2017年9月16日土曜日

エイリアンという隠喩――リドリー・スコット『エイリアン』(1979年)



 ここではイギリス映画を、イギリス監督による映画ということにしておくが、淀川長治は、もちろんチャップリンやヒッチコックは例外として、イギリス映画を、例えばデヴィッド・リーンやパウエル=プレスバーガーなどを評価するときに、とにかく美術が立派でしたねということが多かった印象があるが、あたかもそれは淀川長治が愛したアメリカ映画、イタリア映画、そしてフランス映画と比較して美術くらいしか褒めるところがないことを言外に含んでいるようで、妙におかしかった。私はミステリーといえば、P・D・ジェイムズ、やミネット・ウォルターズ、コメディといえばモンティ・パイソン、ドラマといえば『ウェーキング・ザ・デッド』(『ウォーキング・デッド』ではありませんよ、ゾンビものではなく刑事ものです)やスティーヴン・ポリアコフというイギリスびいきなのだが、したがって淀川長治のような言外の意味を持たせるつもりもないのだが(もっとも、繰り返せば、言外の意味を感じるのは私の印象に過ぎない)、スタンリー・キューブリックやリドリー・スコット、ニコラス・ローグなどから、デレク・ジャーマン、ピーター・グリーナウェイなどを経て、クリストファー・ノーランに至るまで、一貫した特異な美術センスをイギリス人監督たちは持っているように思える。それはある種のトッポさであり、フランスやイタリアには見られないものである。

 『エイリアン』と『2001年宇宙の旅』は対照的な宇宙像を提示した。キューブリックの描く宇宙は硬質で、幾何学的だが、『エイリアン』の宇宙、あるいは宇宙船は、ギーガーのデザインの力もあって、工業時代の残滓を色濃く残しており、スチーム・パンクの世界に近い。また『2001年』では、異文化がモノリスという屹立する硬質な物体によってあらわされているのと異なり、エイリアンは深海生物のようでもあり、甲殻の裏に牡蠣のような柔なかな身が詰まっていて、襞の多さは女性器を連想させるが、攻撃の際にはその女性器状のものが裏返り、男根的に突出もする。つきまとって離れないが、受け入れることはできないトラウマ的な「もの」でもある。カントの言葉で言えば、モノリスは崇高であり、エイリアンは物自体であるともいえる。地獄変相図に見られるように、我々のなかにはぐちゃぐちゃした内臓が詰まっているが、我々は内蔵によって生かされているが、内蔵を生きることはできない。


 かくして、天球図でいえば、『2001年』が煉獄を『エイリアン』は地獄をあらわしているといえるかもしれない。しかし、両作品はかつてないほどの技術とセンスによって宇宙をあらわしたが、それによって宇宙における密閉感を先鋭的に表現してしまった。というのも、宇宙とは暗黒と光の反射である星々があるばかりであり、それだけではなんの出来事も生じないからである。科学においては、閉じられた宇宙像から開かれた宇宙像の二つのモデルがあるが、映画においては、開かれた空間についての優れた表現は多々あるが、開かれた宇宙の表現はあるいはVRに委ねられているのかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿