2017年9月24日日曜日

謎は謎として残り――福沢諭吉『丁丑公論』(明治34年)



 福沢諭吉についてほとんど興味はなく、『学問のすすめ』さえ読んだことがない。唯一読んだことがあるのは『痩我慢の説」(執筆は明治24年、発表は明治34年)であり、それは薩長土肥を中心として創設された明治国家において、その敵であったはずの幕僚が次々と転身し、新政府の要職についているのを歎じ、そもそも徳川幕府が長年にわたる支配を続けてこられたのは、どんな悲運や辛苦があっても落胆することなく、家臣や主人のために尽力した家康及び三河武士の痩せ我慢があったからであり、ひいてはそれが武士の美質となった。しかるに、昨日までのことをすっかり忘れ、節を変じて幕府のものが新政府のために勤めることは、長年にわたり築かれてきた武士の美風を損なうものとし、その代表者である勝海舟と榎本武揚を批判している。

 こうした問題は、私たちの親、あるいは祖父母の、敗戦後それまでの価値観が一夜にして変わった世代にとってはより切実なものだったろう。しかし彼らはあるいは痩せ我慢の必要は感じたかもしれないが、武士道を必要とはしなかった。むしろ人間としてのあり方の問題である。

 明治維新のときにいわゆる武士道を一番損なったのは、様子を見て趨勢を見守っていた多くの諸藩であり、藩などを越えた国のあり方の必要を実感していた勝海舟に比べると、福沢諭吉の方がより封建的な価値を引きずっている。例えば、『通俗民権論』(明治11年)などを見ると、「権」とは、「権利、権限、権力、権理、国権、民権」などと用いられるが、より通俗的に言えば、「分」のことだとしている。武士には武士としての「分」があって、各人の分に従って行動すべきだと言っているようだ。「分をわきまえよ」などという言葉は、威圧的、あるいは今風に言えば、モラル・ハラスメントでしかないことは、主人が雇い人にいうことはあっても、その反対はないという非対称性によって明らかである。また「権」ということがその程度のものであるなら、人間はその生まれの身分、性別によってはじめから与えられる「権」が定まっていることになる。

 それゆえ、「立国は私なり、公に非ざるなり」(立国が私だというのは、隔絶された社会において、自給自足の生活が送れる限りにおいては、そこに国の必要などないが、実際には我々は利害をことにする他者に囲まれて生活している、そこで自らの利益を守り、折衝するために国家を必要とすることを意味している)という福沢諭吉の言葉に対応するように、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」とこの批判に簡潔に答えた勝海舟、各藩のものと隔てなく付き合い、それこそ臨海丸で福沢諭吉とも同乗してアメリカにまで渡った彼の方がよほど立派に思えた。

 ところで、そんな福沢諭吉が西南戦争の首魁である西郷隆盛を擁護している『丁丑公論』(明治10年西南戦争が鎮圧されたときに書かれたが発表されたのは明治34年)を書いているのを知ってちょっと意外に感じた。同じく、内村鑑三が『代表的日本人』の一人目として西郷隆盛を上げているのを見たときにも意外な感を受けたが、内村鑑三はあまりに自己の立場に引きつけ、武士道的ストイシズムをキリスト教のない社会におけるキリスト教の代替物とする強引さが目立つものだった。

 一方、福沢諭吉の擁護論というのは、現代の状況とオーバーラップする。新政府は早くも腐敗を始め、士族は困窮し、農民は貧困を極め、徳川時代のおけるよりも農民一揆は頻発した。しかし、新聞をはじめとするジャーナリズムでは、朝鮮に対する対応の相違によって下野した西郷隆盛に対する非難が渦巻いていた。そして西南戦争直後における反応もそれに異ならなかった。いわば、政府の腐敗と民衆の貧困対策への無能力のガス抜きとして、西郷隆盛は政府および言論界において利用されたと福沢諭吉は言っている。そもそも西郷は政府を転覆しようとしたわけではなく、政府の「一部分」である政策について不和をきたして下野したのであるから、死に追い詰める必要もなかったはずだ。こうした分析は、全体としてみれば、現在の政治状況にも当てはまる正確なものだと思うが、島津斉彬に殉じて死のうとし、僧月照とともに入水し、朝鮮への使節に自ら赴こうとするなど、常に死に場所を探しているような西郷の謎については手つかずのままで、やっぱり不満を感じる。

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