奥野信太郎は1899年(明治32年)の生まれであり、吉川幸次郎と同じく中国文学者であるが、五歳ほど年長になる。吉川幸次郎が儒者を自認する謹厳な学者なのに対し、荷風を敬愛し、佐藤春夫や久保田万太郎に私淑したより文人、文学者としての側面が強かったといえる。 実際、吉川幸次郎が『論語』や杜甫を中心に業績を積み上げていき、京都大学を根城にして数多くの優れた中国文学者を生んだのに対し、佐藤春夫や久保田万太郎を慕って慶応大学に入った奥野信太郎は特に専門とするものもなく、学派と呼べるものを作りあげることはしなかったようだ。
奥野信太郎の文学上の仕事としては、佐藤春夫が中国詩を訳した『車塵集』に長文の序を書いたことがある。先年亡くなられた私の大学時代の恩師である和田晃先生は、この訳詩集に対して、奥野信太郎は序文を書く以外の荷担をしたに違いないとおっしゃっていた。酒の席ではあり、私が佐藤春夫にさほど興味がなかったためにどんなことからそうした考えにたどり着いたのか、深く聞いておかなかったのが惜しまれる。このエッセイ集では、「いま読み返してみれば、その稚拙まことに穴でもあれば、はいりたいほどの悪文であるが、佐藤春夫は一言一句も改変することなく、全文をとってこれを用いた。まことに先輩の寛大これより過ぎたものはないといわなければならない。」(「大正文人と中国」)とやや公式的な感謝の念が書かれているのみである。
そもそもこの本は折々に触れての単文をまとめたもので、議論がどうこうという性質のものではないので、印象に残った部分をいくつか取り出してみよう。
奥野信太郎にとって維新の歴史に名を残す橋本左内は大叔父に当たる。奥野信太郎の母親が左内の姪であった。つまり、左内の末弟である綱常が祖父であり、この綱常は長い間ドイツに留学し、日本で最初の医学博士となった人物である。森鷗外のドイツ日記を見ると、ドイツでいろいろ鷗外の面倒を見たことが記されているという。
関東大震災が起こる前のこと、神田今川小路の裏通りには、中国人の経営する料理店や雑貨商などがたくさん集まっていたという。なかに源順号という文房具から乾物まで何でもそろえているよろず屋があった。奥の薄暗いところには本も置いてあったが、ありふれたものしかない。しかし、驚いたのは、店番をしていた非常に美しい十八、九の中国娘が、「杏花天」という中国でも有名な好色小説を読んでいたことである。そこでその頃は持ってもいなかったし、読んだこともなかった『金瓶梅』があるかどうか聞いてみた。すると、ありますよ、と流暢な東京弁で答えて取り出してきた。『多妻鑑全集』という題で、公の目をはばかったものか、そうした題で売られていたらしい。
中国と日本の幽霊話の相違。日本では幽霊になるに至る過去の因縁について多く語られるが、中国の幽霊話の重点は、幽霊がどんな出現様式を採るかに置かれているという。その様式が変わっており、珍奇であればあるほど上乗な話として歓迎されるという。
久保田万太郎は、梅原龍三郎宅で、赤貝をのどに詰まらせて死んだが、そこに奥野信太郎も同席しており、、救急車で慶応病院まで付き添った。
西銀座に『ロンシャン』というバーがあった。十二、三人のホステスがおり、K子という女性が、奥野信太郎の担当になっていた。その娘とたまたま電車で出くわしたことがあった。そして、彼女の口から「先生、聊斎志異って、中国文学のほうでは有名なものなのでしょうか」と聞かれてびっくりする。K子は、古くから『聊斎志異』の研究家として有名なH氏の娘らしいのだ。H氏は三十年近く中国で医業に従事していたが、『聊斎志異』にとりつかれ、多くの資料を集めていた。戦争の状況が思わしくなくなり、日本に引き揚げるとき、駄目で元々と半ばあきらめて集めた資料を日本に送った。ところが、いかなる僥倖か、荷物は無事に届いた。戦後の混乱を乗り切る生活のたつきとして、一括して買い取ってくれるところを探しているという。京都大学やハーバート大学などとも交渉しているらしい。百万という言い値の金策に困り切っているときに、なんとかしましょう、と請け合ってくれたのが東都製鋼の藤川一秋だった。そこで慶応大学に『聊斎志異』関係の一大集成がとどまることになった。少し後の、また別の文章で、H氏というのが平井雅尾という人物であることが明かされている。
年少の頃から、奥野信太郎の敬慕していた中国詩人は李商隠であったという。「当時わたくしはホセ・マリア・デ・エレディアや、テオフィル・ゴーティエの詩を耽読していた。そしてそうしたパルナシアンの詩人たちの、いわゆる古典にすがる発想を、李商隠の詩を解する上に移して、いささかの安心と得意とを獲得していたのである。」と書いている。ここでまたもや思い出されるのは和田晃先生のことである。先生もまた李商隠をお好きであった。これもまた酒の席であったが、李商隠の詩を朗々と詠じられたことがあった。自らの非才を恥じるのみ、せめて題名だけでも聞いて書き留めておけばよかったものを、うかうかと聞き流し、どの詩であったかいまとなっては見当もつかない。
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