2017年9月30日土曜日

映画についての無意識的な記憶

 映画についてなにかをいうときに、なんとなく後ろめたいというか、ふわふわとした頼りなさをおぼえるのは、映画に関して無意識的な記憶がないからで、いかなる意味でも映画で育ったとは言いかねるからだろう。

 要は育ちが悪いということで、淀川長治や山田宏一、たしか店商売をしていた両側が映画館であったという菊地成孔などを読むとつくづく自分は育ちが悪いなあ、と思うわけだが、両親ともさほど映画を見ることに熱心ではなく、近くに映画館もない郊外育ちで、三人で行ったのはスピルバーグの『ジョーズ』だけ、といって本は相当あったから、恨む筋合いはないが、そういえば、幼いときに、母親と二人で映画に行ったことがあり、テレンス・ヤングの『バラキ』で、2番館に行ったとも思えないから、封切館で見たのだろうが、だとすると、幼稚園に行くか行かないかのころのはずで、なにを考えてマフィアものなどに連れて行ったのか理解不能で、理解するのがちょっと怖い気もして、いまだにこの映画見直していないのだが、そもそも母親は、スティーブ・マックイーンが好きだと聞いたおぼえはあるが、この映画の主演であるチャールズ・ブロンソンなどはその後の好みの変遷を考えてみても、外れているはずで、おぼろげにおぼえているのはトイレのシーンの薄汚れた白いタイルだけで、ますます下手につつくとなにが出てくるかわからない。

 無意識的な記憶がないということは、高校を卒業してから二本立てや三本立てにせっせと通って名画座と封切館との記憶が完全にごちゃごちゃになるまでは、逆にはっきりしているということで、子供の頃、友人たちと見たのはサム・ペキンパーの『コンボイ』、ブルース・リーの二本立てくらいで、ブルース・リーは相当電車で遠出して『死亡遊戯』ともう一本は忘れてしまった。

 始めて大好きになった映画は『エクソシスト』で、ブラッティの原作も好きで、何回も繰り返して読んだ。『スター・ウォーズ』はなぜか封切り日に見て、上映後に拍手が起こったのをおぼえているが、ピンとこなかった。いまもほとんど興味がない。

 もっとも私が幼いときには毎日洋画劇場があって、そこで無数の映画を見ていたから、そして淀川長治や荻昌弘や水野晴郎の口調はおぼえていても、実際なにを見たのか記憶の底に沈んでいるから、テレビについての無意識的な記憶のなかに幾分擬似的な映画の無意識的記憶が混じり合っているのかもしれない。

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