2018年4月21日土曜日

7.隅田川という主人公――永井荷風『すみだ川』




 1909年12月春陽堂発行の『新小説』第十四年第十二巻に発表され、1911年(明治44年)に籾山書店の小説戯曲集『すみた川』に収録された。その後現在の形になるまで、細かい点で多くの修正、加筆などがされている。

 俳諧師の松風庵蘿月と常磐津の師匠をしているお豊は兄妹である。もともと二人は相模屋という大きな質屋の子供だった。兄は放蕩が過ぎて、頑固な父親に勘当の末隠居の身となった。妹が番頭と夫婦になって正直に店を営んでいたが、明治維新のごたごたの際に家運が傾き、加えて火事にあって店はつぶれてしまった。そこで兄は俳諧師となり、夫とも死に別れてしまった妹のお豊は、昔習っていた常磐津の師匠として生計を立てることになった。

 お豊には長吉という今年十八になる息子がいる。客商売のもろさを自分の経験から思い知っているので、彼女は自分の生活を切りつめても、息子を大学にやり、月給取りにしなければならないと考えている。

 長吉にはお糸という幼馴染がいる。お糸は芸者になることが決まっている。お糸の母親は針仕事をしているが、その得意先に橋場の妾宅にいる御新造がいて、その実家が葭町で力をもつ芸者屋であった。その御新造がお糸を見て、ぜひ娘分にして立派な芸者に育てたいと言い出したのである。大工であったお糸の父親が死んでからは、単なる得意先のひとつという以上に世話になっていたので、自然お糸が芸者になることは決まったことのようにされていた。それにお糸自身が芸者になることを嫌がってはいないのである。

 この小説はちょうどお糸が芸者になる時期のことを描いている。長吉は、年下ながら、幼いころから姉のようにずっと自分をリードしてくれていたお糸を好きなのだが、彼女が芸者になることを止めることもできず、学業にも身が入らなくなってしまう。芝居に通うような日を過ごし、役者になっている小学校時代の同級生に再会して、月給取りになるという自分の目標に意義を見いだせなくなる。手塩にかけて育てた息子が横道に逸れることを恐れるお豊は兄の羅月に相談し、羅月はともかく意見してみようということになる。羅月自身も自分の身を振り返ってみれば強く意見をさしはさめるわけもなく、もう一年辛抱してみなさい、というだけだった。

 なんとも淡々した話である。「すみだ川序」によれば、この小説に手を付けたのは西洋から帰って満一年を経たのち、つまり明治四十二年の八月はじめに書き始め、十月の末に書き終えたとある。したがって、「第五版すみだ川序」に、帰国後も向こうでの生活の習慣が抜けず、午後になると愛読書を懐に散歩に出かけることを常としたが、自分の生まれた東京の街は、詩を喜ぶ「遊民の散歩場」ではなく、「戦乱後新興の時代の修羅場」となっていると書いた「戦乱」とは日露戦争のことである。そんななかでわずかに隅田川だけが、現実の「修羅場」と、幼児期の過去のおぼろげな記憶と、江戸時代に直結する「伝説の美」とを呑み込むように流れている。つまりは、背景であるはずの隅田川こそが主人公であって、長吉とお糸のほのかな恋などは隅田川に浮び出た数多くの情緒の透かし地のひとつに過ぎない。昔の東京が失われていくという嘆きや諦観は、より正確にいうと、過去と記憶と伝説が共存する多層的な空間が存在しなくなり、平坦で表層的な場所しかなくなったということにある。

 ちなみに、『東京の昔』を書いた吉田健一は、昔の東京が失われていくことを認めながらも、時代に対する憎悪や厭世など、およそ否定的な身振りを嫌い、当たり前に歩けて、当たり前に食べることができる、当たり前の都市のひとつとしての東京がいつか生まれることを言い続けた。もしあの人が生きていたら、というのは誰もがもつ胸苦しい夢想のひとつだと思うが、あの世から吉田健一を連れ出して、いまの東京はどうですかね、と聞いてみたいし、ついでに、甥の麻生太郎は大臣としてどうなんですか、とも聞いてみたい。


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