2017年9月28日木曜日

都市という幻想――安部公房『箱男』(1973年)



 安部公房は都市小説の書き手だといわれているが、相当限定をつけなければならない。いかなる意味でも、魅惑的な特定の都市を描きだすことはなかった。郷愁の対象でありながら、憎むべき相手でもあり、生活の地盤であった永井荷風や久保田万太郎における東京の下町のような存在とは無縁だった。また、風俗に関心がないので、三島由紀夫や吉行淳之介のように、あるいは村上春樹や村上龍のように、都会が印象的な姿を見せることはない。さらにはイメージとしての都市、未来派と親和性が高い都会を稲垣足穂のように魅力的に描くこともなかった。ポオを好んだが、『群衆の人』のような、ボードレールとも結びつくような、都会に生活することの安楽と不安がない交ぜになった感受性とも不思議に縁がない。

 そもそも『箱男』といういかにも都市でしかあり得ない存在を巡るこの小説には、都市がほとんど描かれていないのである。二カ所に新聞記事の抜粋があり、上野の浮浪者が一斉に取りしめられたこと、新宿駅の地下で倒れていた者が十万人に及ぶ乗降客に無関心に放置されたことが記されている。また、作者自身による写真が載せられており、そこにはモノクロの粗い粒子で、シャッターの下りた宝くじ売り場、貨物列車の番号、病室に貼られた解剖図、同じ方向を見つめるおそらくは家族の一団、曲がり角で対向車を確認するミラー、公衆便所に立ち並ぶ男たち、ゴミのような大量の荷物を抱え自転車を引いている男、廃車置き場といった都市そのものというよりは都市の分泌物のような情景であり人物なのだ。

 だが、不思議なことに、都市の群衆のなかにいる人間についてはついぞ触れられない。男は段ボールの箱をすっぽりとかぶることによって、箱男となり、匿名の存在になるが、匿名でこそあれ異物である箱男が、群衆のなかでいかに匿名の何も意味しない存在へと変質するかは決して問題とはならない。いわば箱をかぶることによって、他者もまた消失してしまうのである。匿名性を得た男は、群衆に立ち交じることもなく、病院の院長とその愛人らしい女との三角関係に巻き込まれる。しかし、彼、または彼女も箱男を断罪するわけでもなければ、匿名性を暴き立てようとするわけでもない。しかも院長が偽箱男となったり、女は愛情を求めるわけでもなく、いわば擬似的な三角関係に過ぎないのだ。


 『燃えつきた地図』の団地といい、『密会』やこの『箱男』の病院といい、いずれも都会とは異質な、無機質な群衆には至らない、しかし病気による、あるいは同じ一群の建物に住むという紐帯でつながった集団によって形成された擬似的な都市=群衆なのであって、そこには確かに匿名性はあるが、同時に他者性も消失しており、代替可能な人間だけが残ることになる。

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