2017年7月10日月曜日

アキレスと亀――B・L・ウォーフ『言語・思考・現実』(1978年)



 原著は1956年に刊行されたもので、1930年代、40年代の論文が含まれている。

 私が学生のときには、『ゲーデル・エッシャー・バッハ』やドゥルーズ=ガタリがベストセラーになり、『GS』や『エピステーメー』などといった高級思想雑誌が刊行される珍妙な事態が起きていた。いまと比較すると隔世の感があるが、より大きな文脈で考えると、若い世代が思想的なものに飛びつくのが明治以来の通例だったとすると、あるいは最後のあだ花だったことになるのかもしれない。私はこのいわゆるニューアカの世代からは少々遅れていたし、その頃は少々馬鹿にされていたサルトルなどをせっせと読んでいたので、脇目でぼんやり見ていたに過ぎず、むしろ、デリダなどは最近になって読むようになった。

 当時、言語学といえば、圧倒的にソシュールの影響力が強かったが、私はむしろチョムスキーを好んで読んでいた。しかし、その影響の広がりということでいえば、圧倒的な差があって、ソシュールが瞥見した一般記号学を展開して見せたロラン・バルトなどは非常に刺激的だったが、チョムスキーの後継者たちはいたずらに専門的になるばかりで、大量の記号と図式を見るだけでうんざりした。二人とほぼ無関係なところに立つウォーフは、ソシュールのように言語を差異的な体系とみることも、あるいはチョムスキーのように生得的な言語能力を想定することもなく、文化人類学の方法を援用しながら、言語と世界観を直結させるいい意味でも悪い意味でも形而上学的な側面がある。それはある意味、スタニスワフ・レムやストルガツキー兄弟のSFのように異文化、異世界との出会いを描いたものとも読める。

 ウォーフは1897年、ソシュールの40年後に生まれている。根っからの言語学者ではなく、言語学者と名乗ることもなかった。大学卒業後には、火災保険会社に勤めており、そこである種の言語学的な疑問にとらわれたのだという。火災の原因となるものには、もちろん、配線の不具合といった物理的な原因に帰せられるものもあるが、「言語的意味」に関わるものも多いことが明らかになってきた。たとえば、「ガソリン缶」の貯蔵庫の近くでは、十分な注意が払われる。ところが「空のガソリン缶」の貯蔵庫の近くでは、煙草が吸われ、吸い殻が無造作に捨てられる。だが、実際には、揮発されたガソリンが充満した缶は、実際にガソリンがはいった缶よりも危険である。これは「空の」ということが、「無で空虚な、否定的の、不活性の」という意味をもつ世界観のうちに我々が生活しており、同じ「空の」ということが、液体の半端なゴミにも適用されたために危険が生じた。

 言語とは世界観と直結しており、世界観とはいわば方言でしかない。西欧で長らく常識とされてきた形式論理や数学的基礎は、すべての人間にとって共通であり、種々の言語はそれをやや異なった形であらわしているに過ぎないとされてきた。それらの背景をなす空間と時間もまた自明のものとされる。ところが文化人類学的調査によれば、それは必ずしも自明ではない。ウォーフによって有名になったネイティブ・アメリカンのホーピ族の言語によれば、西欧で「客観的」とされ、時間、空間、実体、現実などの名詞であらわされていることは、出来事における「望むこと」とでも訳されうるものの複雑さと強度によって定められる。基本的に過去から未来へ向けて一筋に進む時間に相当する語はない。「望むこと」と「実現すること」だけがあり、植物が芽吹くように、望むことを強度にして空間=時間において実現されていく出来事があるだけである。たとえば、「客観的」には遠くの村で同時に起こった出来事は、いまここで起きたものではなく、後になってはじめて知りうるものであるために、より離れた我々が言う過去のものである。

 この結果、西欧文明にとってはおなじみの次のようなもの、すなわち、
 1.記録、日記、簿記、会計、会計によって刺激され生じた数学。 2.正確な継続、日付、こよみ、系図、時計、時間始、時間単位のグラフ、物理学でいう時間。 3.年代記、歴史、歴史的な態度、過去に対する興味、考古学、過去に自己を投入する態度、例えば、古典主義、ローマン主義。
などは成り立たなくなる。


 言語と世界観とが重なり、人間が言語的動物であることが認められるなら、およそ人間がつくりだし、そこにある種の構造、働きと背景があるものは、言語=世界観の類同物だといえる。そうした類推により、ファッションのなかに言語に似た意味づけを見いだしたロラン・バルトは『モードの体系』を書き、ドゥルーズは運動-イメージと運動-時間という二つの軸によって映画の世界観を解き明かした。しかし、世界が変化するに従い、世界観も変化し、人間の置かれた状況が変われば言葉も変わっていく。バルトにしろドゥルーズにしろ、ファッションや映画の教科書を書いたわけではなかった。彼らが置かれた世界におけるある領域の世界観を描きだしたのであり、アキレスが亀に追いつくことはないのである。

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