2017年9月12日火曜日

滝沢馬琴訳『水滸伝』(冒頭ちょっと)3



  初編 巻之二

  ○王教頭密かに延安府に走る

   張天師が道術で民の疫病をことごとく祓った後は、天下泰平でおかしなこともなかった。

  仁宗皇帝は四十二歳で崩御されたが、太子がなかったので、位を允譲の子、太祖皇帝の孫に伝え、英宗皇帝と号し奉った。

  そして、在位四年にして、位は太子の神宗に伝えられた。

  神宗皇帝は在位十八年で、位を太子、哲宗皇帝に伝え、嘉祐三年から天子四代、三十年以上を経て、四海はますます無事であった。

  このとき、東京開封の府中、汴梁の宣武軍というところに、ひとりのお調子者がいた。

  姓は高氏で、二男だったので高二とされた。

  若い頃から家業をせず、ただ槍や棒をたしなみ、蹴鞠では並ぶ者がなかった。

  そこで、都の人は、彼を高二とは呼ばず高毬と呼んだ。

  毬の字は、まりとも読むので、姓が高なので、毬の技が高いというわけだった。

  高二はこれを嬉しく思い、毬の字の毛編を人偏に改め、自ら高俅と名乗った。

  この人物、武芸、相撲にも長け、音楽もたしなみ、また、詩を賦し、文をつくり、何につけ才能はあったが、心がけは正しくなく、忠義の念に薄く、常に都の裏を徘徊し、幇間として生活をしていたが、近頃は、王員外というものの子供をそそのかして、毎日花街に誘い出し、多くの金を使わせたので、王員外は深く高俅を恨み、役所に訴訟を起こしたので、やがて高俅は捕らえられ、四十の鞭打ちとともに都を追放された。

  高俅は都に入ることができなくなったので、淮西の臨淮州という僻地に行って、柳世権という人物に頼ったが、この人物は身持ちのよくない男で、多くの無頼悪徒を養いおいて、その宿賃で生計を立てていたので、彼をもたやすく受け入れて三年もたとうとする頃、帝の哲宗皇帝、五穀豊作、四海安全のため、自ら南郊でまつりごとをなされたところ、この年天候も安定したので、帝は機嫌良く、天下に大赦を行われ、追放の罪人たちを許され、高俅も都に帰りたいと思い、柳世権に相談したところ、柳も大赦を歓び、「幸い、都の金梁の橋の下にある生薬屋の董将士という者が私の親戚なので、まずそこに落ち着いたらよかろう」と言って、紹介の手紙をしたため、土産路用などをもたせて、高俅を都に帰らせた。

  高俅は柳世権に別れを告げ、日を経て都にたどり着き、金梁橋下の王将士の薬屋を訪ね、紹介の手紙を差し出すと、董将士は読み終えて、心のなかで思うに、この高俅は音に聞くお調子者、いま赦免されたといって、我が家においていたら、子供らに悪いことを教えるだろう、とはいうものの、柳世権の紹介してきたものを追いやるのも後ろめたい、しばらくはとどめおいて、その後他へやるとしよう、と思案し、「よくぞいらした、まずはこちらへ」と客間に伴い、一週間ほどは手厚くもてなしていたが、ある日、高俅を招いて言うには、「我が家は商人なので、あなたがいつまでいようと、出世の助けにはなりません、そこで、小蘇学士という人のところへご紹介しようと思います、この人はもともと手広く権門の方々のところに出入りしているので、心を込めて奉公すれば、必ず出世の話もありましょう、おいでになる決心がついたらこの手紙を持って行きなさい」と言って、かねて書いておいた手紙を取り出してみせれば、高俅は喜んでこれを受け取り、その日に小蘇学士の家に行ってみると、この学士も董将士の手紙を見て思うに、高俅はもと幇間で浮薄なものであろうに、どうして我が家で養えよう、とはいえ、私は年来董将士と親しくしているので、拒絶するのも角が立つ、幸いなことに、貴人の婿、王晋卿の役所はいつ行っても、風流の人物や、芸能に優れたものを愛し、また最近は特に出世頭で、世の人が小王都大尉と尊ぶほどだから、高俅を薦めて、進ずれば、喜ぶに違いない、と腹の内で計算し、次の日、召使いに手紙をもたせ、高俅とともに王都尉のもとに送った。

  この王都尉は、帝である哲宗皇帝の妹婿で、富に任せ、風流な人物だといえば、不要であっても厭うことなく、多く養っていたが、小蘇学士が手紙をつけて高俅を薦めてきたのを大いに歓び、返事を使いにもたせ、高俅はとどめおいて、側近く召し使っていると、もと幇間のことではあり、ひたすらおもねりへつらって、すぐに懐に入り、一家のものであるかのように暮らしていた。

  さほど時もたたぬうちに、王都尉の誕生日の祝いに、同じく都尉の小舅端王が招待された。

  この端王は、先の帝、神宗皇帝の第十一子で、いまの帝の弟なので、九大王と称えられ、鋭利な人物で、風流なこと全般を好み、下々のことについても、役者幇間のことまで、知らないということがなく、また彼等を愛していた。

  それだけでなく、琴、将棋、書画、儒教や仏教、あるいは歌舞の技まで、ことごとく習っていて、そのなかでも蹴鞠を好んでいた。

  王都尉は主として、めでたい香炉に香を焚き、金の瓶に花を挿し、水晶の壺、琥珀の盃には遠来の珍酒を湛え、玳瑁の皿、玻璃の椀には、珍奇な果物、熊の手のひら、駱駝の蹄、魚介の類いを盛り、舞姫たちが立ち並び、歌姫が楽器を持って用意が整った頃、端王がいらしたので、王都尉は様々に心を尽くして歓待し、酒宴の時も過ぎて、端王が手洗いに立ったとき、書院の机の上に羊脂玉という玉で、細工の巧妙な獅子の文鎮を見つけた。

  端王はこの文鎮を手にとって、物欲しげにしているのを、王都尉はすぐに察して、このほかになお龍の筆立てがあります、同じ職人のものですが、しまってあるのでいますぐは手元にありません、明日そちらも取りそろえて、奉りましょうと言ったので、端王は喜んで、もとの席に着き、更なるもてなしに様々の興あって、夕暮れに宮中に帰られたので、次の日、王都尉は、龍の筆立てを取り出し、獅子の文鎮とともに黄色の風呂敷に包み、手紙を添えて、高俅を使いとしてたてると、取り次ぎのものが、端王はいま庭裏で、毬を遊ばしているので、裏に参り、使いの趣を申し上げるがよかろう、と案内をされたので、高俅はその後に従い、庭に来てみると、端王は薄衣の帽子をかぶり、紫に龍を縫い込んだ着物を着、二色の房のついた帯を結んで、金糸の毬靴を履き、四、五人の小姓と毬を蹴っておられたので、高俅は後で毬が終わるのを待っていたのだが、運命のときが到来したのだろうか、堪能の蹴った鞠がそれて、高俅の頭の上に落ちかかった。

  鞠で名だたる高俅が、うろたえるはずもなく、落ちかけたその鞠を、即興的に、鴛鴦拐という技で端王に蹴り返したところ、端王は喜んで、始めて高俅に気づき、「誰だ、お前は」と問うたのに、高俅は頭を地にすりつけ、「私は王都尉の使いで、文鎮と筆立てをもって参りました高俅というものであります、お手紙がここに」とおそるおそる奉れば、端王は開いて大変喜び、文鎮などを小姓に命じて取り収め、さて高俅に向かい、「お前はたぐいまれなる鞠の使い手だ、いまここで鞠を蹴ってみろ」と命じ、高俅は再三再四拒んでいたが、それで許されはしなかった。

  あまり断るのも却って失礼だと、やがて鞠遊びに加わり、いまこそ本領を発揮するときだと思ったので、秘術を尽くして王の気に入るように努めた。

  鞠は操られたかのように高く上がっては低く飛び、逸れることがなかったので、端王はますます褒めあげ、すぐに宮中に留め置き、王都尉のもとへは返さなかった。

  王都尉は高俅が帰ってこないので、妙に思っていたが、次の日、端王が人を介して王都尉を招き、かの文鎮をくれた礼を言い、事のついでのように、「昨日使いに来た高俅は、鞠がひどく上手なので、私はあの者を近くに置いておきたい、どうか許して欲しい」というので、王都尉は、「殿下がお気に入られたことは、彼のこよなき幸せです、長く留めおかれるよう、私も願っております」と答えたので、端王は大変喜んだ様子で、様々に都尉をもてなしたので、王都尉は思いもかけず、面目を施して、暮れになって家に帰った。

  これより高俅は、片時も端王の側を離れず、言葉巧みに、ご機嫌を取りながら仕えていたので、端王はいよいよ彼を愛して、代わる者がいないほど頼りにしていたが、いまだ二月も経ないうちに、哲宗皇帝が崩御し、子供がいなかったので、文武の百官、端王が担ぎ出され、皇位につき、徽宗皇帝と号せられた。

  玉清教主、微妙道君皇帝のことである。

  この帝の治世になってからも、天下はますます泰平で、ある日帝が高俅を召して言うには、「私はお前を重く用いようとしているが、戦功でもなければ、軽々しく地位を上げるわけにはいかない、そこで、かねて枢密院に内々に命令を下して、お前の名を通じておいた、遠からず出世の日が来るだろう」と密かにお伝えになったので、高俅は拝伏して、「お恵み、身に余ることでございます」と答えたが、帝はとにかく彼を寵愛し、未だ半月にならぬのに、殿帥府の大尉に命じた。

  高俅はにわかに大臣の列に加わり、それから高殿帥、また高大尉と称せられ、吉日を選んで殿帥の役所に引き移れば、属官たちが大勢集まり、各々名札を提示し、高俅は名簿と引き合わせてみていると、その中でただ一人、八十万禁軍の教頭、王進というものだけが来ていなかった。

  この人は先頃から、病のために役所を休み、そのことを前の殿帥大尉に断って、家で保養していたが、妻はなく、母が一人いた。

  ところが、高俅はその日王進が来ないのを見て大いに怒り、「あ奴、病気にかこつけて、俺を侮っておる、急いで引きずって参れ」といらだっているので、当番の小役人が王進の家に走り、しかじかと告げれば、王進は大いに驚いて、やむを得ず病を押して、忙しく服を着替え、使いの者とともに殿帥府に行き、身を折り腰をかがめ、礼羲を厚くして挨拶したが、高俅が眼を怒らして言うに、「お前は都軍教頭王昇がせがれであろう、お前の父親は街で棒を使い、薬を売るのを生業とし、何の武芸もなかったのに、先の殿帥が眼識がなかったから、お前を教頭として取り立てたのだ、それなのに身の程を知らず、誰の後ろ盾があって私を侮るのだ」とののしるので、王進は畏まって「私は全く大尉を侮っているわけではありません、病がまだ治っていないのです」といえば、高俅はますます怒り、「お前の言うことは支離滅裂しておる、本当に病ならば、どうしてここに参った」と責め立て、王進が「大尉の命令を否みがたく、病を押して参りました」と答えも終わらぬうちに、高俅は声を荒げ、「この愚か者は甚だ無礼である、引きだして鞭を与えよ」と息巻いたが、役所の者たちはみな王進と仲がよかったので、みなでなだめて、「大尉殿が新たに職につく喜ばしいときに、人を罰することはよろしくありません、どうぞ彼を許してやってください」と様々に諫めれば、高俅もようやく顔色を和らげ、「各々の言葉を無視することもできないので、今日のところはまず許し、明日また吟味することにしよう」と言ったとき、王進は始めて頭を上げて、高俅の顔をはっきりと見たのだが、見覚えのある顔なので、驚きながらも役所を退き、心のなかで思うには、私の命ももはや保たれまい、高大尉はどんな人物かと思ったら、都の幇間高二ではないか、彼は前年、棒を使うことを学び、我が父に手痛く打ち据えられ、四、五ヶ月立つこともできなかった、それがいまでは殿帥府の大尉になったので、その立場に乗じて、古い恨みを晴らそうとするだろう、自分は部下なので、とてもやり過ごすことはできまい、どうしたらよかろう、とひたすら憂いもだえて、やがて家に帰って、母にこれこれと語れば、母もその因縁を聞いて深く嘆いて、母子言葉もなく涙ぐんでいたが、しばらくして母が言うには、三十六計逃げるにしかずとも言います、逃げるあてはあるまいかと問うので、王進は思案して、「母上の仰せ、理にかなっていると思います、延安府というところに、种国司という方がおられます、辺境を守っておいでですが、その部下たちは都に来るごとに、私の弟子として、棒槍など学ぶものが多いので、そこを頼りにこの救難を逃れましょうか」と囁けば、母もこれに賛同し、逃げ出す準備を整えて、王進はその夜、二人の付き人を呼び出して「私は病も癒えたので、お礼かたがた酸棗門の外にある嶽廟に参詣しようと思っているので、お前たち二人は夜のうちに廟に行き、早くから門を開かせ、祭りの贄などを調えて、私が詣でるのを待っていなさい」と言えば二人は心得て、家を出て行ったので、王進は自由に貯めてあった金銭を懐に収め、衣服などを荷造りして、馬屋から馬を引き出し、行李をくくりつけて、母をその上にのせ、自ら手綱を取って夜の明けぬうちに西華門を走り出て、延安府を目指して旅立った。

  さてかの二人の付き人は、夢にもこのことを知らず、廟の側にいて、ひたすら王進を待っていたが、日は高く昇っても影も形もない。

  あまりに来ないので、一人が帰って、家のありさまを見てみると、門が閉じていて裏には人気がない。

  これは怪しいと疑い、またもとの廟に戻り、もう一人にこのことを告げ、二人一緒にいろいろなところを訪ねてまわったが、王進もその母もどこに行ったのか、誰も知るものがなく、その有様が逃亡したようであったので、その日の夕方、二人は殿帥府に行って、事の次第を訴えれば、高俅は大いに怒り、すぐに文書を諸方へ送って、王進を捕らえようとした。

  その間にも、王進母子は、その暁に都を離れ、野を過ぎ、山を越え、道を十日ばかり行ったところ、ある日の黄昏時に宿を過ぎたところ、その先には行けども行けども宿屋はなく、ただ林の中に灯火の光がちらちらときらめいているので、王進は近くによってよく見てみると、大邸宅があり、四方の壁の内側には柳が二、三百本植えられている。

  門内をうかがいつつ呼んでみると、一人の下僕が現われ、なぜここに訪ねてきたかと問うので、王進は「私は老いたる母を連れた旅のものですが、あまりに道を急いだもので、宿を通り過ぎてしまい、夜になってしまったので困り果てていたところ、お宅を見かけて参ったものです、一夜、庇を貸してもらえないでしょうか」と礼儀を尽くして、丁寧に頼めば、下僕は家の中に走り入り、主の大公に告げれば、主は情けがある人物で、たやすく引き受け、王進母子を呼び入れさせた。

  王進は宿を借りることができたことに安堵し、母を馬から下ろし、馬を柳の木につなぎ止め、かの下僕に従って屋敷に入り、麦打ち場の上に荷物を置き、奥の間で主の大公に対面した。

  この大公は、年の頃、六十を超えたくらいだと思われ、髭も髪も白く、頭に塵を遮る頭巾をかぶり、羽織を着て、腰には黒の組帯を結び、足になめし革の靴を履いていた。

  王進が近くによって礼を述べると、大公も礼を返し、「客人は気を楽にしてくだされ、旅人は露霜にそぼ濡れて、苦労が多いことでしょう、あなた方母子はどこの人で、どこへ向かわれているのですか」と問うので、王進は「私は、姓は張氏、もと都の商人ですが、運に恵まれず元手を失い、どうすることもできなくなったので、延安府の親類を頼りに赴くところですが、今日は道を急いで、宿屋を行き過ぎてしまい、お世話になっている次第です、宿賃はお払いしますので、よろしくお願いします」というと、大公は「そんな気遣いは無用じゃ、さぞかし腹も空いていよう、夕食を差し上げよう」と、下僕に命じて食事を出させ、酒を温めさせ、厚く母子をもてなし、また、王進が牽いてきた馬にも秣を食わせて馬屋に引き入れさせ、自らは旅の話などを聞いているうちに、食事も終わったので、また下僕に命じて客間に案内させ、ゆっくり休めるよう布団は暖めてあったので、王進母子は行き届いた親切に喜び、枕を引き寄せて眠りについた。

   さて、次の日になって、夜も明けて久しいのに、王進母子はまだ起きてこない。

   大公が自ら客間の前でうかがってみると、うちからうめき声が聞こえるので、怪しみつつ、「客人、夜が明けましたぞ、まだ起きませぬか」と呼びかければ、王進がすぐに出てきて、「もうとっくに起きているのですが、母上が、毎日馬に乗って疲れたのか、病にかかったのか、胸が痛いと夜中苦しんでいるので、介抱していました」というので、大公は驚いて、「それではうめき声は母上ですか、旅の途上で病んだとすれば、どれほど心細くお思いでしょう、いつまでも逗留して、ゆっくりと保養なされ、幸い我が家には胸に効く妙薬があります、まずはこれを試してみなされ」と薬を与え、まめまめしくいたわってくれるのに、母子ともに感謝し、一週間ほど逗留して養生すると、母の病もようやく癒えた。

  そこで明日にも出立しようと王進は、馬屋に行き、馬の様子を見るとき、空き地で一人の若者が諸肌を抜いて棒を使っているが、その白くふくよかな身体には蒼い龍を刺青して、年の頃は十八、九に見えた。

  王進は彼が棒を使うのを見て、「よく使えてはいるが、まだ隙があり、もののようには立たぬ」と思わず声を発したのを、若者は聞きつけて大いに怒り、「俺がこれまで、七、八人の師匠について武芸の奥義を究めているのに、お前はなんのつもりであざ笑うのか、打ち据えてくれん」と息巻いて、走りかかろうとするところに、大公がやってきて、「止めよ、止めよ、客人に無礼をするな」と叱りつけ、王進に向かって、「客人は、よく棒を使うようだ、あ奴は我がせがれで、術に足りないところがあるようなら、教えてやってください」といい、若者に向かっては、「お前は早く客人に指南を受けよ」と言えば、若者はますます怒って、「父は彼が言うことを本当だと思っているのですか、私はまず彼と試合をして、もし負けたなら弟子になりましょう、勝ったらおっしゃることは聞きかねますよ」と言って、一歩も引く様子がなかったが、王進はただにこにこして彼と争おうともしなかった。

  大公はこの様子を見て、「それでは息子と試合をして、うち伏せてやってください、たとえ打ち殺されることがあっても、自業自得ですので、少しも恨みには思いません」と言って再三請われるので、王進もいまは黙っていられなくなって、「ご無礼はお許しください」と言って、槍かけにあった手頃の棒を選び、ゆっくりと立ち向かい、まず旗皷という型を使い、棒を稲妻のようにひらめかせて見せたが、若者は遠慮会釈もなく、ただ一打ちに向かってくるのを、王進はわざと棒を引き、二、三歩後ずさりした。

  若者は先手を取ったと、踏み込んで打とうとするところを、王進は素早く身をかわして打ち返せば、若者はしかと受けとどめた。

  王進はこのとき、打ち込めば打ち込めたが、傷つけないように勝ちを得ようと思い、またその棒を引きほどき、脇の下へ突き入れたのがはねるように相手の棒をはじき飛ばし、若者は後へ倒れかかったので、王進は急いで棒を投げ捨て、若者を助け起こし、「痛かったであろう、許してくれ」と挨拶すれば、若者は身を起こして頭を下げ、「私は眼がついていながら、真の豪傑を知らず、暴言を吐いたことが恥ずかしいです、これまで学んだ武芸はみな無駄でした、願わくは無礼の罪を許し、ご指南お願いします」と心から言っているので、王進はにっこりして、「私たち母子、思いがけずここに宿を借り、厚い恩を受けたので、せめて御身に棒の一手を教えて、恩に報いることにしよう」と頼もしく答えたので、大公も大層喜んで、すぐに酒宴をもうけ、母子ともに円座で酒を酌み交わし、大公は王進に向かい、「客人の武芸は尋常ではないようです、きっとどこかの教頭ではないですか、よろしければお名乗りください」と言えば、王進は答えて、「いまは何を隠し立てしましょう、始めに張という商人だと申したのは偽りで、実は私は東京八十万禁軍の教頭王進というものですが、かようかようの難儀にあって、母子して都を逃れ、延安府におられる老种経略相公にゆかりがあるので、彼の地を目指して赴く途上で、母の病によってここでお世話になり、母も元気になったこと、莫大な恩を賜ったので、身の上を明かしました」と言って、かの高俅のずるがしこい悪さまで、すべて物語れば、大公父子は始めてその素性を聞いて、驚き且つ残念がり、だからこそ尋常の人物ではないと思ったのだ、と嘆賞して、ますます敬い語らううちに、王進がまた言うには、「こう言えば自慢のように聞こえるかもしれませんが、ご子息のいままで学んでいた武芸は、ただ華やかなばかりで、戦場の用には立ちません、私が指南すれば、程なく上達するでしょう」といえば、大公父子は大変に喜んだ。

  しばらくして大公が王進に物語るところ、「それがしは先祖から、この花陰県に住み、名主を務めていますが、向かいの山が少華山です、またこの村は史家村といって、およそ三、四百の家があり、村中の民はすべて姓は史氏です、また私のせがれはこれがただ一人で、その名を史進といいます、幼いときから農業を嫌い、槍や棒ばかりを好んでいたので、母はこれを悲しみ、前年身まかりました、しかしそれがしは、彼が好むままに、強く制しもせず、また金銭も惜しまずに、多くの師匠を選び、何年も武芸を習わせ、また腕のいい彫り物師に頼んで、彼の肩、肘、胸、腿のあたりにはすべて九つの龍があります、これによってこの県の人は、彼を九紋龍史進と呼んでいます、教頭が我が子の面倒を見てくださるなら、厚く報い奉りましょう」と丁寧に頼み込むので、王進は喜んで、「心やすく思ってください、私が体得したほどの武芸は力を尽くして指南いたします」と引き受け、史進と師弟の契約をし、ここに逗留して、毎日彼に十八般の武芸、一々始めから指南した。

  そもそも十八般の武芸とは、手矛、槌、弓、大弓、手斧、鞭、盾、剣、鎌、投げ棒、斧、まさかり、鉤矛、鉾、楯、棒、槍、熊手である。

  光陰は矢の如く、王進母子が華陰県に来て、半年ばかりとなったが、史進は十八般の武芸十分に習ったので、王進はなお心を尽くして、いくつもの奥義を伝え、いまは自分に劣ることもなくなったので、王進は深く歓び、つくづく思うには、史大公父子の情けによって、数ヶ月の間ここに逗留させてもらったが、ようやくその恩にも報いたので、近いうちに延安府に赴くことにしようと、ある日大公と史進に別れを告げ、これまでの礼を述べたが、史進はひたすらとどめて「先生、どうして急に旅立とうとするのです、なんの心置きもなく逗留して、ここにお住みください、私は貧しくはありますが、先生たちの面倒は見させてもらいます」と言ったが、王進は「私が母とともにここで安楽に世を送ることは、こよなく幸せだ、だが、もし高俅が知って、この家に追っ手がかかるようなことがあれば、あなたたち親子を巻き込んでしまう、それは私がもっとも憂慮するところだ、どれほど止められても、とどまるべき身ではないのだから、明日出発しようと思う、延安府というところは、土地が肥えて、仕事も多くある州なので、身を立てることもできよう、まずはこのまま別れることにしよう」と言って、いくら止めてもとどまる気配がないので、史進父子は深く別れを惜しみ、別れの酒宴をもうけ、二巻きの緞子と百両の金を花向けにして、武芸指南のお礼とした。

  さて、王進は次の日、荷物を馬にくくり、母をその上に乗せて、大公と史進に別れを告げ、延安府をさして旅立った。

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