2017年7月14日金曜日

おととい抜け落ちたはずの青春――山下敦弘『リンダ リンダ リンダ』(2005年)



 私には青春時代がすっぽり抜け落ちている。性欲と自意識はありあまるほどあったが、葛藤を抱え込んだ記憶がない。楽しくはなかったが、さりとて苦しくもなく、自分のことも含めて無関心に過ごしていた。生の諸段階として、少年と老年しか認めていなかったから、自分も含めて青春の生臭さは嫌悪していた。というと、それこそ青春らしい潔癖さということになるのかもしれないが、身を律するような厳しさはなく、いやなことは避けていたという程度のことであり、およそこの時期にコミットすることを促すような出来事に出会わなかったのでもあろう。

 そんなわけで、青春映画は苦手で、事実そのジャンルで印象に残るような映画を思い起こせない。『時計仕掛けのオレンジ』をあげるのもおかしいだろうし、ゴダールやトリュフォーでも、初期の作品はそれほど好きでもない。しかし、慚愧に堪えないのは、もはや中堅監督といってもいい山下敦弘監督について、ノーマークだったことだ。『リンダ リンダ リンダ』にしても、「リンダ・リンダ」、女子高生、バンド、文化祭と紹介されていることですっかりわかったつもりになっていたのである。この映画の後に、『もらとりあむタマ子』、『リアリズムの宿』『苦役列車』『松ヶ枝乱射事件』と続けてみて、日本映画で最も関心を持つ監督の一人になった。

 タイトルが出て、主人公の一人が、教室の廊下を歩いて歩いて、いくつもの教室を越え、二つの教室で窓越しに、友人らしき人物と短い会話を交わし、再び階段の方へ向かう様子を1カットの移動撮影でとらえたときからすでに目は釘付けになってしまった。映像そのものの力をこれほど感じたのは、日本映画では北野武以来である。

 女子高生バンドが文化祭に向けて準備をしている。ところが、メンバーの一人が手にけがをし参加できなくなり、仲間のなかでも仲のよかった二人が喧嘩をして、一人が抜けてしまう。残ったメンバーは三人、肝心のボーカルがいなくなってしまった。喧嘩して残った方の一人(香椎由宇)はなかば意地になり、さして知りもしない通りがかりの女の子に声をかける。ところが、その女性、こともあろうに、日本語が堪能ともいえない韓国からの留学生だった(ペ・ドゥナ)。オリジナル曲はあきらめ、カバー曲で妥協するにしても期日は迫る、朝から晩まで練習しなければならない。連日の練習で、本番当日、一休みするつもりで寝過ごしてしまうが、友人が、アカペラで、留年した先輩が弾き語りで間をつないでくれる。


 舞台は体育館で、地方の高校の学祭が、ライブ・コンサートのように満杯になるわけではない。突然の豪雨で、多少増えた観客の前で、演奏が始まるが、キラー・ソングであるブルーハーツの『リンダ リンダ』を最後の曲に使うのではなく、より主題にふさわしい『終わらない歌』で締めくくっていることも心憎いところで、その曲のあいだに挿入される無人の学校の各場所ショットの積み重ねが、空虚ではない、降りしきる雨が上げるしぶきにも似た何かに充填された空間として圧倒的である。また、演奏の映像が、舞台を下手からとらえたものか、半分くらいに詰まった体育館の背後からのもので、ライブの映像によく用いられる、舞台の枠にきちんと収まったものが周到に避けられているのは、女子高生たちの演奏が、最初よりは上達したとはいえ、決して上手であるとはいえない演奏だとしても、そんなことは関係なく場を支配できるが、文化祭というもので、うまい演奏などではなく、彼らが不器用ながらも作りあげていった人間関係が学校という小さな世界に共有されることが彼らの勝利であり、映しだされるのはあくまで演奏する彼らを含めた場なのだということを示していて、こういう映画を見ると、抜け落ちていたはずの青春が幻肢痛のようにしくしくとする。

0 件のコメント:

コメントを投稿