2017年7月7日金曜日

各人の選択――クリント・イーストウッド『ミリオンダラー・ベイビー』(2005年)



 おそらく、最初から最後までナレーションで語られる唯一のクリント・イーストウッドの映画だと思う。しばらくすると、それがモーガン・フリーマンの声だということがわかってくるのだが、ナレーションというのはおおよそ、事の次第を物語るものであり、すでに過ぎ去ったことを語るものであることに加え、抑制された声の調子はどことなくエレジーを唱しているように感じられる。映画が進んでいくに従い、語り手たる彼が、よほどのことがなければ動揺することなく、決して充足しているとは思えない自らの生活をある決断を持って肯定していることがほの見えるに従って、その感じはいよいよ強まっていく。

 リングと練習器具を備え付けただけの倉庫のような場所で、イーストウッド演じるフランキーは、ボクシング・ジムを経営している。フランキーについては、試合中の出血を止めるカットマンとしては伝説的な人物であり、もっとも優秀だという評判を得ている。ボクシングの指導や作戦についても的確なことから、実戦の経験があるとも思えるが、過去について触れられることはない。ただ、疎遠になった一人娘がおり、毎週手紙を送っているが、受け取り拒否で戻されてくること、良き相棒であり、ジムの雑用をこなしているモーガン・フリーマン演じるスクラップは、かつてボクサーであり、フランキーがセコンドについていた試合で、片目を失明したことだけが伝えられる。ジムの稼ぎ頭であるボクサーはすでに世界チャンピオンに挑戦することは可能だが、大事をとって数試合をこなした上で、挑戦しようとするフランキーの方針と対立し、大手のジムに移籍してしまう。

 そんななか、ヒラリー・スワンク演じる女性ボクサー、マギーが入門する。「女は取らない」とすげなく追い返したフランキーの言葉にあきらめることなく、ジムに通い、不器用な練習を繰り返していたのだ。さらに「三十一歳」だと年齢を聞き、「遅すぎる」と再び断り、女性を取るトレーナーを紹介しようとまで申し出るのだが、よほど見込んだものと見え、フランキーでなければだめだと頑なに通い続ける。確かにボクサーとしてはいくらか薹が立っているが、自称するだけの力とガッツとがあることは認めざるを得なくなる。それでは基本だけは教えてやる、と肩入れがはじまり、試合も観客として見ておられず、セコンドにつくことになり、薫陶よろしきを得て連勝を重ね、ヨーロッパ各地へも遠征し、ラスベガスで世界チャンピオンに挑戦するまでになる。そして、ある出来事が起こり、フランキーは選択を迫られることになる。


 実際、フランキーはある選択をするのだが、それに、彼は二十年以上にわたって毎日教会に通い、神父に宗教問答を仕掛けては迷惑がらせているが、スクラッチの試合を、止めることができたのに止めなかったことで、彼の片目を失わせてしまったこと、そのほか、いくつもの罪の意識をもっているようであり、選択に際して神父に相談をするのだが、イーストウッドに特有なのは、宗教に解決を求めないことにある。別の言葉で言えば、悲劇におけるようなカタルシスをもたらしてはくれないのだ。そこに支配しているのは、神、あるいは運命の摂理ではない。根本的な選択は既にマギー自身によってなされている。マギーは、いわゆるホワイト・トラッシュの出身で、幼いときからウェイトレスの生活を続け、家族はボクサーになった彼女を祝福するどころか、自分の生活のことしか考えず、しかも彼女が稼いだ金を貪欲に巻き上げようとする。そんな彼女にヨーロッパの地を踏ませ、信頼の絆をもたらしたのはフランキーだった。それゆえ、マギーは自らが意味を見いだしたものに準じて選択をし、その選択に荷担するようフランキーに委ねるのである。そして、フランキーもそこに見いだした意味に準じて彼自身の選択をする。そこには個人対個人の、社会的、道徳的、あるいは宗教的大義、正義、価値に較べればこの上なくもろいつながりしかない。同じく、最後の場面にいたり、そこにある意味を見いだしたスクラップが、またこの上なくもろい通信手段によって、そして、その意味を受け取ってくれるかどうかは最後までわからないのだが、誰にこの出来事を語っているのかがわかるときに、その意味は宙づりのまま観客に差し出される。

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