「○油地獄を言ふ者多く、かくれんぼを言ふ者少し。是れわれの小説に筆を着けんとおもひ、絶たんとおもひし双方の始なり、終なり。」と『日用帳』で緑雨は書いている。もっとも、発表されたのはどちらも明治二十四年で、三十六年ばかりの生涯の、二十歳代の中盤で、小説に距離を取り始めたことを示している。坪内逍遙、二葉亭四迷、森鷗外のように、海外の文学の現物に直接触れることはなかったであろう緑雨には、モデルとなるべき小説像を最後までもつことができなかった。たとえば、『小説八宗』でされたように、「煙管を持た莨を丸めた雁首へ入れた火をつけた吸つた煙を吹いた」と二葉亭四迷の文体パロディーをするところなどは、鋭いが、『古今集』をもとに狂歌をつくり、唐詩をもとに狂詩をつくった天明の文人とさほど径庭はない。むしろ、希有とすべきは、百家争鳴たる当時の文壇で、江戸趣味とレトリックで伍していこうとしたところにある。
実際、『油地獄』と『かくれんぼ』はどちらも遊里を舞台にした小説であり、しかも主人公となる男の運動の姿が正反対だというだけで、内容的にはさしたる相違はない。確かに『油地獄』には書生は出てくるが、坪内逍遙や二葉亭四迷のように、それをもって現代の風俗を描こうという意図はない。
『油地獄』は目賀田貞之進という男が主人公で、法学を学んでいるが、『当世書生気質』の登場人物たちのように、酒を飲むことと議論とに明け暮れているわけではない。信濃の田舎の富豪の家の一人息子で、金には苦労がないが、特に好んでいるものはない。社交性がある方ではなく、学生仲間と友だちづきあいを熱心にするのでもない。そんな彼が、東京にも慣れてきて、知り合いも数人できたので、在京長野人の春期懇親会に出席することにした。そもそもが引っ込み思案だから、見知らぬひとばかりの会に出たところで、うまく立ち回れるはずもない。懇親会は百名以上を集めたなかなか盛大なもので、講談と落語の余興が終わった後には、食膳と酒が出て、芸者も呼ばれている。そこで貞之進のいる方にお酌にまわっていたのが、柳橋の小歌という芸者で、彼はすっかり恋をしてしまった。ところが、愚直一方なので芸者を呼ぶ算段がわからない。下宿をしているところのお上さんがむかし茶屋奉公をしたのを思いだし、なんとか一通りの知識を手に入れた。それでなんとか小歌を呼べて、再会を果たせばそれで満足かといえばそんなはずはなく、ますます小歌のことを思うようになった。しかも根が「愚直」であるから、客商売のお愛想がわからない。てっきり相思相愛の仲だと独り決めにしている。それからは茶屋通いの金のために、里には嘘をつく、顔見知りの間を借りまくる。一方、小歌の方は、男を手玉に取る毒婦といった大層なものでもなく、普通に客に接するように接しているに過ぎないので、別に旦那がちゃんといる。いよいよ金にも切迫し、小歌にも会えないとき、新聞で、小歌が身受けされたことを知る。それから貞之進は頭から布団をかぶって寝込んでいたが、夜の一時頃、火鉢へ山のように炭を積んで火をおこし、載せたのは油の入った鍋、ぶつぶつ煮え立った油に投げ込んだのは小歌の写真、それから病の床につき、夜昼となく「あの小歌めが、あの小歌めが」。
小歌の身受けを知ったときの貞之進は、「嘘であるべく願つて居た疑ひの方からすれば、それが実であつたゞけで小歌の廃業に就て怪む所はないが、実であるべく祈つて居た打消しの方からすれば、それが全く嘘であつたので、約束したでもないことが心変りかのやうに思はれ、為に貞之進は殆ど狂する如くで、外に忿怒の色の現れるだけそれだけ、内に沈鬱することの倍〃多きを加へた。」と描かれるが、つまるところ、内実は嘘も実も、約束も心変わりもない。心中もののように、男女の纏綿たる情緒があるわけでもなく、かといって、芸者とのあいだの技巧的な関係が描かれるのでもなく、他者を欠いた砂上に楼閣を築こうとしているよう小説である。
同じく『かくれんぼ』もまた、山村俊雄という「ふところ育ち」の男が、芝居の帰りに飯だけでもと上がったところから、小春となじみとなり、お夏とも関係を持ち、いったん仲直りをするが、今度は秋子にちょっかいをだし、小春お夏に踏み込まれてもさして痛痒を感じないらしく、冬吉の所に転がり込み、一緒に生活してみると、冬吉のくどいのにも飽きて、冬吉の妹分の小露に手を出し、例によって知られて修羅場が始まり、実家に戻ったまではいいが、二、三月もし、山村君どうだね、と誘われれば、ふらふらと出かけ、俊雄のどこかに残るおとなしい育ちを見て取ったのか、一日だけでいいからあの方と遊ぶ手立てはないものでしょうか、と雪江が姉分のお霜に相談をかければ、承知と呑み込んだお霜の方と通じ、二人に詰め寄られて、冬吉のもとに転がり込み、彼こそ後に小百合と呼ばれることになる名代の色悪なのだといわれる。もはやここには、嘘と実、約束と心変わりすら持ちだされることはなく、女性は記号化され、山村俊雄は記号を扱う手、つまり齋藤緑雨と見分けがたくなっている。
『油地獄』では貞之進の執念が凝り固まって、油地獄を現出させたが、作者の握る筆記具のなかにしかいない山村俊雄は、かくれんぼで勝ちを得続ける。しかし、それは現実の細部を洗い流した、ごく抽象的な、書くことによって自律するような作品であって、多作することも、長編小説への試みも許すものではなかった。
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