミョウに毒があったかしらと思うが、それはともかくとして、姉のもとに帰りたくなって帰り道を探しているうちに、強がって同学年の子供たちが遊んでいるかくれんぼの仲間に入るが、鬼になった瞬間誰もいなくなってしまい、もはやすべてが怖くなって、姉たちが探す声にも答えることができないし、どうやら姉も自分の姿を認められないようだ。
すっかり暗くなって途方に暮れたとき、美しいもう一人の女性に庇護され、添い寝して乳房まで吸わせてもらう。五位鷺と戯れ、暗がりのなかの叫び声のようなものに叱責をあびせかけること、寂しいので顔に触れてみようとするが、なぜか指先は顔に届くことがないなど、この女性、この世の尋常の存在とも思えない。やがて暴風雨がこの村を襲い、谷は淵となり、池となってしまった。
少年を庇護する女性は、水神とも、あるいは龍神とも、そのどちらでもないより限定的な力しかもたない妖精のような存在だとも考えられる。少年が初夏にかかろうとする若い芽吹きと草いきれに当てられて、白昼夢のようなものを見たのかもしれない。かくのごとく鏡花の作品は曖昧にできている。しかもそれは物語の要請、つまり、曖昧にすることによって小説に深みをだし、効果的にしようなどという技法とは無縁だろう。
別の言い方をすると、鏡花の文章は決して読みにくいものではないのだが、主語が必ずしもはっきりとしないこと、花の色彩や自然の変化が登場人物の会話や行動を曖昧にするまであふれることによって、過剰露出に見舞われたレンズのように、あるべき正常な姿をとらえられずに、夢のような非現実感をまとうことになる。別の角度からいえば、この作品に出てくる少年も姉も庇護する女性もまた、同じような非現実感に包まれているといえて、非現実感とは小説にとって必ずしも欠陥であるとはいえないことを示している。
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